2章『ヘルメス選集』について

■選集の成立年代
 
欠番を含む十七の文書の中で、魔術や占星術にかかわるものは前3世紀頃にさかのぼるものもあるが、哲学・宗教に関するものは後2~3世紀のものと見なすことができるから、全体として前3世紀~後3世紀の文書だと考えられる〔荒井・柴田訳『ヘルメス文書』解説21頁〕。したがって、これらの選集の哲学的な部分は、おそらくヨハネ福音書の時代(1世紀の90年代)よりも後の時代に書かれたものであろうが、そこに盛られている思想は、それ以前にさかのぼると言えよう〔C.H.Dodd. The Interpretation of the Fourth Gospel. pp.12-13. 〕。
■選集の作者たち
 
『ヘルメス選集』の作者たちは、厳密に「学派」と呼べるほどのものを形成していたのではない。ヘルメス「教団」なるものが存在して、そこでこの選集が「聖典」として語られた形跡もない。これら選集には、共通の認識も一貫した哲学大系による一致も見ることができない。しかし、それらの文書は、共通する宗教哲学的な内容を分かち合っている。紀元前から紀元後にかけて、ローマの影響下にあったエジプトのアレクサンドリアを中心に、独特の宗教的とも言える信念に基づく知的な人たちがこれらの選集を書いた〔C.H.Dodd. Interpretation of the Fourth Gospel. pp.12-13. 〕。作者たちの中で、代表的なのは、アレクサンドリアの神官と祭司たちであろう〔荒井・柴田訳『ヘルメス文書』解説27頁〕。アレクサンドリア在住のユダヤの哲学者フィロン(前25~後45/50年?)については、彼の思想の<非>ユダヤ的な部分に、これら諸文書の影響を見ることができるが、フィロンとヘルメス選集の著者たちが「直接に」影響し合った痕跡はない〔C.H.Dodd.前掲書 〕。
 ユダヤ人説については、次のような見方もある。ヘルメス文書、中でも(Ⅰ)「ポイマンドレース」と(Ⅱ)「アスクレーピオス」と(Ⅲ)「聖なる教え」の三編は、アレクサンドリアのユダヤ人によるものであろう。従来、これらの編には、「神々」とあり、また、ギリシア的な「自然」が出てくるという理由で、これらの文書を「唯一の絶対神」を信奉するユダヤ人に帰することをためらう傾向があった。しかし、真に問われるべきは、ユダヤ人が「神々」などと言うはずがないという思い込みではなく、どうして、ユダヤ人がそのようなことを言うのか?と考えるほうである〔The Kybalion 〕。
 私たちがそこに観るべきは、諸宗教をユダヤ教の信仰へ習合させるユダヤの思想家たちの驚くべき造神話力である。キリスト教神学者たちが、「ユダヤ人の絶対的な一神教」を前提として見ている限り、ユダヤ人の驚くべき知恵の深さと霊的な洞察力を見抜くことはできない。これらのヘルメス文書から、アレクサンドリアのユダヤ人たちは、古代エジプトやギリシアの諸神話と宗教と、伝統的なヘブライの宗教とをみごとに習合させていたことが読み取れる。それゆえに、ヘルメス文書群は、キリスト教から異端として排除されたグノーシス主義との同一視を免れて、中世のキリスト教世界から近代にいたるまで、カバラ思想を含むヨーロッパの思想の背景となりえたし、ルネサンス期にはフィチーノに受け継がれ、16~17世紀のイギリスのルネサンスの思想的環境となりえた。その影響は今も持続している。人間の「ヌース」(英知/霊知)の働きが、それ自体で不思議な存在意義と現実性(リアリティ)を有することをユダヤの「知恵思想」は早くから知っていたのである。この知恵は、キリスト教が異端として排除したグノーシスへ向かうこともありえるが、それとは逆の方向へ向かうことで、ユダヤ教の信仰を支え、さらにはキリスト教の信仰を支える力として働くことができる。
■選集の構成
 
