イスラエル一巡記(1)
日本からガリラヤまで
2007年
【3月14日】
■ウズベキスタン航空
 イスラエルへの旅は、ウズベキスタン航空で大阪からタシケントへ向かい、そこから同じ航空でイスラエルのテル・アビブへ入ると聞いていたが、ウズベキスタン航空(Uzbekistan Airways)という名前は、今まで聞いたことがなかった。さてどんな飛行機かといささか不安を覚えた。どうせ機内は寒く、食事もまずく、サーヴィスもよくないのだろうが、とにかくイスラエルまで無事に運んでくれさえすればそれでいいと思った。
 関西空港に午後8時半に集合せよという連絡で、わたしはかなり早く、言われていた受付のカウンターに着いた。ところが人がほとんどいない。今までいろいろなツアーに参加したが、こんなに人のいない関西空港は初めてである。時間が来て、ANAのカウンターの下に“Uzbekistan”とやや小さな赤い文字で書いてあるのに気がついて、荷物をチェックインする。ほとんどわたし一人である。身体検査もパスポート審査も2、3人。搭乗ゲートに来てみると、広い待合室には、わたしのほかに一人しかいない。話を聞くと韓国系ウズベキスタン人で、ホノルルから帰るためにここで乗り継ぐと言う。先の大戦の折に、大勢の韓国人が、ウズベキスタンに移送されたそうで、彼女は今でもロシア人は(おそらくスターリン時代のソビエトのこと)、自分たちを見下しているとしきりにこぼしていた。そのうちに、東京からウズベキスタン航空で来た人たちも一時降りてきて、広い部屋にもかなりの人たちが広がった。
 座席では、岡山からツアーに参加したというクリスチャンのご婦人たちの間に坐ることになった。飛行機はボーイング型の大きな旅客機である。飛び立ってしばらくすると、外は-57度Cだと機内のビデオに掲示が出る。その割に機内は暖かい。驚いたことに、出される食事もなかなかおいしい。ロシア系と思われるスチュワーデスたちが、機内を始終回っては、なにかと世話をしてくれる。なんとなく田舎の宿屋の情の厚いもてなしを受けているような感じがする。ビデオに映される飛行地図を見ていると、中国の北部をまっすぐに東から西へ向かっているのが分かる。一眠りして目を覚ますとちょうど天山山脈の上をウルムチへ向かっている。ご婦人方は岡山県のイエス・キリスト教団のメンバーたちで、早速機内で聖書を開いて熱心に読んでいる。目が覚めてから、その昔、ネストリオス派のキリスト教が、景教と呼ばれていて、唐の時代には、今飛んでいるのとちょうど逆の方向に日本へ向かって渡来したことを話した。昨年はアメリカ大陸をサンフランシスコからニューヨークまでおよそ5時間で飛んだが、今年は中国大陸を東から西へ9時間かけて飛ぶことになった。だが、わたしは、地理的な発想よりも、どうしても歴史の上を飛んでいるという意識にとらわれる。
 タシケント空港に着いたのは朝まだ暗いうちであった。そこで3時間ほどテル・アビブ行きのウズベキスタン機を待つ。ここで初めて、この国が、ソ連の崩壊後にできた国で、建国15年であることに気がついた! 待合室には、ロシア系の顔やトルコ系の顔、韓国や中国やわたしたち日本などアジア系の人たち、それにどこの国の人なのか全く見当もつかない人たちも大勢いる。タシケントのすぐ近くには、シルクロードの中継地で有名なサマルカンドがあるが、ここはまさに民族と文明の十字路だった。掲示の文字がキリル文字なので、共通語はロシア語かと思ったら、文字はキリルでもウズベキスタン語なのだと知らされた。
 タシケントからテル・アビブまでは6時間ほどで、機はカスピ海を横断してまっすぐ西へ向かう。しばらく行くとノアの箱船が止まったと伝えられるアララトの山の少し西側を今度は南に向かった。添乗員の竹入さんが、後ろのほうに座席が空いているから移らないかと親切に言ってくださったので、最後部に近い窓際の座席に座って、ノートを広げて日記をつけ始める。ウズベキスタンでは、イスラム教以外の宗教が認められていないと『リバイバル新聞』に出ていたが、なるほどこれならテロに狙われる心配もあるまいと納得した。日本人クリスチャンの一行が、ユダヤ教のイスラエルを訪問するために、イスラム教の国の飛行機を利用するというのが、現代の聖地巡礼の実態なのだ。
【3月15日】
■テル・アビブからエラの谷へ
 タシケントからテル・アビブまで6時間あまりである。昼食?をとってから、うとうとして目を覚ますと、窓の下の雲の切れ間から真っ白な雪に覆われた山脈がそびえているのが見える。トルコの真ん中よりやや西寄りを南下して地中海に出るようだ。しかし、一面雲に覆われている。そうか、今は、パレスチナは雨期の終わりにあたるのだ。先ほどの山脈を過ぎてしばらく行くと地中海に近づく。美しい緑の海岸線が湾曲していて、町々が白く点々と広がっているのが見える。湾の様子から、この辺りがパウロの故郷タルソスにあたるのか?と思いながら見ていた。地中海に入る。突然ほんの十数秒間、雲間に虹が現われた。聖地が歓迎してくれている。そう思った。
 緑の海に点々と広がる舟を眺めていると、突然大都会が眼に飛び込んできた。テル・アビブである。広い緑がその大都会の横に広がる。ベン・グリオン国際空港の上に来たのだ。円形に並ぶ店の灯りがきらきらと美しい空港内を見下ろしながら、わたしたちは入国審査のほうへ進む。パスポートの検査は簡単だった。ただし、今後シリアやイランやイラクへ行く予定がある場合には、イスラエル入国のスタンプを押してはいけないと言われる。エジプトやトルコなら、スタンプがあっても大丈夫だそうだ。聖地に入るためにわざわざ来たのだから、ここは迷うことはない。空港を出ると現地の案内の方が、「なんとかポ!」と叫んでいる。「ポ」は「ここ」の意味で、「みんなここにいるか?」と聞いているらしい。全部で15名ほどだから、バスの後方の座席に座る。左右に誰もいないから、窓からでも写真が撮れる。
 わたしたちのバスは、ハイウエーを南東へ向けて走る。とにかく緑が多く、雨上がりの緑地が美しい。今から3200年ほど前(紀元前13世紀)、イスラエルの民はヨルダンの東岸から西岸のエリコを通り、カナンの地へ侵入した。少し遅れて(紀元前12世紀頃)今度は地中海のほうからペリシテの民がカナンへ侵入してきた。彼らは鉄製の武器を持ち、海から入ってきたが(エジプトから北上したという説もある)、たちまちカナンの内陸部へ侵攻して、イスラエルを圧迫していたらしい。しかしイスラエルの側も、サウルを王とする王国を形成してペリシテの民に対抗した。その結果、ペリシテは、現在のテル・アビブのあたりから半円形を描くように現在のガザ地区の辺りまでを自分たちの支配地域としていた。ペリシテとイスラエルとのこの相剋は、タビデ王朝の成立の頃まで、イスラエルの歴史に大きな跡を残すことになる。わたしたちのバスは、言わばその半円形の境界に沿うように弧を描きながら走っていることになる。
 南下するバスの東側には丘が多く、反対の西側は、当然のことながら海岸まで平野が広がる。どちらが肥沃な土地かは一目で分かる。もっとも現在は、どちらの側も緑が美しい。ちょうど雨期の終わりで、雨を含んだ空気が木や花を咲かせる季節だからだろう。それにしても、白茶けた地になつめやしだけが緑を添えていたエジプトの風景とはかなり違う。
