イスラエル一巡記(2)
ガリラヤからエルサレムへ
2007年
【3月17日】
■ガリラヤの舟
ホテルで朝食を済ませると、わたしたちは、すぐ近くにある「ガリラヤ人の博物館」を歩いて訪れた。1986年の1月に、ゲネサレトの二人の兄弟が、岸からそう遠くない所に古代の木舟が埋もれていたのを発見した。イスラエルの考古学博物館庁は、多くのヴォランティアたちの助けを借りて、わずか11日間の作業でその舟を引き上げ、これをファイバー・グラスとポリウレタンで梱包することができた。舟は非常にもろくなっていたので、合成の蝋を含む液にこれを浸して保存し、その後に14年かけて、これを乾燥させて木の湾曲を防ぎ、不純物を取り除かなければならなかった。このニュースは、発見当時、世界に報道されて、各国から多くのボォランティアたちや見物客が押し寄せたそうである。
舟は長さ8.2メートル、幅2.3メートル、高さ1.2メートルで、炭素14分析によって調査したところ、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて、漁あるいは物資の運搬に用いられたものと推定された。この舟は、イエスとその弟子たちが伝道活動を行なった頃を想い出させる。紀元67年に、ユダヤ人とローマ軍とが闘った時に、湖上から攻撃したユダヤ人たちに対して、ローマ軍は巨大な筏を組んでこれを攻撃した〔ヨセフス『ユダヤ戦記』第4巻10章9節〕。その時に沈んだものではないかと思われる。この時代の舟のモザイク画が博物館に残っているが、絵のほうは帆柱が2本あることを除けば、全く同じ構造である。紀元3世紀以後では、舟の構造も作り方も全く異なるそうである。
発見された舟の模型を見ると、真ん中に簡単な帆柱が一つあり、船尾と舳先の部分は板張りになっていて、真ん中だけが開いている。せいぜい10人くらいで、12人も乗れば舟は一杯になるだろう。これを真ん中の4〜6人が漕いで、ガリラヤ湖を横断したのであろう。この型の舟は、通常の二人乗りの小舟ではないから、使われている木材も工法もかなり手が込んでいる。だからこれは当時としては相当に高価なものであったらしい。この舟だと、イエスは、船尾か舳先に坐って話すことも、また立って大勢の人たちに語ることもできたのだろう。実物を見に部屋に入る。2000年前の舟が、黒い肋骨を見せて、薄暗い部屋の中に亡霊のように横たわっている。これを見ながら、嵐の夜にその舳先の板張りの上で眠っているイエスの姿を想像した。
■山上の垂訓教会へ
ゲネサレトからバスでガリラヤ湖の北岸にある山上の垂訓教会へ向かう。なだらかな緑の丘陵地帯を曲がりくねりながら20分ほど行くと、なつめやしの木の間から、丸い青みがかったドームを頂くカトリック教会が見えてきた。すでにビザンティン時代からここに教会があったと言うが、現在の会堂は1930年に完成したとガイドブックにある。教会が建っている丘は、別名「祝福の丘」と呼ばれていて、イエスの語った八つの「幸いなるかな」(マタイ5章3〜10節)にちなんで教会は八角形になっている。
わたしはかねがねマタイ福音書5章の山上の教えとルカ福音書6章の平地の教えと、どちらがほんとうなのだろうと思っていたが、こういう丘陵地帯なら、丘の「上」でも中腹でも少し下がった「平地」でもほとんど変わらない。ほんの少し位置をずらせばどちらにもなるだろう。この山上の垂訓教会も丘の「上に」立っているのではなく、丘陵地の中腹にある。それでも、いつの間にかガリラヤ湖のかなり上のほうに来ているから、ここから、西岸をも含めてガリラヤ湖が見渡せる。この辺りの丘陵地は、湖の岸まで迫っているから、湖の沿岸に平地はほとんどない。イエスが弟子たちと共に歩きながら群衆に語ったのは、こういうなだらかな丘陵地帯だったのだ。イエスが神の国はどのような「かたち」なのかを教えたのは、こういう所だったのかと思った。確かなことは分からないが、イエスが12使徒を選んだのもこの辺りだったのだろうか。
■パンの奇跡の教会
