1章 へルメス思想について
 
ヘルメスについて
 現存する『ヘルメス選集』について記している文献は数多くあるが、「ヘルメス思想」それ自体について記してある文献は驚くほど少ない。「ヘルメース」(英語Hermes)は、ギリシア神話の男神の名前である。ギリシア語の「ヘルメース」は、ほんらい「解釈者」「調停者」を意味したようで、ラテン名は「メルクリウス」(英語Mercury)である。
  彼はゼウスの末っ子で、母はアトラース(地球)の娘マイアとされている。しかし、ヘルメスは、ギリシア人が半島に到来する以前の原住民の間では、ほんらい、地区の境界を示すために立てられた男根を象(かたど)る石柱であったらしい。この石柱をめぐって、古代の太母ヘカテー神(後にマイアと同一視?)の踊りが行なわれたと言う。伝承によれば、彼は、生まれたばかりで産着(うぶぎ)を抜けだし、アポロンが飼っていた牛の群れから何頭かを盗み出すほど「利発だった」とある〔高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』253頁〕。ヘルメスが、家畜や動物の守護神として「善い羊飼い」とされるのはこの伝承に基づくのかもしれない。
 ヘルメスは、人の死を告知し、人の霊魂を冥界に導く使者とされたが、同時に、大地の豊穣を司る自然神でもあり、優美の女神(カリス)たちの中の三美神を地下から地上へ連れ出した。ヘルメス神の働きは商業の智慧や竪琴・フルートの楽器演奏で知られるが、その活動は広範囲で、科学と芸術や技芸から、雄弁、戦略、策略、詐欺、盗みにまでいたる。
 エジプトの王朝が、アレクサンドロス大王の征服によってギリシアの支配下に入った前330年頃から、ヘルメスは、エジプトの男神トートと同一視されるようになった。大王は、その母から、自分がヘルメスの化身であると教えられたと伝わるから、このことと関係するのだろうか?
 トート/トトは、鳥の朱鷺(とき)の姿をしている〔日本語版『芸術と歴史の国エジプト』カイロ:ボネーキ出版(1997年)15頁図〕。古代から、どの国でも、鳥は「智慧」を表象する。円(月)を頭に頂いて、朱鷺の顔をした人の姿で描かれることもある。ヘルメスは、錬金術や占星術を司り、天界から冥界までを支配する「霊智」を司る神となった。エジプト生まれのヘルメス神話哲学を説いたのは「ヘルメース・トリスメギストス」(三倍偉大なヘルメス尊師)と称される教師だと伝えられている。エジプト神トートと習合したそのヘルメス神話哲学は、エジプトがローマの支配下に入った前1世紀頃から、地中海に面したエジプトのアレクサンドリアで、エジプト系の神官や祭司、ユダヤ系の思想家、ギリシア系の哲学者などによるグループの間で、その最終的な完成を見るにいたった。しかし、彼ら作者たちのことはよく分かっていない。
 ラテン名の「メルクリウス」は、錬金術では「水銀」(英語mercury)のことである。錬金術では、水銀は(男女)両性具有で、その流動性は、人の無意識に潜む「二重性」を帯びていて、人心の下部に潜む魔性から、人が、その感情や想像力へと純化されることへの類比だと見なされた。メルクリウスは、また、惑星の「水星」(英語Mercury)をも指す。水星は、地球を含む七惑星の一つで太陽に最も近いために「知的な活動」が活発であると言う。人間(ミクロコスモス)を大宇宙(マクロコスモス)と類比する存在だと見なす思想では、水星が宇宙の支柱(男根?)とされた。水星は、宇宙を構成するいわゆる「四大元素」(火と大気と地と水)を調和させ、天の十二宮星座では双子座(二重性格の表象)と処女宮を支配する。ヘルメスの霊智(ギリシア語「ヌース」)は、黄金の光を放つ蛇の姿で空中を舞うと言われる〔アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』山下圭一郎・他訳。大修館(1984年)424〜425頁〕。ちなみに、現在の国連の世界保健機関(WHO)の紋様には、蛇の絡みつくヘルメスの杖が表象として用いられている。
■その主な碑文と作品