 わたしたちのバスは、内陸の南東へ向かう。しばらく行くと、ガイドの西郷さんが、右手にサムソンが生まれたツォルアのあった場所が見えると言う(士師記13章2節)。見ると低いなだらかな丘が連なっている。「ツォルア」という地名は今の地名ではなく、「テル・ツォル」という遺跡があるらしい。サムソンの故郷がその丘の上にあったのか麓にあったのかは分からないが、なるほどこの辺りだと、昔のイスラエルとペリシテとのちょうど境界地域にあたるから、サムソンは生まれながら、両方の民の人たちとの交流の中で育ったことになる。当然ながら、異教の女性デリラに恋するサムソンの物語も生まれてこよう。ここからは見えないが、そのテル・ツォルのすぐ西にはデリラの生家があったティムナがある。サムソンが焼き払ったという小麦の畑もこの辺りの平野にあったのだろう。
 そこを過ぎて少し行くと「ベト・シェメシュ」とあるヘブライ語の道標が見えた。サムソンの時代を少し下がって、サウル王の時代に、イスラエルはペリシテと闘って、不覚にも契約の神の箱を奪われてしまう。ところが奪ったペリシテ側も、この神の契約の箱のお陰でとんでもない禍を招くことになった。触らぬ神に祟りなしと、そこでこの箱をイスラエルへ丁重に返還することにした。ところが、返してもらって喜ぶはずのイスラエルも、いったいこの神の箱をどこへ安置すればよいのか困ったらしい。その頃のイスラエルには、まだヤハウェの聖なる箱を安置する定まった神の聖地というものがなく、サムエルは、預言者と祭司を兼ねながら、シロやシケムなどイスラエルの方々の「聖なる所」を巡回しながら、部族毎に祭司の務めを執り行なっていたようである。困っていると、神の箱を載せた車を引いていた雌牛のほうが、先にどんどんベト・シェメシュの方角へまっすぐに進んで行ったとある(サムエル記上6章12節)。通りながらバスから見るとこの町はかなり大きな市街らしいが、そこはもとのベト・シェメシュではなく、そこを過ぎた丘陵地帯のほうにその遺跡があるという(現在「テル・ベイトシェメシュ」と呼ばれている)。ベト・シェメシュの人たちは、箱が運ばれてきた時に「谷間の平野で小麦を刈り入れていた」(サムエル記上6章13節)とあるが、イスラエルで言う「山」とか「谷」は、日本で言うのとかなり違っていて、わたしには「山」というよりはどうしても「丘」に見える。だから「谷」といってもわたしたちの考えるそれではなく、丘と丘との間に広がる平地と言うほうが正しい。京都で言えば、比叡山や愛宕山のことではなく、吉田山や双岡や船岡山という感じである。「ベト・シェメシュ」とは「太陽の家」という意味だから、ここはその昔、太陽崇拝ゆかりの地だったのだろうか? だとすれば雌牛たちがそこへ導かれたのもそれなりの理由があったことになる。「サムソン」の語原も「太陽」と関係するから、そこには何らかのつながりがあるのかもしれない。
 地図で見るとベト・シェメシュ(現在は「ベイト・シェメシュ」)は、かなり内陸になっていて、この辺りからエルサレムまで、丘陵地帯が連なっているようである。後にダビデが王位についた時に、神の箱をベト・シェメシュからダビデの町まで運ぼうとして、一度ではうまくいかず、山道で車が傾いて、神の箱が落ちそうになった。このために、付き添っていたウザという人が思わずその箱に手を触れたために、聖なるものに手を触れたとあって、その場で息絶えたとある。それもこういう地形だったからだろう(サムエル記下6章6~7節)。
そんなことを思っているうちに「エラの谷」へ出た。谷と言うより低い丘の間に広がる平地である。ここが、サウルの率いるイスラエル軍とペリシテ軍とが闘った古戦場である。ペリシテの支配地域の半円形のちょうど頂点がこの辺りで、いわばここは、イスラエルとペリシテの接点にあたる所であった。ペリシテ側は鉄製の武器を持っていて、武装の点ではイスラエル側とは格段の相違があったらしい(サムエル記上13章19~22節)。サウルの軍隊は、ここでかろうじてペリシテを破ったが、その後も両者の支配権をめぐる争いは続き、最後にダビデ王がペリシテを破ってその支配権を確保した。だから、ここエラの谷は、ダビデとペリシテとの最初の戦の場だったわけである。巨人ゴリアテを仕留めた英雄ダビデの物語が生まれたのが、この戦場である(サムエル記上17章)。関ヶ原ほどではないが、この辺りには右手(西側)にかなり大きな丘があり、平地を挟んで左手(東側)にもやや低い丘が見える。バスは、その平地を流れる川の側で止まった。川はそれほど広くないがそれでも幅10メートルはあろうか。現在はコンクリートの堤防があって、かなり深い。と言うのも雨期で雨に濡れてはいても水がないからだ。イスラエルでは、川は流れているのではない。雨が降るとその度に川が「できる」のである。ヨルダン河などは言わば例外である。これだけの深さがあれば、昔ここは「谷」だったのだろう。おそらく今と同じに、水がほとんどなかったから、ダビデはこの川へ降りていって適当な石を拾い集め、これを武器に丘を下ってくるゴリアテへと向かって行ったのだろう。わたしたちのバスの止まっている所が、ペリシテが陣を張ったと言う「ソコとアゼカの間」の辺りになるから、おそらくあの(西の)丘にペリシテの陣地があったとガイドが言う。ゴリアテが丘から降りてきて、ダビデが石を拾って向かったであろうその古戦場に、今はわたしの知らない木々が、紅梅のように美しい花を咲かせて広がっていた。
■テル・ベエル・シェバ
 エラの谷から南へ、ベエル・シェバへ向かう。ベエル・シェバは、アブラハムが住み着いた地であり(創世記20章1節)、その子イサクも孫エサウとヤコブもここで生まれ育った(創世記26章33節)。だからイスラエルにとって、ここは族長時代以来の聖地である。現在のベエル・シェバ市は、その聖地として知られ、アブラハムが掘ったと伝えられる井戸の跡が大切に保存されている。ところが、1969年にヘブライ大学が、現在のベエル・シェバの東方に大きな遺跡を発掘した。これがテル・ベエル・シェバと呼ばれる遺跡である。現在この遺跡は、ソロモン時代までが発掘されている。その結果ここは、ダビデ王朝の統一国家時代に、重要な聖地として、また重要な政治的軍事的拠点として城塞化されていたことが分かった。ここにも深い井戸が発掘されたのである。いったいどちらがアブラハム以来のほんらいのベエル・シェバ(誓いの井戸)なのか分からないとガイドブックにある。
 このテル・ベエル・シェバは、最近世界遺産に登録された。わたしたちが着いたのは、このテル・ベエル・シェバのほうである。道理で広い遺跡だけが広がっていて、観光客はわたしたち以外に誰もいない。入り口にはヘブライ語で「世界遺産」と書いた大きな横幕が掲げてある。西郷さんは、割礼を受けてユダヤ教に改宗したれっきとした日系ユダヤ人で、イスラエル観光庁の正式の認可を受けたガイドである。だから彼がここへわたしたちを案内してくれたからには、どうやらイスラエルの観光庁は、こちらのほうがほんらいのアブラハムゆかりの「ベエル・シェバ」だと判断したらしい。