祝福の丘をバスで少し下ると、5000人にパンと魚を分け与えた奇跡を記念する「パンの奇跡の教会」がある。入り口近くの石畳の上に大きな一対のひき臼が置かれている。一つは、大きな石に棒を通してオリーブをすり潰し、もう一つのほうでこれを絞って油を採るためである。この教会の歴史は古く、350年にはすでに教会が建てられていた。さらに6世紀にこれが修復されたが、現在の教会は、これの土台の上に建てられていて、ベネディクト派の修道院として用いられている。会堂の中は淡い肌色の石でできていて、簡素だがとても美しい。
ここの床はなんとビザンティン時代のままである。パレスチナで「ビザンティン時代」と言うのは、紀元330年にコンスタンティヌス帝がビザンティウムをローマ帝国の首都として、これをコンスタンティノポリス(現在のトルコのイスタンブール)と名を改めてから、パレスチナがイスラム軍に占領される638年までの時期を言う。石造りの大きな聖餐用のテーブルの下に、二匹の魚に挟まれた籠がモザイク模様で描かれている。どういうわけだか、パンは四つしか見えない。見えない一つは籠の底にあって、まだこれから食べる人たちのために残してあるのかもしれない。床には、この辺りに生息する鳥や岩狸などの絵があって、何とも楽しい。教会の出口で売っている魚とパンのモザイクの板絵を記念に買った。
■ペトロの召命教会
そこからバスでほんの少し下ると、「ペトロ首位権の教会」という聞き慣れない名前の教会がある。丘を下って、湖の岸辺から70〜80メートルほどの場所にそれは建っている。やや黒ずんだ煉瓦でできている小さな教会堂で、湖畔まで砂利の浜になっている。なるほどここは、カファルナウムの遺跡のある丘のすぐ近くだから、シモンペトロとアンデレ、それにゼベダイの子ヨハネとヤコブとが「人をとる漁」へと召命を受けた場所にふさわしい(マルコ福音書1章16〜20節)。ここは「ペトロの召命教会」と呼ぶほうがいいようだ。
案内書によれば、イエスの頃、この辺りは石切場だったらしい。ビザンティン時代の4世紀から5世紀にかけて、ここにはすでに教会堂が建てられていた。9世紀の旅行者の記録によれば、「炭火の場所」と呼ばれていたらしい。しかし、1187年に、十字軍がアラブ軍によって敗退させられてから、一度破壊され、13世紀に再興されたが、これもまた崩された。その後1933年に、廃墟となっていたこの場所にフランシスコ派が教会堂を建てて、会堂の祭壇が完成したのは1982年のことだと言う。
ここが「炭火の場所」と呼ばれたのは、イエスの復活の後に、湖の岸辺で、ペトロを初めとする弟子たちにイエスがその姿を顕現して、石の上で魚を焼いて食べたとある記事にちなんだのであろう(ヨハネ福音書21章)。しかしヨハネ福音書はその場所を「ティベリアスの湖畔」と記している。もっとも、「ティベリアスの湖畔」とあるからと言って、ティベリアスの岸辺でなければならない理由はないだろうが。「炭火の場所」では、イエスがペトロに「わたしの羊を養え」と3度も念を押したとヨハネ福音書にあるから、カトリック教会は、ペトロの最初の召命とイエスの復活後のペトロへの最後の召命とを重ね合わせて、ペトロの「首位権」を確立するために、「首位権の教会 」“The
Church of the Primacy”という建物に似合わないいかめしい名前を付けたのだろう。ヴァチカンの聖堂は、首位権の不動を誇っているが、ここガリラヤ湖の「首位権」のほうは、いろいろと紆余曲折があったようだ。教会の中には、上が平たい大きな石が安置してあって、この石は“Mensa”(食卓/祭台)と呼ばれている。
教会の側には泉があって、そこに比較的新しいと思われる彫像がある。イエスが、立ったまま牧丈をその前に跪くペトロに差し出している。ペトロは、その牧丈の下方をしっかりと握っていて、イエスからペトロへの「首位権」の譲渡をみごとに表現している。首位権はともかく、丘が湖に迫っているこの辺りで、ここは珍しく?岸がやや広いから、4人の使徒たちの召命の場としては、確かにふさわしい。湖に手を浸してから見渡すと、右手にティベリアスやマグダラやゲネサレトの湖岸が青く見える。やや曇った空の下で、湖はゆったりと穏やかに横たわっている。わたしも思わず佇んで、しばらく湖面を眺めていた。