以下に、『ヘルメス選集』の各編の表題(あるいは表題が欠ける場合はその内容を表わす)をあげる。表題と内容は、荒井・柴田訳『ヘルメス文書』(34~36頁)とG.R.S.Meadのインターネット版の両方を参照した。
(Ⅰ篇)ポイマンドレースであるヘルメス・トリスメギストス。
  「ポイマンドレース」は伝統的に「人間の牧者」"the Shepherd of Men" と訳されている。ただし、最近では、このキリスト教的な(?)題名の訳は適切でないという見方もある。
(Ⅱ篇)表題欠。内容はアスクレピオスに向けて。
(Ⅲ篇)聖なる教え。
(Ⅳ篇)クラテール(大杯)。あるいは「一なる者」。
(Ⅴ篇)ヘルメスから子タトへ。あるいは「現われざる神こそ最も明白」。
(Ⅵ篇)善は神にあるのみ。ほかにはどこにも。
(Ⅶ篇)人間の最大の悪は神への無知。
(Ⅷ篇) 存在するものは滅びないが、人は誤ってそれらの変遷を「滅び」あるいは「死」と呼ぶ。
(Ⅸ篇)(人の)思考と感覚について。
(X篇)(ヘルメス・トリスメギストスの)鍵。
(XI篇)霊智(ヌース)からヘルメス・トリスメギストスへ。
(XII篇)ヘルメス・トリスメギストスからタトへ。あるいは「人に共通する叡智(ヌース)」について。
(XIII篇)山上での聖なる教え。あるいは「ヘルメス・トリスメギストスが子タトに語った秘義、すなわち再生と沈黙の誓い」。
(XIV篇)(ヘルメス・トリスメギストスから)アスクレピオスへの書簡。
(XV篇)欠番。
(XVI篇)アスクレピオスからアモン王に宛てた諸定義(の書簡)。
(XVII篇)表題欠。内容はタトと王の対話。
(XVIII)王たちへの賛辞(楽器演奏の不調と人の身体の弱さについて)。
■選集の内容
 
『ヘルメス選集』は、ギリシアとオリエントとが混淆した、ヘレニズム・ローマ時代の思想をよく表わしている。神の「力」(デュナメイス)や「エネルゲイア」は、コスモスに浸透しているものであり、時には永遠の光から発する光線としてこの世に差し込む。万象に行き渡る神の「ロゴス」は、善なる神であって、地上のものから完全に超越している。しかし、「大気」と呼ばれる空間は、万物が生じる場であり、いわば、そこが、第二の神(デミウールゴス)の創造の場となる。ここでの創造主(デミウールゴス)の働きは、宇宙の全総体(ト・パン)と万物の諸現象との間を仲保する役目を持ち、全総体は、神、永遠、コスモス、時間、生成という構成を採る〔荒井・柴田訳『ヘルメス文書』257頁〕。ここでの霊智(ヌース)とは、神が人間に探求するように求めているもので、人はヌースの鉢に自らを「浸す」「バプテスマする」必要がある。人の魂は、霊智(ヌース)の内に浸されて初めて、神を見ることができ、この霊智(ヌース)にあずかることで初めて、完全なものになることができる。
 エジプト、ペルシア、ギリシアでは、「ロゴス」は「発声された」言葉のことではない。その意味で、『ヘルメス選集』が言う「ロゴス」は、神の「映像」を表わしている。神は人間に、人間に具わる感覚的な身体を超越したある種の不思議な「聖なる(人間)存在」を天に備えていて、人間が、これに到達することを求めている。宇宙(コスモス)は、動物よりもすぐれているが、人間は、霊智(ヌース)を持つことで、その働きにより、宇宙(コスモス)よりも上に立つことができる。
 『ヘルメス選集』の世界は、ほんらいのギリシア神話の世界とも、プラトンやそこから生じた形而上哲学、例えば、プロティノスの新プラトン主義(Neoplatonism)とも同じではない。また、グノーシス主義とも一致しない。『ヘルメス選集』の最大の特徴は、人間と(12篇/13篇)、霊智(9篇/10篇)と、人体を含む自然界と、宇宙全体とに具わる二重性(10篇/11篇/14篇)にある。
 『ヘルメス選集』第一篇(14)で語られている(霊智の)人間と、その写しである自然性(フュシス)の間に生じる「愛」は、ギリシアのナルキッソスの神話を用いて描かれている。その愛を「愛欲」と解釈する説もあるが〔柴田14篇の注釈〕、これは、グノーシス的な視野から観て、堕落した感覚的な身体に囚われた霊魂を想定した解釈であろう。しかし、『ヘルメス選集』では、むしろ、彼(人間)と彼女(自然性)との愛の交わりが美しく描かれている。そこでは、人間の美しい姿を愛する「自然」とこれに住み着いた人間とを肯定的な視野から観ている〔The Corpus Hermeticum. Translated by George Robert Stow Mead (1863--1933)〕。人間は、二重の性質を具えるべく「運命」づけられた存在である。ここに描かれている美とはかなさの二重性は、16世紀のフィレンツェで、ボッティチェルリが描いた「春」の画像で、左端で天を指しているヘルメスの姿を連想させる。右手に描かれている愛欲の場面と、そこから生まれた美しい「春」は、貞節と美と愛欲の三美神の舞によって象徴されている。
 既成のキリスト教に飽き足りない欧米の知識人たちは、東洋の禅仏教に憧れる。これと同じような理由で、彼らは、東洋よりもさらに身近な「オリエント」から今に伝わる古代エジプト=ギリシアのヘルメス神話が産み出した『ヘルメス選集』が語るヘルメス哲学に強い関心を寄せている。
■選集とキリスト教
 