 この地にはアブラハムが来るはるか前にすでに人が住み着いていた(紀元前3500年頃)。だから彼は、土地の支配者であるアビメレクと契約を結び、自分の掘った井戸の側に居住することを認めさせた。これが「誓いの井戸」(ベエル・シェバ)の由来である(創世記21章27~31節)。だとすれば、現在の市街地の東にアブラハムが住んだことも考えられるわけである。発掘の結果、ソロモン王の時代に、ここが祭儀を行なう聖地であったことも分かったから、そのこともこの遺跡の井戸がアブラハムゆかりのものであることを裏付けているのかもしれない。
 西郷さんの説明によると、町ができるには大きく三つの条件が必要だと言う。ひとつは交通の要所であること。もうひとつは水が出ること。その上、丘の上など高い場所にあること。この三つである。言うまでもなくこれには軍事上の理由もあった。こういう条件に適した所はそう多くはないから、そこに建てられた町が戦禍にあって滅びても次の支配者がその上に町を築くことになる。それがまた破壊されても、再び同じ場所に新たな町が建てられる。だからこういう場所を発掘するといくつもの重なり合う地層から、それぞれの時代の町の跡が発見されて、その場所での歴史の経過が実証できることになる。こういう場所を「テル」と言うと彼は説明してくれた。
 後で確かめたら〔『聖書考古学大事典』〕、現在までの発掘によって、最も深い層では前12~11世紀の士師記の時代の土器が見つかっている。その上に前10世紀の頃に建てられた城壁があり(前965~926年のソロモン王の時代か)、これが前9世紀に破壊された跡がある。さらにその城壁跡の上に漆喰で処理された城壁が建てられた(この二つの城壁の境目が白い横の線でマークされていた)。しかし、これも前8世紀に破壊されている(前701年にアッシリアのセンナケリブによって略奪された)。これのさらに上にはユダヤ人やエドム人やアラブ人の居住の跡があり(前359~前338年のペルシア王アルタクセルクセス3世の時代)、その上にヘレニズム・ローマ時代(前1~2世紀頃?)の建物があり、最も新しいのではローマ時代(紀元2世紀以降?)のものがある。
 西郷さんの説明では、イスラエルの民がカナンに住み着いた時に、ここはその最南端にあたると言う。ここからネゲブの荒れ地が広がるからだ。ダビデ王が「ベエル・シェバからダンにいたるまでイスラエル人の数を数えた」(歴代誌上21章2節)とあるとおり、イスラエルの緑地帯もここまでである。ここまでが士師記の時代のイスラエルの領土であった。それ以降、イスラエル王国の領地は、拡大したり、分裂したり、縮小したりした。しかしダビデ王朝の時代でも、その後の南ユダ王国の時代でも、ここまでが「ほんらいの」イスラエルの領土であり、その最南端であった。士師たちの時代からイエスの時代にいたるまで、この事情は変わらない。現在イスラエルが、「約束の神の土地」と言う時にどの範囲を指しているのかが、わたしにも分かってきた。ここを南端として、東はヨルダン河から西は地中海まで、北は現在のイスラエルとレバノンとの国境地帯までである。イスラエルの人が「国土」(アレッツ)と言うのは、この範囲を指すらしい。だとすれば、現在のイスラエルは、南はアカバ湾の最南端のエイラートまで及ぶから、南のほうは十分に拡大されていることになろう。しかし西はヨルダンの西岸地域、東はガザ地区が、イスラエルとパレスチナの住民たちとの紛争の種になっているのは、そこが「約束の地」に入るからだと、その理由が納得できた。
 ソロモン王の時代の遺跡の入り口は、石造りの三重の門になっている。そこを通ると大きなぎょりゅうの木があった。アブラハムが植えて、そこで主のみ名を呼んだとある故事にちなんだのだろうか(創世記21章33節)。ぎょりゅうはほかに幾本もあった。入り口の近くには、石で造られた大きな深い井戸がある。井戸の側の柵の上から見下ろしても真っ暗で底が全く見えない。この井戸が代々伝えられた聖なる井戸であり「誓いの井戸」なのであろう。
 そこからさらに進むと広場に出る。ここが祭儀の行なわれた場所で、白い石でできた四角の祭壇がある。祭壇の上の四隅には角(つの)が付いている。これはシリア・パレスチナ型の祭壇で、ソロモン時代の様式らしい。この型の祭壇はエゼキエル書(43章15節)にも出てくる。ここで犠牲の献げ物を焼いたのであろう。そこを進むと大小の石でできた高い土台の上に築かれた煉瓦づくりのような壁がある。土台には横に白い線のマークがあって、古い土台の上に次の時代の土台が築かれたことを物語っている。そこを通り抜けると遺跡が広がる。大きな長方形の深い部屋が規則正しく並んでいる。穀物などのための倉庫の跡だと言う。通路の横に大きな深い長方形の地下室があって、ここがワイン藏の跡である。これだけ大きなワインの貯蔵庫があれば、ずいぶん多くの人が飲んでも大丈夫だろうと思った。
 町の中の大小に仕切られた建物跡の間の通路を通る。中央には見張り台があって、そこが現在展望台になっている。登って見渡すと周辺が一望できる。西の方角には現在のベエル・シェバの街が見える。反対側の東には、遺跡とその側を走る道路の向こうに緑の平野が広がる。南にも平野が広がり、はるか地平線には丘陵地帯がうっすらと見える。そこからネゲブの荒れ地が広がるのだろう。今は緑だが、昔は荒れ地だったに違いない。正妻のサラにいじめられた召使いのハガルは、アブラハムとの間にできた息子イシュマエルを背負って、ここからひとりとぼとぼと南へ向かって出て行った。彼女は行く当てもなく「ベエル・シェバの荒れ地をさまよった」とある(創世記21章14節)。
 展望台を降りると今度は入り口で渡されたヘルメットをかぶれと言う。町の地下深く掘られた地下水路へ降りていくからだ。ソロモン時代のままの天井の低い石段を注意しながら降りていく。いざという時には、女の人たちは、こんな深い所から水を汲んでは登ったらしい。雨が降るとその水は漏らさずに深い地下の貯水室に流れ込むよう工夫されている。しかも、階段の入り口をふさぐと外からは全く見えない。敵に占拠されても井戸が破壊されないためである。その貯水室から外に向かって大きな溝が掘られていて、なんと城壁の外の水までもがここへ流れ込むように仕組まれていた。みごとな仕掛けだが驚くのはまだ早い。これが、これからあちこちで見せられる驚くべき引水技術の始まりである。日本では昔から「治水」と言って、水を治める者はその国を治めると言われたが、ここでは「引水」が国を治める鍵になるのだ。
■死海へ
 わたしたちは遺跡を見た後、バスで現在のベエル・シェバへ向かい、「ゴールデン・チューリップ」という大きなホテルの一階にあるレストランで昼食をとった。そこからバスは東へ向かう。バスのルートは、ちょうどイスラエルの緑地とネゲブの荒れ地の境になる。白茶けた石だらけの土地の拡がりを見ていると、荒れ「野」というよりは荒れ「地」というほうがふさわしい。所々に粗末な家の集まる村が目に付く。現在この辺りには、ベドウィンの人たちが住んでいると言う。ベドウィンは長い間、砂漠の遊牧民として知られていた。彼らは定住することなく、部族ごとに遊牧を続ける精悍な民であった。