■カファルナウムの遺跡
ペトロの召命教会からバスで2〜3分の所に、カファルナウムの遺跡がある。写真で見ると、山上の垂訓教会から、直線距離にして200〜300メートルほど東南になろうか。買ってきた案内書によれば、ティベリアスから16キロとある。遺跡はガリラヤ湖に面しているように見えるけれども、小高い丘の裾が湖畔まで広がる感じで、波打ち際には「海岸」と呼べるほどの拡がりはほとんど見あたらない。
カファルナウムは、ヘブライ語で「クファル・ナウム」で、「ナウムの村」という意味らしいが、ナウムという人がどんな人物かは分からない。新共同訳では「カファルナウム」となっている(現在はケファル・ナフム)。ここが「イエスの町」であり、「キリスト教の揺りかご」だと案内書にある。この遺跡に最初に気づいたのは、アメリカ人のロビンソンで、1838年のことであった。1866年に、イギリス人のウィルソンが、その廃墟が会堂の跡であることと、その北にある墓地とを確認している。1968年〜91年に、フランシスコ派の考古学者たちによる本格的な調査と発掘が行なわれ、会堂とペトロの家を含む遺跡の全貌が現われた。
町全体の遺跡は、湖に沿うように東西300メートル、南北200メートルとあるが、実際の遺跡群に立つと、南北に長い長方形に見える。ここは、エルサレム、地中海沿岸のアッコ、北のダマスコからの諸街道が、どれもここを通ってバビロンへつながっていたから、イエスの時代の少し前から交通の中継地だった。またイエスの頃は、ここがヘロデ・アンティパスの支配するガリラヤとヘロデ・フィリポスの領土との境になるから、収税所があり(マルコ2章1〜3節)、ローマ軍の分隊の駐屯地でもあった(マタイ8章5節)。この町が最も大きかったのは、ビザンティン時代で、1500人ほどの住民がいたとある。ヨセフスによれば、ユダヤ戦争の頃のマグダラの人口が4万とあるから、カファルナウムは、町として大きいとは言えないだろう。ただし、ヨセフスの記述には誇張があるから鵜呑みにできない。案内書によれば、もともとここにはユダヤ人キリスト教徒たちが多かったが、ユダヤ戦争の時には、ユダヤ人としてローマ軍と闘ったらしい。3世紀から4世紀にかけては、異邦人を含む大勢のキリスト教徒が住んでいたとある。
■カファルナウムの会堂
わたしたちが最初に訪れたのはシナゴーグの跡であった。白っぽい花崗岩の広い長方形のホールで、床には大きな石が敷かれていて、正面の壁の前に白いローマ風の美しい柱が二本立っているから、入ったとたん、ローマの神殿跡かと思うほどである。会堂の東西の壁に沿って石の座席があり、ホールの東側にも天井のない広間が隣接している。復元図を見るとアーチ型の文様で飾られた正面の入り口と、ほかに四つも入り口があるから、会堂と言うより聖堂に近い立派な建物であったろう。この建物はビザンティン時代の4世紀後半のもので、隣のホールは5世紀のものだと言う。しかしイスラムの支配が始まる7世紀には見捨てられて、その石はアラブ人の住居に使われたらしい。
ところが発掘を進めるに連れて、花崗岩の土台の下に黒い玄武岩の礎石があり、この会堂が、玄武岩の土台の上に建てられていて、しかも周囲は小石で舗装されていたことが分かった。カファルナウム周辺にある玄武岩が用いられているのは、この土台が1世紀のものであることを証しするから、これはイエスの時代にさかのぼることになろう。なるほど、白い花崗岩のかなり大きな方形の土台石が、黒い不揃いな土台の上に重なっているのがはっきりと見える。周辺には、不揃いな大小の石が舗装用に用いられている。会堂の北側にも遺跡が拡がり、そこにイエスの時代の住民たちの生活を偲ばせるひき臼や墓石やその他の石造りの道具が並んでいて、飾りの跡を残す玄武岩の石も並んでいる。自分は今、新約聖書の舞台の上に立っている。そう思った。
■ペトロの家
