ギリシア正教の修道院を訪れて
■メテオラの修道院
4月2日から9日にかけて、念願のギリシアを旅するツアーに参加することができた。総勢33人で、これに添乗員が加わった阪急Trapicsの旅行である。カタール航空で関西空港を深夜に出て、11時間ほどでアラビア半島の北東沿岸にあるドーハに着き、そこで乗り換えて、ドーハからアテネまでほぼ直線に4時間ほどでアテネ空港へ着いた。
ギリシアのツアーと言えば、アテネのアクロポリスを始め、古代ギリシアの遺跡をめぐり、散在する島々をクルーズするというのがほぼ定番になっているようだが、このツアーでも、アテネ周辺の島々を巡る1日クルーズが組み込まれていた。幸いそのクルーズの日が、アテネで2連泊する1日だったので、わたしはその日(4月7日)だけツアーを離脱して、アテネから郊外電車で1時間ほどのところにあるコリント(現在名コリンソス)の遺跡を訪ねることにした。パウロのコリント書簡の舞台になっている遺跡を見るのが旅の目的の一つだったからである。
このツアーには、ギリシア中部のメテオラにある幾つかの修道院とデルフィーにほど近いエリコン山の麓にあるオシオス・ルカス修道院の訪問が組み込まれていた。ツアーは、アテネのアクロポリスとそこに建つパルテノン神殿から始まる予定であったが、それが急遽変更になり、着いたその日に、アテネ市内の国会議事堂と先に開催されたアテネ・オリンピックの真新しい建物を見ただけで、わたしたちはそのままバスで、ギリシアの中部深く入り込んだメテオラ修道院を訪れることになった。日本からの長旅に続いて、アテネからメテオラ修道院の近くのカランバカまで行くのだから、ホテルに着いたのは現地の3日午後8時頃だった。少し疲れたものの、お陰でギリシア中部のテッサリアの平野とギリシアの田舎の風景を堪能することができた。
翌日わたしたちは、ルサヌー女子修道院とメタモルフォシス修道院(別名メガロ・メテオロン修道院)とを訪れた。どちらも、険しいと言うより切り立った断崖絶壁の岩山の上にあるから、今では石段が造られているとは言え、150段ほどの急な階段を登ることになる。わたしにとっては、初めて訪れるビザンティン・キリスト教の流れを汲む本格的なギリシア正教の修道院である。始めに訪れたのがルサヌー修道院である。岩山に孤立する美しい黄褐色の修道院の内部に入ると、決して広くはないドーム型の本堂は、フレスコ画のイコンと聖画で埋め尽くされていて、それらが外部からの淡い光を受けて、不思議な荘厳さを漂わせて、見る者を包み込んでいく。
この不思議な感動は、次に訪れたメタモルフォシス修道院で、いっそう強められた。この修道院は、別名「メガロ・メテオロン」(大メテオラ)が示す通り、幾つもあるメテオラの修道院の中で最も規模が大きく、聖アサナシオスによって1388年に創立され、わずかな数の修道士たちによって1484年に完成したと言う。 ギリシアは、14世紀の中頃から18世紀の初め頃まで、およそ400年近くもトルコの支配下に置かれていた。イスラム教の支配者の下にあったギリシアのキリスト教が、厳しい監視と迫害を体験したことは想像に難くない。トルコ東部のカッパドキアにも奇岩群が林立していて、そこには数多くの洞窟教会の跡が現存している。中には美しい聖画が壁一面に描かれているが、それらには、目をかき消されたり頭部を削り取られたりした跡が今も生々しく残っている。ギリシアとトルコとの協定によって、そこに住むキリスト教徒たちはギリシアに移住させられたから、カッパドキアには壁画で飾られた多くの洞窟と迫害に耐えた地下都市の跡だけが、そこで信仰の闘いを続けた人たちの跡を今に伝えている。