 現存する主な文献資料を大別すれば、およそ次のようになるであろうか。ここでは、主としてThe International Dictionary of the Bible. Supplement(P.408)と荒井献・柴田有訳『ヘルメス文書』(朝日出版社)の解説と、インターネットで検索した"Hermetic Texts"などを参考にした。
(1)前3世紀頃のプトレマイオス朝のエジプトでは、エジプト神話のトート神(『ヘルメス選集』では「タト」)と、ギリシア神話のヘルメスとが同一視されていた。このために、「ヘルメス・トリスギトス」あるいは「ポイマンドレース」と称する宗教的哲人たちが語った言葉として(作者不明のものも多い)、陶器片や木片、石碑の碑文、パピルス断片、壺などに記されて遺されている。その内容は、紀元前の初期のものでは、錬金術(ギリシア・エジプトの)、占星術(ラテン語訳)、魔術(アスクレピオスの言葉)などの分野に及んでいる。紀元後1〜3世紀の比較的後期のものは、哲学的な内容のものが主である〔荒井・柴田訳『ヘルメス文書』解説16〜21頁を参照〕。
(2)いわゆる「ヘルメス諸文書(しょもんじょ)」は、聖なるパピルス文書(もんじょ)として神殿に納められていて、祭りの行列(とりわけ葬儀の列)では、大事な役割を担うものとして運ばれた。これらは、大量の文書の中の特定の選ばれた文書であったと考えられるが、現在では失われている〔インターネット版Hermatic Texts.による〕。
(3)ギリシア語の『ヘルメス選集』(Corpus Hermeticum=CH)。これは、現在に伝わる最もまとまったヘルメス思想の選集で、第T篇から第XVIII篇まで、長短それぞれの文書を集めて編纂されている(XV篇は欠番)。『ヘルメス選集』は、アレクサンドリアのキリスト教神学者クレメンス(2世紀後半)やキリスト教の教父アルノビウス(3世紀後半)やアレクサンドリアの主教キュリロス(4〜5世紀)などに知られていて、引用されている。なお、我が国では、現在、荒井献・柴田有訳『ヘルメス文書』朝日出版社(1980年)がある。これには、本文の訳だけでなく、詳細な注釈がつけられていて、聖書、プラトン、新プラトン主義、グノーシス系など、広範な分野の文献から、本文と並行する箇所の引用があげられている。訳者たちは、この選集の諸文書が、どちらかと言えば、グノーシス的な性格が強いと観ているようである。
(4)ラテン語の『アスクレピオス』(Asclepius)。これは、ギリシア語原典からのラテン語訳で、コプト語訳の断片もある。この文書は、キリスト教の神学者ラクタンティウスの書いたものやアレクサンドリアの主教キュリロスの著作に部分的に引用されているものだけが知られている〔荒井献/柴田有訳『ヘルメス文書』解説18頁〕。
(5)ナグ・ハマディ諸文書(the Coptic Nag Hammadi Codex VI) に保存されているもので、コプト語の「第八のもの(オグドアス)と第九のもの(エンネアス)」「感謝の祈り」「アスクレピオス」の三篇がある(題名の訳は荒井献・他訳『福音書』ナグ・ナマディ文書U:岩波書店(1988年)xxi頁)。
(6)前300年以降のギリシア系プトレマイオス朝のエジプトのアレクサンドリアには、70万巻とも言われる世界最大の図書館があった。不幸にもこの図書館は、アレクサンドリアが戦乱に巻き込まれた前47年に火災に遭い、その後、アレクサンドリアの図書館は、キリスト教が国教化された4世紀末に、キリスト教徒によって「異端思想」の図書館と見なされて焼き討ちにされた。しかし、いわゆる"Kybalion"と称されるものと、"Tabula Smaragdina"("Smaragd Tablet")と称される二部が残されて、今日に到っていると伝えられている〔インターネットHermetic Textsによる〕。
(7)このほかに、ヘルメス関係でよく知られているものに、「エメラルド・タブレット」(英語名The Emerald Tablet)がある。これは中世のヨーロッパから伝わるヘルメス哲学の碑文を刻んだ木片や石版のことである。しかし、これらの紹介の仕方は、はっきり言えば、秘義めいている。いわゆる「ヘルメス思想」が、現代まで、どのように受け取られているのか、その一端を知る上で興味深いから、インターネットで「エメラルド・タブレット」、あるいは英語でThe Emerald Tablet として検索して御覧になることをお奨めする。