 イスラエルの民は、ほんらいベドウィンのような遊牧の民ではなかったらしい。彼らは農耕の季節になるとカナンなどの農耕の民と契約を結んでその周辺の土地を借りて、半農半遊牧の生活をしていたようである。アブラハムがベエル・シェバのアビメレクと結んだ契約もこのようなものだったのだろう。農耕の民でもなく、独立した遊牧の民でもないイスラエルは、定住も独立もできない比較的弱い立場に置かれていたに違いない。現在はベドウィンもかつての精悍さを失って、居留生活を送るようになったのかと思ったのだが、西郷さんの説明によると、やはり彼らの生活ぶりは、イスラエルの人たちとはかなり違うらしい。「粗末」だと思える家も彼らにとってはそれで十分なのだそうだ。
 白茶けた荒れ地が、だんだん丘になり、丘陵となり、険しい岩山に変わってくる。岩山の間からはるかに緑の海が見えてきた。死海である。実はこの辺りの標高が、ちょうど地中海と同じで、海抜0メートルなのだと言う。はるか下に見える湖はここより400メートルも下になるから、地中海よりも400メートル低く、世界一低い湖になる。こういう不思議な自然条件が、通常では考えられないほど塩分濃度の高い湖を造り出している。このあたりから西郷さんの説明は、いかにして死海にうまく浮かぶことができるかとか、浮かぶよりも立ち上がるほうが難しいとか、ここの黒い粘土が美容に効果があって、塗ると顔がすべすべするとか、ホテルの塩水プールでも体験できると説明に熱がこもる。わたしは窓から、だんだんと広がるエメラルドの湖を眺めていた。
死海の南端に来る。「死海」という呼び名はギリシア人が「生物の住まない海」という意味でつけたらしい。名付け親は『博物誌』の著者プルタルコスだろうか? 聖書では「塩の海」と呼ばれている(創世記14章3節/民数記34章3節)。死海は琵琶湖にやや似ていて瓢箪型にくびれている。これは近年、真ん中の水位が低下して、だんだん南半分の水が少なくなってきたかららしい。湖の最南端のこの辺りの海底にソドムの遺跡が眠っていると西郷さんが言う。
 旅行のひと月ほど後で、イギリスのBBC制作で、ケンブリッジ大学の研究施設や地質学者たちを紹介しながら、ソドムの遺跡の在処を検証する番組を見る機会があった。それによると死海の両側には、北と南の逆方向に進行する地層があって、これが死海周辺に地震をひきおこしていると言う。美容のために効果がある粘土質の地盤は、地震になると液状化現象を生じる。さらに地底にはメタンガスの蓄積があって、死海の東側で深い穴を掘っていた際に、メタンガスが炎となって吹き上げるという出来事があった。ソドムの町は、この液状化現象のために地震によって海のほうへ引きずり込まれたらしい。その時に噴出したメタンガスは、ちょうど火山のように炎を吹き上げたことだろう。どう見ても人間が住むのに適しないこんな場所になぜ町があったのか? そのわけは、ここで産出するアスファルトにあった。古代ではアスファルトは貴重で、さまざまな用途に使われた。エジプトのミイラにもアスファルトが用いられていて、エジプトで用いられたアスファルトと死海で採れるアスファルトを検査すると、成分がぴたりと一致したという。なるほどこれなら危険をおかしてでも住む理由がある。
 ソドムの沈む海を横目に少し行くと、なつめやしの木が茂る美しい街路の町に着いた。ここがわたしたちの泊まるノボテ・ホテルのあるエンボケクである。ホテルは新しくて設備もよい。部屋で一休みしてから喫茶室でコーヒーを飲む。今まで飲んだことがない不思議な風味のコーヒーである。飲んだ後のコップの底に、コーヒーの粉が厚く残った。ここで日本を出てから初めて、シャワーを浴びてベットで休むことができた。
【3月16日】

■マサダ
 死海の西に沿って連なる岩山の険しさは、それまでの風景とは全く異なる。朝8時頃に出たバスは、少し行くと左に曲がる。下から見るとすり鉢を伏せたような巨大が岩山に近づいた。マサダである。立派な入り口があって売店が見える。朝早いので客はいないが幸い開いていたので、添乗の入江さんの許しを得てひとり売店に入る。かなり広い本の売り場があって、日本語の小冊子『マサダ』を幾冊かおみやげに買った。岩山の頂上まではケーブルで数分ほどなのだが、「蛇の道」と言う細い道がくねくねと山頂へ向かっている。二人の人がそこを登っているのが見える。
 ケーブルを降りて頂上へ登ると広い台地に出た。後で調べると、南北600メートル、東西300メートで、下からの高さは、東側で400メートル、西側が100メートルあるという。ここがユダヤ戦争で、最後まで戦い抜いたユダヤ人たちが全員自決した遺跡であるのは以前から知っていた。フラウイウス・ヨセフスが、その『ユダヤ戦記』(巻の7の8章)で、ここに立てこもった1000人足らずのイスラエル人の凄絶な戦いぶりを記録していたからである。ところが、この岩山がその遺跡であることは、長い間知られなかったらしい。ここがヨセフスの記したマサダであることに最初に気がついたのは、アメリカ人のE・ロビンソンとE・スミスで、1835年のことらしい。その後幾度か調査が行なわれたが、本格的な発掘が行なわれて、その全貌が明らかにされたのは、ヘブライ大学と考古局とイスラエル調査協会による調査隊が組織されてからで、1963年~65年のことである。
 わたしはマサダのことについてほとんど知らなかった、ということがここへ来て分かった。それまでわたしは、「マサダ精神」という言葉でしかこの遺跡のことを考えなかった。紀元70年のエルサレム滅亡の後で、ローマの軍団に追いつめられたユダヤ主義の人たちが、最後まで抵抗するためにやむを得ず立てこもり、潔く自決した場所。これがわたしの頭にあったマサダである。
 ところがマサダの歴史はそれよりもはるかに長く、ヘロデ大王の頃にさかのぼる。彼は紀元前73年~前31年の間に、ここに要塞を築いた。紀元前40年頃、ヘロデは政敵のアンティゴノスに追われてローマへ逃れたが、その時、自分の家族をマサダへ避難させている。しかし彼がマサダを要塞化したのには、主として二つの理由があったらしい。ひとつは、万一ユダヤ国内で彼の権力が失墜した時には、マサダに逃れるためであり、もうひとつは、エジプトの女王クレオパトラが、かねがねパレスチナの地を支配しようと企んでいたからである。だからマサダは、万一の場合のヘロデの避難所であった。ヘロデ自身はここを避難所とすることはなかったが、それから100年後に、ローマ軍に追われたユダヤ人たちの最後の避難所となった。
 来てみて分かったのだが、ここはわたしが考えていた「要塞」とは全く違う所である。驚くべきことに、ヘロデはこの巨大な岩山の上に、壮麗な宮殿を建てていたのだった。特に岩山の北側には、崖の上ではなく崖そのものに沿って、三層の美しい宮殿が建てられていた。わたしたちは、崖の斜面に沿って建てられた三層の最下段の宮殿跡に着いた。遺跡は今では見る影もないが、それでも白亜の壁には美しい絵の一部が残っている。ローマ風の太い円柱に支えられた部屋が三つ隣接していて、ここが彼と彼の三人の側室たちの住まいだったと言う。宮殿は北側だけでなく、台地の南にも謁見用の立派な建物があった。