『ヘルメス選集』が描き出す世界の最大の特徴は、その二重性にある。霊智と感覚的な体から成る人間、人間を包む自然界(両者の関係は肯定と否定の二つの見方を可能にする)、惑星圏から恒星圏(第八天)へと神性を強める宇宙の二圏層、最高位の善なる神とこれに劣る造物主、そして、人間と宇宙の全総体を貫通する霊智、これらが、なんとも不可思議な二重性を具えている。
 キリスト教の世界も、人間に具わる「霊性」と「肉性」、人体の正しい有り様と肉的な罪性、神の聖霊が授与する霊智と人間的な知性、悪霊のうごめく中空(mid-air)と神のいます天(Heaven)のように、二重性を帯びている。教父たちがこの選集を引用するのも、キリスト教と選集との間に共通する(?)とも想えるこれらの二重性と無関係ではないであろう。しかし、キリスト教においては、人と宇宙を創造しその全体を支配するのは、父なる神とその御言葉の働きによる。その上で、人間とこれを包む自然界を救うのは、「人間に具わる霊智(知性)」ではなく、神の恩寵の働きによる。これが、キリスト教と選集との最大の違いであろう。
■選集とグノーシス
 
グノーシスでは、世界の創造は、至高の神ではなく、半神(デミウールゴス)によるもので、結果は、「出来損ない」の宇宙である。これを救うのは、宇宙全体を支配する「霊智」が、この地上へ降下することを通じて、霊智の働きかけによって初めて、人間が最高度の霊智へ達することで、その救いが達成される。しかし、『ヘルメス選集』では、唯一の善なる神が、人間に具わる身体とその自然性からの霊的な純化を迫っていて、このための具体的実践的な方法を説いている。終極の目的は、人が、神の言葉を導きとして、人の霊智を通じて再生(新生)することである。
■選集とルネサンス
 
『ヘルメス選集』では、人間と自然とが「愛にあって交わる」肯定的な「愛の世界観」が描かれている。それは、結婚愛を賛美するイングランドの詩人スペンサーの『四つの讃歌』(16世紀)に出てくる「サピエンス(叡智)」ともつながる。神の摂理によって人間が到達するこの「善」こそが永遠である。日本でも、陰陽の男女関係は、性の営みとして『古事記』でも『日本書紀』でも、本質的に肯定的に神話化されている。このように、『ヘルメス選集』に向けられる関心の高さは、15世紀にイタリアのフィレンツェにあったフィチーノのプラトン・アカデミアの思想やカバラ思想や16~18世紀のイングランドの思想、例えば、スペンサーやミルトン、アイザック・ニュートン、さらに言えば、フリー・メイソンの秘義思想なども含めて、現代まで続いてきている。
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