トルコによるギリシアの侵略は、実際は14世紀よりも早い時期からしばしば行なわれていたらしい。メテオラの岩上に建つこれらの修道院は、そういう厳しい状況の中で、ギリシアのキリスト教の生き残りをかけて守り抜かれてきた。これらの修道院は、ひたすら祈りに徹する修道僧たちによって支えられてきたが、修道院と彼らの存在は、イスラム国家に支配されていたギリシアの人たちのアイデンティティの証しであり、ギリシア人の宗教と文化の霊的な支柱となってきたのは間違いない。地元のガイドさんの熱のこもった日本語の解説を聴いていると、そんな想いが伝わってくる。
メガロ・メテオロン修道院の本堂も、ルサヌー修道院のそれよりもやや大きいくらいである。絵はがきで見ると、色鮮やかな壁画と黄金に縁取られたイコンや祭壇の放つ絢爛に目を奪われそうになるが、実際にその場に立ってみると、天上から吊り下げられた巨大な燭台も、黄金の光を帯びた祭壇もそこに居並ぶ聖者たちのイコンも、薄暗がりの中でほのかな輝きを放つから、落ち着いた不思議な霊気が巨大なドームの中を包んでいる。大勢の人たちと共にいてもそうなのだから、実際に修道僧たちの祈りと賛美が響き、香炉から得も言えぬ香りが漂い、その声と香りの立ちのぼる薄暗がりの中から、ドームや祭壇や壁画が語りかけてくるのを体験すると、「神秘」(ミュステーリオン)の霊性が、不思議な輝きを放ちながら身を包むのを覚えるだろう。
■オシオス・ルカス修道院
メテオラを訪れたその翌日、わたしたちのバスは再び同じ道を引き返してテッサリアの平野を今度は南に向かい、パルナッソス山の麓にある有名なデルフィーへ向かった。ところが、その翌日デルフィーのホテルから向かったのは、そこの有名な遺跡ではなく、そこからあまり離れていないエリコン(古代名ヘリコン)山の麓にひっそりとたたずむオシオス・ルカス修道院であった。 ギリシア旅行と言えば、だれでも真っ先にアテネのパルテノン神殿や古代ギリシアの遺跡を思い浮かべるのだが、わたしたちの旅は、こういうわけで偶然にも、2箇所のギリシア正教の修道院を訪ねることから始まったのである。これは、わたしにとって望外の喜びであった。お陰でわたしのギリシアの印象は、ギリシア正教の修道院が与えてくれる霊性に接する体験が、そのイニシエーションになった。
オシオス・ルカス(Hosios Lukas)は、896年に、7人の兄弟姉妹の3番目の子として生まれた。彼は14歳で、二人の修行僧に従ってアテネに行き、そこで修行僧になった。その後も数年ずつで修行の場を変えているが、その間に二人の僧たちから「大いなる天使のご計画/召命」を教えられて、その啓示に与っている。しかし、その後もトルコの襲撃を避けて、デルフィーの南の地域に移り、ついに地元スティリオの人たちの要請を受けて、946年に49歳で、エリコン山の麓にある現在の地に修道院を構えることになった。とは言え、それはごく簡素で小さな教会堂で、彼はそこで自給のために菜園づくりをしながら、ひたすら祈り続けた。彼は生前にも数々の癒しや不思議な業を行なったようだ。彼の名声が広まり、このためにさらに大きな聖堂が建築され始めた。しかし彼は、その完成を見ることなく、自ら預言していた通り953年の2月7日に、56歳7ヶ月と8日の生涯を閉じた〔Paul Lazarides,The Monastary of Hosios Lukas. English edition. Trans. by Alexandra Doumas. Athens; Hannibal Publishing House. Since1957.〕。
この聖地を訪れてみると、現在は相当に規模の大きい修道院で、全体が黄褐色の石造りでできている。入り口の広場に面して高い鐘楼がそびえていて、大きなアーチの下に扉があり、中は、修道院で作った蜂蜜やオリーブなどを売る店になっている。鐘楼の側にある入り口から石畳の広場に出ると、そこがオシオス・ルカス修道院の本堂の入り口である。本堂は、エリコン山を背景にして、大きなドームを頂くギリシア正教の建築様式で、東西に向いて建っている。