 北の宮殿跡を出てから、浴室の跡へ向かう。大きな石造りの部屋がある。浴室はここを真ん中にして、左右にもあり、一方は水風呂で、もう一方は熱いサウナ風の風呂であった。水風呂とサウナを交互に利用するのは体によくないことくらいローマの人たちは心得ていたから、彼らは、真ん中に今見ている「控えの間」を造って、両方の温度がちょうどよく混ざり合うように工夫した。おそらくここが、くつろぎと社交の場だったのだろう。サウナのほうは、床下に土台となる円柱が並んでいて、そこから熱せられた床の上に水を撒くとサウナになるように装置されていたらしい。横壁には土管のパイプがあって、そこからも熱風がサウナに吹き込んでいたという。女性専用の浴室の床には、美しいモザイクの文様がはっきりと残っていて、当時の優雅な生活を偲ばせてくれる。浴室のほかにプールもあったという。いったいこんな岩山の上に、どうやってこんな大規模な建築が可能だったのか? エジプトのピラミットを見た驚き以上に呆れてしまう。
 しかも水が一滴も出ないこの高い岩山に、岩山の斜面に沿って、上方に八つ、下方に四つの四角い水槽が掘られていて、全部で4万立方メートルの水を蓄えることができたとある〔『聖書考古学大事典』〕。そのほかにも大小の水槽があった。これらの水槽には、下から運ばれた水が蓄えられたのであろうが、それだけではなく、周囲の渓谷にダムを作り、そこからの水が、岩山の斜面に掘られた溝を伝って水槽へ流れ込むように仕組まれていた。周囲の渓谷から流れ下る水が、どうして岩を登って水槽へ入るのか? にわかには信じがたいと思っていると、そこはちゃんと心得ていて、実際に実験して見せるように模型が置いてある。ガイドの西郷さんが、水を隣の山に注ぐと水は魔法のように斜めに走る水路を登って水槽に入った。道理で贅沢なローマ風の浴場が楽しめたわけである。
もっとも、100年後の紀元72年頃に、老若男女1000人足らずのユダヤ人たちがたてこもった時には、ここはもはや贅沢な宮殿ではなかった。ここはまさに要塞そのもので、宮殿の一部は司令部だったと言う。時間が100年ほど跳んで、壮麗な宮殿と死を覚悟した悲劇の戦いとが交錯する。フラウィウス・シルワは、ローマ第十軍団を率いて、約1万の兵とユダヤ人捕虜と共にマサダを囲んだ。ガイドブックには紀元70年~73年の3年間とあるが、エルサレムの陥落が紀元70年であるから、実際は72年あるいは73年の秋頃から、翌年の過越祭の前までの半年あまりであったらしい。そんなに短い期間で、マサダの城壁まで土手を築くことができたのかという疑問もあるが、カエサルがゲルマニア(現在のドイツ)を攻めた時には、ライン河の川底に斜めに杭を相互に打ち込んで、わずか三日間で大きな橋を造ったと言うから、土木戦争はローマ軍団の得意とするところだったらしい。
 マサダの上から北東を望むと、青い死海が拡がり、死海とこの岩山の間に平地が広がる。ローマ軍団の陣営の跡が四角になって見える。赤茶色の荒れ地のほかに緑は全く目に入らない。こんな所に1万もの軍勢が、わずか1000人足らず(壮年の男の数は300人足らず)のユダヤ人を殺すために1年以上も包囲網を敷いていたことになる。ローマ軍を一番困らせたのは水であった。次に訪れるエン・ゲディから毎日水を運んでいたと言うから、攻める方も並大抵でない。ローマ軍は、険しい東面からの攻撃を諦めて、比較的高い台地がある西側から攻撃した。と言っても、100メートルもある城壁をよじ登ったわけではない。なんと彼らは、丸太を組み合わせて、その間に砂利を詰め込み、その上にまた丸太を組み合わせて、また砂利を詰めるという仕事を延々と続けて、何十段もの丸太と砂利の堤を築いて、それをだんだんと高くして城壁に近づいたのである。それでも城壁には届かず、城壁破壊用の巨大な長い棒を鉄で覆われた細長い車から突き出して、城壁を壊そうとした。それでも足りず、ついに高い櫓を組んで、土手の上に据え、そこから大きな石を跳ばして城壁とその中を攻撃した。その時の石が積み上げてある。一抱えもある巨大な石を見ていると、これが跳んできた時の恐怖が伝わってくる。
かなり広いシナゴーグの跡があり、韓国の人たちが石の座席に座って牧師さんの話しを聞いていた。トーラーを収めてあった部屋には、机だけが置いてあった。ここで籠城したユダヤ人たちは、戦い抜いた後で、全員死ぬのであるが、指導者エレアザロスが、彼らに死を薦めた時の様子をヨセフスは、長い演説にして書き残している〔『ユダヤ戦記』巻の7の339段以下〕。彼は、かくなる上は、ローマ軍の恥辱を受けるよりも、死を選ぶのが賢明な道であると説得するのだが、初めはなかなか同意が得られなかったらしい。
 ユダヤの人たちにとって、神は生きている者の神である。端的に言えば、命は神から来ている。だから、その命を自らが断つことは、自分の手で神を殺すに等しい。神は命それ自体であるというこの信仰は、彼らに自決をためらわせるのに十分であった。ヨセフスは、彼らが「弱気になっている」と見ているが、これはローマの側から見たからで、彼らは臆病でもなければ、弱気でもない。そうでなければ、こんな所に一年以上も留まって戦い続けることなどできるはずもないだろう。エレアザロスは、「霊魂の不滅」を説き、インド人の例まで持ち出して熱弁を振るい、ついに彼らを説得した。ヨセフスの脚色もあろうが、彼らが自決になかなか応じなかったことがうかがえる。
 わたしはうかつにも、「マサダ精神」とは、身を鴻毛(こうもう)の軽きにおいて散華(さんげ)する神風特攻隊の精神だと思いこんでいた。ところがそうではなく、彼らは最後まで、命を断つことを罪だと考えていたのである。彼らは先ず10人を籤で選び、「運悪く」籤に当たった者が、全員を刺し殺し、それからさらに一人を選び、彼が9人を殺した後で、自らの罪と死を神に詫びた。現在、イスラエルの軍隊では、入隊式をこのマサダで行なうそうである。それは、マサダの精神に「見習う」ためではない。二度とマサダを繰り返さないことを誓うのだそうだ。それだけではなく、イスラエルの中学生や高校生が、マサダの麓に野営して、ローマ軍の土手の跡をマサダの城壁までたどる訓練を受けると言う。城壁の西側から下を見ると、その土手の跡がはっきりと城壁まで続いている。そこを二、三人の少年らしい人たちが登ってくるのが見えた。
■エン・ゲディ
 バスでマサダを出て北へ向かう。少し行った所にエン・ゲディというオアシスがある。ローマ軍がここから水を調達したとあるとおり、ここには上質の水が出るらしい。バスの運転手さんが、エン・ゲディ産の水のボトルを市価の半額(1ドル)で売ってくれるので、わたしもそれを買って水筒に入れて少しずつ飲んでいた。「わたしの恋人はエン・ゲディのぶどう畑に咲く花のようだ」(雅歌1章14節)とある。だが、わたしの印象では、「緑したたるオアシス」と言うよりも、大きな岩山の麓にあるささやかな緑地という感じである。入り口には、ここへ水を飲みに来る動物や鳥の剥製が置いてある。ハイエナや狼は、思ったより体が小さい。こういう所は図体の大きな生き物にはむかないのだろう。ただしトカゲだけは、体長が1メートル近くもある。角の長いカモシカのようなガゼルや大きく湾曲した角を持つ山羊もいるらしい。なつめやしが幾本か生えている遺跡の裏手には、岩山と岩山との間に渓谷があって、雨が降ると川になると言う。