会堂から30メートルほど南に「ペトロの家」の遺跡がある。会堂と家との間にも通りに沿って家々の遺跡があるが、ペトロの家は会堂のすぐ近くだったのが分かる(マルコ1章29節)。案内書によると、家の遺跡は「ヘレニズム時代の後期」とあるからイエスの生まれた頃になるのだろうか。南北に12メートルほど、東西に8〜9メートルほどの長方形(45〜47坪くらい)の石壁に囲まれていた。囲いの中には、西側に2軒分ほどの家(1部屋1軒)があり、東南部分にも同じく2軒分ほどの家があり、その並びの北に接してかなり大きな正方形の家/部屋とその西に1軒分の部屋があったようだ。全部で6軒ほどで、その正方形の部屋がペトロの家だったらしい。真ん中はかなり広いL字型の中庭になっていて、そこが煮炊きする場であり、穀物などを碾(ひ)く共同の場所だったのだろう。ほとんどの家は1軒1部屋だったのだろうか? 「灯火をともして燭台の上に置けば、家の中の全てを照らす」(マタイ5章15節)とあるが、なるほど一つの灯火で「家全体」が明るくなるのだ。
ここは、2世紀の始め頃には「集会の家」として使用されていた。4世紀には、この集会の家は、ペトロの家だけを中心にした集会場に変わり、かなり広い正方形の壁に囲まれていた。中心となる部屋にはアーチ型の入り口があり、部屋の床も壁も漆喰で塗られていたらしい。カファルナウムのほかの家の遺跡で、漆喰が使われていたところはほかにないとある。さらに5世紀になると、ペトロの家は埋められて、家の場所を中心に8角形の広い会堂がその上に建てられた。発掘された石に書かれている言語が多様であることから、ここはキリスト教の巡礼の聖地となっていたのが分かる。この会堂は7世紀のイスラム支配時代まで使われていた。
1990年に、この遺跡全体を覆うように、大きな八角形の屋根のある集会場が建てられた。建物の床下が高くなっていて、訪れた人は、会場の床下からのぞき込むようにして遺跡を観なければならない。だから案内に書かれていることを目で確かめることができないのである。ペトロの家の上で祈りを捧げたいという敬虔な想いに水を差すつもりは毛頭ないが、せっかく遺跡が目の前にあって、遠くから訪れる人たちも多いのに、貴重な発掘の結果を間近に観ることができないのは残念である。風雨にさらされる恐れがあるのなら、それを防ぐ手だてがほかにもあるはずだから、ここはやはり、会堂での説教ではなく、遺跡それ自体に語りかけさせてほしかった。
■エン・ゲブ
カファルナウムの遺跡を離れたバスは東に向かう。丘陵地帯が緑の平野に変わるが、遠くに丘の連なりが見えるのは変わらない。この辺りは、ヘロデ・アンティパスの領土ではなかったから、ガリラヤではない。だが、聖書では、この辺りも含めて「ガリラヤ」と呼ばれている。湖の東北にはベトサイダがあり、そこがフィリポの出身地だった(ヨハネ12章21節)。バスの行く手にゴラン高原が見える。六日戦争までは、この高原はシリア領であったが、今はイスラエルが占領している。シリアとの間に紛争が生じるのはこのためで、現在、国連軍がイスラエル軍とシリア軍との境を監視していて、日本の自衛隊もこれに加わっている。なるほど、この高原の上に陣地を構えられたら、ガリラヤ湖の周辺全体が砲撃の射程に入ることになるだろう。
高原と湖畔に挟まれた道路を今度は南へ降り、湖の東岸に沿って走るとエン・ゲブという所へ来た。ここでは昼食に「聖ペトロの魚」が出た。この魚は口にものをくわえる習性があって、石ころなどをくわえることが多いそうだから、ペトロの釣った魚は、どうやら石の代わりに銀貨をくわえていたのだろう(マタイ17章24〜27節)。レモンが付いていて、形はどこか鯛に似ているのだが、あまり味が感じられない。グループの方が醤油を用意していて、これをかけるとおいしいと薦めてくれた。
昼食の後、そこから船でガリラヤ湖の北半分を遊覧する。船は湖の中程から北へ向かう。左側に、ティベリアス、マグダラ、ゲネサレトの沿岸がうっすらと見える。北にはカファルナウムがあり、その右方向の端にベトサイダがあるのだろう。イエスの一行は、こういう景色を眺めながら湖を渡ったのかと思いながら立っていた。遊覧船は引き返して東岸へ向かう。すると風が強くなって、船が揺れだした。「横波だ」とガイドさんが言う。ガリラヤ湖の東西はそれほど広くないから、こんな距離で船が沈みそうになるほどの嵐に悩むことがあるのだろうかと思っていた。ところが湖は南北にやや長いから、南から風が吹くと強い高波が発生する。これがガリラヤ湖の「横波」である。船が東西に走っている時には、この横波は危険なのだ。「水の上を歩ける信仰のない人は溺れるしかないね」と誰かが言った。