入り口のある西面は、長方形の窓のあるアーチ型の造りが、下に三つ上に三つ並んだ構成になっている。その入り口をくぐると中へ通じる扉があり、その扉の上の半円形には、福音書を抱えたキリストの上半身が大きく描かれている。ビザンティン様式の伝統的なモザイクで描かれているから、ずいぶん古いものなのだろう。左手に抱えた聖書には、ギリシア語で「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)とある。キリストの頭の上はドーム型の天井になっていて四つに区切られている。キリストのすぐ頭上には処女(聖母)マリアが両手を広げ、彼女の反対側には、洗礼者ヨハネが巻物のようなものを持っている。洗礼者の顔はずいぶん若い。両側には大天使が描かれているが、ガブリエルとミカエルだろう。
絵はがきで見ると美しく黄金に輝くモザイク画であるが、薄暗い堂内では、深みを湛えた落ち着いた色合いに見える。キリストの像の下をくぐると、その奥には、さらにもう一つの部屋があり、そこから本堂へ通じている。この控えの間の扉の右側には赤い上着に青い外衣をまとったキリストの大きなイコンがあり、左側には処女マリアの絵がある。ここは無地の壁で、ドームを支える天上も無地である。比較的損傷が少なかったと言われるこの聖地でも、モザイクが失われてからフレスコ画に代わったというが、ここもかつてはフレスコ画で飾られていたのが、トルコ時代にはぎ取られたままになっているのかもしれない。
その奥が本堂である。本堂と言ってもそれほど広くないが、巨大なドーム型の天上が上から見下ろしている。ドームの真ん中の円にはキリストが、入り口のキリスト像と似た姿で聖書を抱えていて、「パントクラトール」(全能者)と呼ばれている。その周囲の円形には処女マリアと洗礼者ヨハネと4人の大天使たちが立っている。さらにその外側の円形には、幾つもの窓の間に16人の預言者たちがいる。ただしこれらはみなフレスコの壁画である。モザイクの絵も遺されているが、元の多くのモザイク画がフレスコに代えられたとのことである。
オシオス・ルカス修道院の本堂は、通路を通じて、もうひとつの処女マリアの教会へ通じていて、そこにはオシオス・ルカスの遺体が今にいたるまで安置されている。遺体は赤い布で覆われていて外から見ることはできない。処女マリアの教会の建造は、オシオス・ルカスの生存中に始まったが(946年)、聖人が召された後で完成した(955年)。ここはもともと埋葬室だったから、外からは壁で閉じられていたらしく、トルコによる破壊を免れた。このために色鮮やかな壁画が天井にそのまま遺っている。黄金を表わす黄色みを帯びた地色の上に赤や緑の色で幾何学的に区切られた天井は、鮮やかながら落ち着いた配色で、重苦しさがなく、全体が不思議な輝きを放っている。
わたしは、以前訪れれたトルコ東部のカッパドキアにある幾つかの洞窟修道院とそこに描かれていた壁画を想い出した。しかし、長い年月の迫害のためか、そこにはもうキリスト教徒はいない。さらに、まだ訪れたことはないが、ギリシア北東部のアトスには、小アジアから逃れてきた修道士たちが建てたと言われている幾つもの修道院があって、そこは現在でもギリシア正教の聖地になっている。カッパドキアからアトスへ、さらに、わたしたちが一昨日訪れたメテオラの岩山にある修道院へと、正教の長い苦難の歴史が一筋の糸のように繋がってくる。そして、人里離れた山の麓にひっそりと佇むこの修道院を観ていると、ここにはギリシア正教のすべてが凝縮している、という感じを受けた。
不思議なことに、巡礼の旅というものは、訪れたその時の感慨よりも、後になって想い出す度に、新たな霊性を帯びてよみがえってくる。ギリシア旅行の始めに体験したこの聖地巡礼は、今わたしの霊性に大きな恵みとなって注がれているのを覚える。
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