 岩山の中腹に洞窟のようなものが見える。サウル王に追われたダビデは、この辺りに身を隠していた。ダビデを追跡してきたサウル王は、3000の兵を率いて、「山羊の岩」のあたりまできたとある(サムエル記上24章3節)。サウルが、洞窟に入って用を足している間に、ダビデは彼の衣の裾を切り取った。王は裾の長い上着をまとっていて、それには二本の細長い房が付いていたから、おそらくダビデは、その房の端を切り取ったのだろうと言う。洞窟を出たサウルが、渓谷の反対側へ登った所で、ダビデが姿を現わして、谷の向かい側にいるサウルに呼びかけ、切り取った房を見せながら「わたしの手には、悪事も反逆もない」ことの証しとした。なるほど、谷を挟んでいては、声は届くが追跡は難しい。サウルはこれを聞いて自分の館へ引き返したとある。
■クムラン
 バスがエン・ゲディを出ると、ガイドの西郷さんが、死海の東側にうっすらと連なる山々を指さして、あの辺りにモーセが約束の土地を望み見たネボ山があるという。残念ながらどれがネボなのかよく分からないうちに、バスはクムランへ着いた。この辺りが死海の西北端になる。この近くの岩山で、ベドウィンの羊飼いの子供が、いなくなった羊を探している時に、偶然一つの洞窟とそこに残されていた大きな写本の壺を幾つか見つけた。1947年のことである。現在第一洞窟と呼ばれるのがこれで、写本の中には、ほぼ完全な形でのイザヤ書や「感謝の詩編」や「戦いの書」やクムランの「宗規要覧」、ハバクク書の註釈などが含まれていた。現存する写本よりも1000年もさかのぼる第二神殿時代のものだと言う。
 これ以後、これらの洞穴の遺跡調査が行われた。『聖書考古学大事典』によれば、さらにその洞穴から、1キロほど南に下ったキルベト・クムランで、1951~1956年にかけて、5度の調査が行われた。さらに1958年には、キルベト・クムランの南3キロにある水源地の近くに、一つの建築群が発見された。最初の洞穴発見から、この間にかけて、この周辺に次々と写本の収めてある洞穴が全部で五つほど発見された。第三洞窟からは銅の巻物が発見され、とりわけ遺跡のある台地の南端の西にあって、谷に面している第四洞窟からは、イザヤ書、サムエル記(第一と第二)、第一エノク書、「宗規要覧」、「ダマスコ文書」、その他600点以上の写本の断片が見つかった。また第十一洞窟では「神殿の書」が発見された。
 このようにして、クムランの南にある建築群を中心にして、その周囲に全部で26ほどの洞穴が発見されたのである。その建築群は、南はワディ・クムランの谷に面し、北と西は峡谷に面する台地の一角を占めていて、南北100メートル、東西80メートルにわたって広がっていた。現在の欧米の最大規模の聖堂よりもはるかに広い。建物は数々の部屋に仕切られていて、谷から引いた水が、初期には八つ、後期には七つの貯水場に給水されていた。それらの部屋は、集会兼食堂室、写本室、炊事場、食器室、陶工の作業室、炉、家畜小屋などに整然と区分けされていた。しかし、ここで日常の生活が営まれた形跡がないことから、そこが宗教的な目的だけに用いられる修道院であることが分かったのである。身をきよめるための浴槽が二つあり、そこで浸礼(バプテスマ)の儀式が行われたと思われる。建物の周辺には、土器や壷に収められた羊や山羊の骨が発見された。それらはあきらかにクムラン宗団独特の宗教的な食事のためである。
 これらのことから、この建物は、この地域のいたるところに散在した共同体の人たちの宗教的なセンターであったことが分かる。クムランの修道院を中心にして生活していた人たちの数は、最も多いときでも200人くらいであろうと推定される。これらの人々は、羊を飼ったり、その土地に合う穀草類を潅漑によって栽培したり、なつめやしの栽培も行われていた。塩やアスファルトを製造したり、陶工を行うなどさまざまな職業にも従事して生活していたようである。
 発掘の結果、クムランの遺跡が使用されていた時期は、大きく3期に分けられる。初めは紀元前8世紀から6世紀、ユダ王国のバビロン捕囚の頃までのものである。その後、ここは放棄されていた。次の時期は、それから数世紀を経て、ハスモン朝のヨハネ・ヒルカノス1世(前134~前104)の叔父ヨナタン(前152~前142)の頃に始まった。これが死海写本を伝えてくれたクムラン宗団の始まりと考えられる。ところがこの地が、大地震と(おそらくはその時の)大火で廃虚となった。この大地震は、紀元前31年に起こったことが報告されており、遺跡で発見された貨幣によってもこれが確認されている。次の時期は、前の時と同じような共同体によって、ヘロデ・アルケラオスの治世に、おそらく紀元前4年~前1年の間に再開された。この時期に八つあった水槽が七つになったが、建物はほとんど前のままの規模で造られている。この時期の終わりは、ユダヤ戦争の時に、ローマ軍によって、紀元68年6月に占拠され破壊された時である。それからここは、73年、すなわちユダヤ戦争最後のマサダの陥落の時までローマ軍の駐屯地であったらしい。クムランの遺跡には、殺された人の骨が見つからないことから、ここの人たちは、マサダのユダヤ人と合流して最後まで闘ったか、あるいはおそらくシリア地方へ脱出して行ったのかもしれない。
 以上で分かるとおり、クムラン宗団の活動は、紀元前4年頃から紀元68年までを最後にして、それ以後、この宗団は姿を消している。この時期は、ちょうどイエスの誕生(前4年?)から、バプテスマのヨハネの宣教、イエスの受難、原初キリスト教の成立、福音書の伝承資料の成立期と重なる(マルコによる福音書の編集が紀元70頃?)。
 道路から入り口までは、思っていたよりも緩やかな斜面で、それほど高い台地の上に遺跡があるという印象を受けなかった。他の観光バスと一緒になったせいか、大勢の人がいる。売店も充実していて、特に本の売り場が広い。食堂も広く、人でいっぱいである。わたしたちもそこで昼食をとった。昼食を終えると、まずビデオを見るのだという。イタリア語の観客が見終えると、わたしたちは、アメリカの人たちと一緒に英語のビデオを見ることになった。10人ほどの白い衣服をまとった人たちの敬虔で質素な生活が紹介されると、ヨハネ(後に洗礼者ヨハネと呼ばれる人)が、加入してきた。彼は優れた能力を発揮したけれども、宗団の正規のメンバーになる前に、ここを出て、自分の伝道を開始したというような内容であった。ビデオが終わると、スクリーンが上がって、写本が発見された洞窟そのままの状態が現われた。クムランもずいぶん有名になったものである。