■ナザレへ
船を降りると、バスは南下を続ける。右側(東)の丘の裾がかなり迫ってくる。この辺りは、マルコ福音書(5章1〜20節)で語られる悪霊憑きの話の舞台だと西郷さんが言う。マルコ福音書に、イエスの一行は「湖の向こう岸、ゲラサ人の地方に着いた」とある。マタイ福音書では同じ話が、ガダラ地方のことになっている。エン・ゲブの少し北に「ゲルゲサ」という所があるから、現在では、ここがその場所であろうと推定されている。湖の東側は、イスラエルの人たちから見れば、もともと「異教の地」であって、逃亡者や追放された人びとがこの地方に住むことが多かったと言う。だから「ゲラサ」にせよ「ガダラ」にせよ、そういう意味を帯びていたのだろう。丘はそれほど高くないが、かなりの急斜面が岸近くまで伸びているから、イエスによって追い出された悪霊どもが、豚の群れに入り込んで、豚が「崖をかけ下って湖へなだれ込んだ」とあるのもよく分かる。
バスは湖の最南端へ来た。そこから道を北西に折れて北上する。周囲の丘がだんだんと高くなる。やがてティベリアスからの77号線と出逢うとバスは左に折れて、カナとナザレへ向かう。カナは丘の上にあり、ナザレは丘の麓にある。水をワインに変えた奇跡を記念する教会堂が右に見えると言うのだが、肌色のきれいな建物が幾つも緑の丘の上にあるのでよく分からない。もっとも、カナの位置について、77号線のはるか北にあるキルベト・カーナと今通っているカフル・カーナとの二つの説がある。聖書地図などでは、北のキルベト・カーナを「カナ」としているようだが、距離的にはこのカフル・カーナのほうがナザレに近く、伝承に基づく記念の会堂のほうが、どうも聖書の記事にふさわしいように思われる。
やがて左側に、丘とその麓を家々がびっしりと埋め尽くしているのが目に入ってきた。この辺りは、イスラエル居住のパレスチナ人区域で、アラビア語の看板が目に入る。後で聞いたことだが、ここにはキリスト教徒のパレスチナ人もかなりいると言う。バスを降りると狭い道の両側に市場のような店が並んでいて、一瞬エジプトのカイロの市場を想い出した。
そこを抜けるとやや広い道路に出る。人通りが急に少なくなり、静かになると、白い塀に囲まれた巨大な教会堂が現われた。そこだけがまるで別世界のようである。塀の中に入ると、なだらかな三角屋根の巨大な白っぽい会堂の正面に出た。受胎告知教会である。1969年に完成した中近東最大のモダンな教会だとガイドブックにある。と言っても、ローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナが、最初にここに教会堂を建てて以来、ビザンティン時代にも、十字軍時代にも、ここに教会が建てられていたから、聖地としての歴史は古い。
正面の入り口のはるか上にある屋根の頂点には、キリストの像が立っている。その下の壁には、左に天使ガブリエル、右に処女マリアの線描画がある。さらにその下方には、左にマタイとマルコ、右にルカとヨハネの福音書記者が線描されている。入り口の上には「言葉は肉体となってわたしたちの間に宿られた」とラテン語で書かれている。見ただけで、ここがどのような教会なのかがよく分かる。
内部は薄暗く、壁には、世界中からの聖母子像が並んでいる。ルーマニアからとギリシアからのイコンのような聖母子が美しい。中に入るとそこは中二階になっていて、手すりの下を見下ろすと、10人ほどの人たちが座り、真ん中に司祭が立って聖書を朗読している。足音を忍ばせて歩く。司祭の後方には、洞窟のような部屋があり、奥に祭壇がおかれていて、その部屋だけが薄暗い石壁の中で輝くように明るい。そこでマリアが懐胎を告知されたのだろう。古来、洞窟は母胎を象徴するからすぐに分かった。しばらく、下の礼拝の模様と洞窟を眺めていた。