 私が以下で扱うのは、上にあげた(3)の『ヘルメス選集』である。それもきわめて限られた部分の訳だけであるから、いわば『ヘルメス選集』の「匂いをかぐ」程度である。とは言え、この文書群の哲学的な特徴をよく表わしている第T篇と第XIII篇の全訳と、第U篇と第V篇の概略と、第IV篇の抄訳であるから、これだけでも、ヘルメス哲学の不思議な二元性の特徴を感じ取っていただけると思う。
 訳文の作成にあたっては、The Corpus Hermeticum. Translated by George Robert Stow Mead (1863--1933)のインターネット版と、荒井献/柴田有訳『ヘルメス文書』とを併用した。両者のヘルメス哲学への解釈の姿勢には違いがあると思われるので、訳文は、私なりに理解し、解釈したところに従った。また、随所に訳者の説明や原語のギリシア語(カナで)や補充を( )で挿入した。
■ヘルメス思想の構成原理
 以下で、英語版Wikipedia から、ある著書にあげられている「ヘルメス思想の七原則」を紹介する〔インターネットで"Hermes Trismegistus"と"the Kybalion"で検索〕。著書の表紙には大きくThe Kybalionとあり、その下に副題として: A Study of the Hermetic Philosophy of Ancient Egypt and Greece. (古代エジプトとギリシアのヘルメス思想の研究)とあり、その下にBy Three Initiates(三人の秘義参入者による)と著者名が記されている。表紙の下段には出版社として、The Yogi Publication Society. Masonic Temple: Chicago, ILL.の名称があげられている。どうやら、これは フリー・メイソン系の秘義者を名乗る者の著作らしい。「三名の秘義参入者」は偽名で、著者は、19世紀から20世紀初頭のアメリカで「新思想」を唱えたWilliam Walker Atkinson (1862--1932)であろうとある〔The Kybalion. the 7 Hermatic Principles. 2020-10-28〕。
 ヘルメス思想を構成する七原則とは、「霊智」(ヌース)、「自然」(フュシス)、「人間」(アントロポス)、「宇宙」(コスモス)、「神」(セオス)と「造物主」(デミウールゴス)、四大元素などが、どのような原理によって構成されているかを以下の七つにまとめたものである。
(1)万象は霊智現象である。宇宙は、霊智によって存在する。宇宙の本性は、人の霊智による認知作用にほかならない。この真理を把握する者は、全知へ到る道を先駆ける。
(2)対応の原理。天と地の相互対応。恒星以上の天の永遠性は、諸惑星の軌道の下で変遷する地上の有限性と対応する。
(3)振動の原理。全宇宙は振幅運動する。質量においても、エネルギーにおいても、霊性においても、あらゆる分野で生じる差異は、この振幅運動から生じる。
(4)二元性の原理。あらゆるものは二元性を具えていて、両極を持つ。それらの両極は相互に対立するが、似ていることと、似て非なることとは、同じである。対立とは、本性が同一で、その程度において異なることを言う。両極は、その極端において合致する。あらゆる真理は半真にすぎない。あらゆる背理は調和しうる。絶対なるものは存在しない。
(5)律動(リズム)の原理。あらゆるものは、外へ内へと流動する。あらゆるものには潮時がある。万物は上下に振動する。あらゆるものは振り子運動を呈する。
(6)因果の原理。あらゆる原因はその結果を伴い、あらゆる結果には原因が存する。あらゆるものは法則に従う。偶然とは、未だ知られない法則のことである。原因と成るものには様々な分野があるが、法則を持たない分野は一切存在しない。
(7)男女性の原理。あらゆるものは性を具えている。あらゆるものには男性原理と女性原理が具わる。すべての分野は性(ジェンダー)を呈し、人それぞれに男女(おめ)両性が具わる。
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