 わたしはそれまで、クムラン宗団のおおよそのことは知っていたが、それは主としてエッセネ派の死海写本と結びついていた。エッセネ派の存在は、フィロンやヨセフスによって伝えられていたが、長い間その実体は謎のままであった。死海写本の発見と遺跡の発掘で、ようやくその実体が浮かび上がってきたのである。この派は、ファリサイ派などのユダヤ教の中でも、洗礼者ヨハネと関係があり、彼がイエスとつながることで、キリスト教の起源とも関わっているが、その実体はまだよく分からない。だが、死海写本とクムラン宗団の遺跡が、エジプトでのナグ・ハマディ文書群の発見と並んで、最初期のキリスト教の理解に画期的な影響を与えることになった。わたしは、ここへ来てみて、改めてクムラン宗団が、きわめて高度の修道院であったことが分かった。「修道院」というのはわけがある、それは、わたしに言わせるなら、この宗団が、後のヨーロッパの修道院制度の原型になっているのではないか? こう考えるからである。
 遺跡に入ると、薄暗い部屋に白い大きな浴槽が左側にある。部屋全体もそれほど大きくはなく、浴槽の位置がずいぶん低い。上から見下ろすような感じである。これは沐浴(もくよく)のためである。沐浴は身を清めるためにするものであるから、前身を水に浸さなければならない。沈むとどうしても髪の毛が浮くから、髪の毛一筋でも水面に浮いては沐浴にならない。浴槽が低くなっているのは、全部水に沈んだかどうかを見届けるためであると言う。沐浴がクムラン宗団の大事な勤めの式であったことは知っていたが、ここまで徹底しているとは思わなかった。
 クムラン宗団の遺跡の規模は、わたしの予想をはるかに上回るもので、その全体を見たわけではないが、最初に見たこの沐浴の場からは、とても強い印象を受けた。次にわたしが興味を引かれたのは写本の部屋である。灰色の石造りの長方形の部屋に、石のテーブルが長く伸びている。テーブルの上には、写本のもととなる羊皮紙の見本が置いてある。部屋にはそれ以外になにもない。写本室の見取り図を見ると、そこは二階であって、下にも同じ長さの部屋があった。写本を読むための部屋だろうか。写本室の隣にはさらに広い部屋が二つあって、そこには棚が設けられていて、写本を収めた大小の壺が置かれていた。さしずめ蔵書室である。と言っても人が歩くスペースもかなり広い。その下にも部屋があり、そこは写本に関わるいろいろな作業をする場所であったらしい。これはどう見ても立派な図書館である。
 グループの人たちが出て行った後も、わたしは一人その場に立ちつくしていた。知的と言うよりは、霊的な厳かさを身に覚える。後で、イスラエル博物館で写本の復刻を目にするのだが、写本は、思ったよりも小さな文字でぎっしりと書き込まれている。イザヤ書などは、現存のものとほとんど同じだそうである。しかもその正確さは、目で見ながら写したからではなく、聖書を徹底的に記憶しているからだとガイドの西郷さんが言う。彼が割礼を受けてユダヤ教に改宗した時にも、(旧約)聖書を徹底的に覚えさせられたそうである。本は焼かれ、いつかは朽ちていく。しかし人が記憶したことは、どんな状況でも奪われることがなく、しかも後の代まで人から人へと伝えることができる。これが信仰を伝える最も確実な方法なのだ。こう西郷さんは言った。「人間は墨と筆で信仰を全うするように生まれたのではない」というエチオピア語エノク書の一節を想い出した。わたしには耳の痛い言葉である。たとえ写しの原本が置かれていたとしても、筆記者たちは、聖書を脳裏に刻み込んだ人たちであったのは間違いない。「ヤハウェ」の神聖な四文字が出てくる度に、彼らは室内の小さな水槽で手を浄めたとガイドブックにある。部屋から出がけにテーブルの上の羊皮紙に触ってみた。柔らかくしっとりとしていて、紙のすべすべした感触とは全く異なっていた。
 わたしたちは、遺跡の南の端近くへ出た。そこから深い谷を隔てて、巨大な岩山の堆積と、そのあちこちに黒い洞窟が見える。さらにその背後には、やや黒ずんだいっそう高い岩山の壁が連なっていて、青空を区切っている。向かい側の岩山の崖下の中程に、ヨベル書を含む多くの写本が発見された第四洞窟が見える。なるほどあんな所では、上からも下からも容易に近づけないだろう。
 ここから直線距離にして20キロほど西にエルサレムがある。クムランの人たちから見れば、エルサレム神殿で行なわれている礼拝は、とうてい容認し難いものであった。そこで行なわれるきらびやかな祭儀、その律法解釈、大祭司一族を中心とする祭司たちの贅沢な暮らしぶり、とりわけ、おびただしく捧げられる動物の犠牲は、それが血による罪の贖いというユダヤ教の最も中心的な祭儀に関わるだけに、祭司による簡素な祭儀と沐浴だけのクムラン宗団にとっては、とうてい容認できなかった。神殿に捧げる犠牲よりは、祈りと礼拝による霊的な犠牲をこそ重視すべきだからである。彼らから見れば、地上の権力(ローマ帝国)と妥協したエルサレムの祭司制度は、それだけで偶像礼拝とほとんど変わるところがなかった。「偽りの礼拝、虚偽の犠牲、欺瞞の説教」、これが、クムラン宗団が当時のエルサレムの神殿礼拝に対して抱いていた憎悪であった。
 わずか20キロの隔たりで、どうしてこうも異なる信仰形態が存在しえたのか? その謎はこの岩山の連なりが作り出している距離感にもあるのではないか。ダビデがサウルから逃れて、この岩山を転々としたのも、ここはエルサレムからの逃亡者たちの隠れ家としてかっこうの場所だったからであろう。かつて存在したベルリンの壁や、現在建設中のパレスチナ住民とイスラエルとを隔てる壁よりも、この天然の壁のほうが、圧倒的な心理的距離感を作り出している。わたしにはそう思われた。だからこそ、エッセネ派の人たちは、このクムランの修道院聖堂を拠点として、南はマサダから死海の北岸にかけて、共同体を営んでいたのであろう〔Eli Barnavi, A Historical Atlas of the Jewish People.42.〕。
 グループの人たちの後からバスへ向かっていた時に、東側に墓地の案内が目についた。高台と言ってもそれほどではないから、東はそのまま死海へと続いているように見える。もしもその青い案内がなかったら、そこに広がる石だらけの土地が墓地だとは気づかなかっただろう。思わず墓地へ足を向けた。遺跡の西側には、1100もの男性だけが、個人として埋葬されている。さらにそこから離れた?場所には、やや無計画に女性や子供たちが埋葬されていた。彼らは、復活の時に入るエデンの楽園(パラダイス)が、遙か北方のアララト山にあると信じていたから、その方向を「見つめる」ように(すなわち頭を南に向けて)埋葬されていると研究書にある。
 わたしは長い間、キリスト教の独身制、特に聖職者や修道院の独身制は、どこから来たのだろうという疑問をいだいていた。ユダヤ教には、そのような独身を勧める思想はないからである。ところが、クムランの信仰の戦士たちは、キティーム(ローマ)との終末的な霊闘に備えていたから、少年や子供や女子はその陣営に近づくことができなかった。「霊肉ともに完全で、報復の日のために備えができている者」でなければならなかったからである〔『戦いの書』7章4~10節〕。戦士たちは、白い麻の衣と亜麻布の下服を「戦いの衣」として身にまとわなければならなかった。「衣」は霊衣を意味するから、これらの戦士たちは、「女に触れて身を汚したことのない者」たち(ヨハネ黙示録14章4節)であろう。ヨハネ黙示録のこの人たちもクムランの戦士たちと同じように麻の衣あるいは亜麻布をまとっている(ヨハネ黙示録14章9節/15章6節/19章8節)。エッセネの人たちは、生殖によって子孫を増やそうとしない世にも珍しい人たちだとプルタルコスがその『博物誌』で書いているから、彼らは純潔を旨として修道生活を行なっていたと思われる。しかし、このような修道生活の周辺には、家庭を持ちつつ、日常の生活を送るエッセネ派の人たちがかなりいたと考えられる。