ここがほんとうにマリアさんの家のあった場所なのか、事の真偽は問うまい。ここがナザレであり、マリアもヨセフもここに住んでいたという聖書の証言で十分なのだ。アルメニア教会もギリシア正教会もルーマニア教会もカトリック教会もプロテスタントの教会も、ここで起こった受胎告知を偲び、「言葉が肉体となった」出来事に与るために、長い歴史を通じて礼拝を行なってきた。それは現在も続いていて、この情景はおそらく今後も変わらないだろう。信仰とはこういうものなのだと、聖堂それ自体が語りかけてくれる。
そこを出て、さらに上の階へ上がるとベンチの並ぶ広い会堂に出た。壁には、下のものよりも一回り大きい聖母子像が、ほんのりと明るい肌色の壁に並んでいる。長谷川ルカ画伯の「華の聖母子」がある。紫の衣装をまとった端麗な面立ちの武将の妻らしき聖母が、赤い羽織の子を抱いている。大きな画面一杯に、あやめのような花に囲まれた聖母子の気品がただよう。細川ガラシャ夫人をモデルにしていると言う。
グループは再び先ほどの洞窟の部屋を訪れて外へ出た。ナザレは丘に囲まれたすり鉢の中にあるから、帰りのバスは、ゆっくりと弧を描くように登る。振り返ると西日に照らされてナザレの全景が見える。ずいぶん広い街なのだ。丘を越えると下がり勾配になる。狭い道路に車が多く、しかも斜面がやや急なために、わたしたちのバスが追突事故を起こしてしまった。重いバスのブレーキが一瞬遅れたらしい。話し合いが付いたらしく、バスは再び動き出した。バスは77号線に出て、今度はティベリアス方向へまっすぐ走る。夕暮れの丘陵地帯が黒々と続く。左側にマグダラの町が見えると間もなくバスはゲノサレトの宿舎に戻った。
【3月18日】
■ツフォットへ
バスが出ると、今日はユダヤ教の聖地を訪れる、と西郷さんが改まって言う。名実共にユダヤ教徒である彼が言うには、イスラエルには聖地が四つある。一つはエルサレム。次はヘブロン。もうひとつは、ローマ帝国によってユダヤの国が滅びた後で、律法研究の中心地となったティベリアス。四つ目は、これから訪れる北部ガリラヤのツフォットで、ユダヤ神秘主義カバラの聖地である。ツフォットは、ガリラヤ湖のはるか北にあり、イスラエルとレバノンとの国境からそれほど離れていない。
丘と丘とが重なり合う間を縫うようにして、バスはだんだん高く登る。ごつごつした岩の白い固まりが、樹木の茂る緑の草地の間にごろごろしている。さらに高く登ると、樹木がなくなり、草地の丘一面に石の白い固まりが広がっている。見たこともない異様な風景である。北ガリラヤは、南ガリラヤと地形も風景もずいぶん異なる。
ツフォットはイスラエルで、最も高いところにある町だから、「山の上の町は隠れることがない」とあるとおり、先のイスラエルとレバノンのヒズボラとの戦争の時には、30分ごとに砲弾が飛んできたと西郷さんが言う。彼は、その時、ここで守備の任に着いていたのだ。現在この町には、エチオピアからの移民(ユダヤ教徒のエチオピア人)が多く住んでいると言う。彼らが多く住んでいる新市街を通り抜けると、わたしたちはバスを降りて歩くことになった。狭い石畳の道の両側に石造りの家々が立ち並び、道はいくつもの階段を上ったり降りたりして、迷路のようにつながっている。ヨーロッパ中世の町を思わせる雰囲気である。やがて、小さな礼拝堂の前に出た。ここがユダヤ神秘主義カバラの聖地である。
カバラは12世紀頃からフランスとスペインで盛んになったユダヤ神秘主義で、ルネサンス時代のヨーロッパ思想に大きな影響を与えている。ツフォットには、ラビ・ヤコブ・ベイラヴや、スペインからツフォットに来て彼の後を継いだラビ・ヨセフ・カロや、ラビ・シュケナズィー・ルーリアなど、優れたカバラのラビたちが住んでいた。
中に入ると内部はそれほど大きくないのに、真ん中に大きな正方形の壇があり、その南側には、赤い模様入りの幕の間に、「ヤハウェ」の神聖四文字とカバラ独特の彩りを添えたヘブライ文字が、不思議な型取りの中に書き込まれている。なんとなく密教の寺院のようだ。カバラではトーラーは人格体であって、週に一度しか姿を見せない。それで週に一度トーラーを読みながら、方形の壇の周囲を回ると言う。面白いのは、がっしりした木造の大きな椅子があって、古く磨き込まれたその背もたれに不思議な文字が彫り込まれている。厚い布張りで「エリヤの椅子」と言うのだそうだ。この椅子は、エリヤがいつ再臨しても座れるように常に空けてあるのだと言う。