 終末の戦いに備えて独身を守り通した人たち、あるいは彼らの周辺で通常の生活を営みながら、終末に備えていた人たち、彼らは、終末の到来の時には、復活してメシアに出会う備えをしていたのであろう。その復活がどのようなものであったのか? これを定かに知ることはできないが、はるか北の方角に存在するとされた「義の園」へ入るべく彼らは身を清めていたのであろう。東側に広がる墓地を見ながら、わたしはそんなことを考えていた。
■ヤルデニートへ
 クムランの遺跡と死海を後にして、バスは北へ向かう。海がなくなると東側に平野部が、はるかうっすらと見える山地まで広がる。と言っても、所々に緑が点在する程度の荒れ地である。しかしかなり離れて、南北の道路に並行するように、緑の線が走っている。ヨルダン河である。1967年のいわゆる六日戦争までは、今走っている所もヨルダン領であった。だが今は、あの緑の線の中を流れるヨルダン河が、イスラエルとヨルダンとの国境になっている。西郷さんが、朽ち果てた建物を指して、あれはかつてのヨルダン軍の陣地の跡だと言う。
 反対の西側にも同じような平地が広がっているが、こちら側は丘陵地がかなり近い。その丘陵の麓に小さく見えるのがエリコである。けれどもそこは現在パレスチナ人の居住地になっているから簡単に近づくわけにはいかないらしい。イスラエル兵が構えている検問所を通る。死海の東側につらなる山々のひとつに、モーセが約束の地をはるかに望み見たと伝えられるネボ山があるが、モーセが見渡したのは、岩山に囲まれた死海と、そこから北へ延びるヨルダン河と、はるかエリコまで広がる平地であり、平地を遮る山々であったことになる(申命記34章)。モーセの後を継いだヨシュアは、イスラエルの民を率いて、東側のあの山地からヨルダン河を渡って、エリコへと攻め込んだ(ヨシュア記3章)。エリコは、イスラエルの民が攻め入るずっと以前からの古い町であったらしい。オアシスのお陰で、この町は珍しく丘陵の麓の平地に建てられていた。このため外敵の侵入から町を護る高い城壁で囲まれていた。死海の周辺には地震が多いから、地震が原因で崩れたと思われる城壁の跡があるらしい〔『聖書考古学大事典』〕。
 エリコを過ぎた所に、イエスがサタンに試みられたと伝えられる誘惑の山が見える。「山」と言ってもやや高い丘に近い。やや青く見えるが、写真で見ると白茶けた岩山である。その上からオアシスと緑に覆われたエリコの町が見渡せるから、サタンはこの町を見せてイエスを誘惑したのだろうと西郷さんが言う。バス路線の東側のヨルダン河で、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた。だからイエスは、この辺りの平地部と丘陵地を御霊に「引き回されて」サタンに試みられたことになる。今は過越を間近に控えた雨期の終わりになるから、この辺りも炎天下よりは幾分過ごしやすいように見える。気温もそれほど低くない。
 わたしは、イエスの伝道が、ヨハネ福音書にある3度のエルサレム訪問を含めて、紀元28年の1月~2月の受洗に始まり、30年の春の過越祭までのほぼ2年あまりと考えている(実際の年代はずれているかもしれないが)。とすれば、イエスの「荒れ地の誘惑」は、ちょうど今頃にあたることになろう。この時期だと40日間の断食も真夏よりは耐えやすいのではないか? そんなことを考えていた。
 エリコを過ぎてしばらく行くと両側の平地も丘も緑に覆われてくる。ヨルダン河の西岸地域のあたりに、緑の中に赤い絨毯を敷いたように、アネモネが群生している。緑の広がる野原には、わたしの知らない小さな花々が咲き乱れている。先ほどまでの景色とのあまりの違いに驚いていると、「まるで別の国へ来たみたいだ」と誰かが言う。バスでわずか20~30分足らずで、どうしてこんなにも景色が変わるのか? 皆もバスから降りて、この美しい花の宝石の拡がりに見とれている。「野の花を見なさい」とはこういうことなのかと、不思議に思って眺めていた。
 ヨルダン河は、この辺りからイスラエル領内のほうへ蛇行しているらしい。野原の間を流れる川が見え隠れするが、川幅は思ったよりも狭い。そこから少し行ったところがヤルデニートで、ガリラヤ湖から流れる川が大きく西へ曲がっているところである。そこは川幅もかなり広く流れも緩やかなので、現在のイスラエル領でこの川で洗礼を受けることができる唯一の場所になっている。このために大勢の人でにぎわっていた。白い衣をまとった人たちが、川に入り身を沈めている。アメリカから来た人たちらしい。尋ねてみると、彼らはすでに洗礼を受けているクリスチャンたちなのだが、やはりこの川での浸礼は特別に象徴的な意味を持つと言う。少し離れたところは静かで人気もなく、両岸に木立があるので、そこでしばらく川面を眺める。
 ヤルデニートを出て少し行くと、木立の間から湖が見えてきた。ガリラヤ湖の南端に出たのだ。バスはそのまま湖の西側に沿って北上する。ティベリアスはかなり大きな街であるが、そこを過ぎるとマグダラの町があり、そのすぐ北がゲネサレトで、ここがわたしたちの宿舎のある町である。ゲネサレト(現代のヘブライ名はゲノサレ)はガリラヤ湖の幅が最も広くなっている所の西岸になる。ガリラヤ湖の岸には、琵琶湖のような平野部がほとんどない。ただ沿岸からやや奥まった所に山地があって、その平野部にティベリアスやマグダラがある。ゲネサレトは、ティベリアスやマグダラよりはやや広い平地にあるが、それでも岸から歩いて行けるほどの所に丘陵地がある。
 わたしたちのノフ・ゲノサレ・ホテルは、キブツが経営しているので、ホテルというよりは、やや民宿に近い雰囲気である。キブツの敷地は湖に面していてかなり広く、広い芝生には花壇があり、芝生の周囲に幾つかの宿舎がある。部屋はけっこう泊まり心地がよい。メインの建物は二階建てで、下がロビーで上が食堂である。夕食は野菜や果物やケーキの種類が多く、品数が多いので慣れないわたしにはどれを採っていいのか迷うほどである。中には香料の香りの強いものもあるが、あっさりした味付けの料理もある。ワインが数本置いてあったので、グラスで一杯いただけないかと尋ねると、これは安息日用のワインだから、ただで持って行ってもいいと言う。そうか今日は金曜日だから、これから安息日に入るのだ。いただいたワインを皆さんで飲む。安息日に家族で飲むためのものであるから、やや甘くあっさりしていて、おいしかった。
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