会堂を出て路地を歩くと画廊があちこちにあって、独特の幻想的な絵がおいてある。ここには芸術家が多く住んでいるらしい。小さな骨董屋で神聖四文字の入っている絵文字のカードを買う。帰り道で、先生に引率された幼稚園帰りの子供たちに出会った。わたしたちを見ると、珍しい来客でも迎えるように、元気に歌を歌ってくれた。
■ドルーズの人たち
バスは再び丘を降りてから、南北ガリラヤの境あたりを西へ向かっている。ダリヤット・カルメルへ向かうのだと言う。途中で昼食を採るためにドルーズの人たちの町へ立ち寄る。「ドルーズ」というのはドルーズ教を信じている人たちのことで、イスラム教の特殊な分派である。ほんの一握りの指導者たちしかその教義を知らないと言うから、秘義的な宗教らしい。イスラム教からは異端と見なされて、厳しい迫害に遭い、この地に逃れてきて住み着いている。非常に結束が固く、イスラム教徒に対する彼らの憎しみはとても強い。戦争では、イスラムの兵士たちは、イスラエル兵よりも彼らのほうを怖がると言う。ここではアラビア語の看板があまり目につかない。ヘブライ語と英語のものが多い。わたしたちは、町の有力者が経営するレストランで食事を採った。野菜や果物などを含めて、とにかくいろいろな料理が数多く出てくる。ご主人の写真を一枚撮らせていただいた。
■カルメル山
昼食を済ませてから、エリヤがバアルの預言者たちと対決したカルメルの山へと向かう(現在の地名は「ダリヤット・カルメル」)。中部ガリラヤを東から西へ横断しているのだが、この辺りへ来ると丘もなだらかで、左右に緑が広がる。オリーブの木の並ぶ畑もある。この辺りが、イスラエルと昔のフェニキアとの境になる。イスラエルは王国時代の始まりには、ペリシテと闘わなければならなかった。ところが王国が北と南に分裂した頃には、北イスラエル王国はフェニキアの文化的、宗教的な浸透にさらされることになった。もっとも、ソロモン王の時代には、ツロを中心とするフェニキアの技能や文化を広く受け容れていた。その上、フェニキアの「バアル」もイスラエルの「ヤハウェ」も、どちらも「主」と呼ばれていたからことはややこしい。
北王国イスラエルの民は、フェニキアから多くの文化を吸収したが、同時に異教の后イゼベルまでも宮廷に受け容れてしまった。彼女は、宮廷入りしてから、宮廷だけでなく民にまで「偶像礼拝」を広めたから、預言者エリヤはたまりかねて立ち上がった。彼は、ここカルメル山で、バアルの預言者たちを集めて、バアルかヤハウェか、どちらの神の預言者が、天からの火を呼び求めることによって、祭壇の上の牛の献げ物を焼き尽くすことができるかを競うことで対決したのである(列王記上18章1〜40節)。
バスは再び、ゆるやかに曲がりくねりながら樹木の間を抜けて、古い教会へ来た。教会の横にはエリヤの像が建っているが、日曜なので一般の人は入ることができなかった。その代わり、教会の側の林から、昔のフェニキアの平野を見下ろすことにした。こうして見るといつの間にかずいぶん高いところに来ているのに気がつく。フェニキアの平野は、地中海の標高とそれほど違わないだろうから、なるほど、この山が、北イスラエル王国とフェニキアとの接点になっていたことが分かる。林のとぎれた崖の上に立つと、エリヤが預言者たちを殺したというキション川が細く伸びているのが見える。
西郷さんが、ラビから聞いた話を紹介してくれた。それによるとバアルの預言者たちは、前もって祭壇に細工をして、彼らが祈る時に、密かに誰かが火をつけるように仕組んでいたらしい。ところがこれを察知したエリヤが、密かにその者を殺してしまったから、預言者たちが呼べど叫べど、一向に火がくだらない。これを見てエリヤが笑ったというのである。人間の力と技で神の業を見せるのか? それともほんものの神の業が起こるのか? この対決をみごとに突いた解釈だと思った。
■カイサリアへ
わたしたちのバスは南下して、カイサリアへ向かう。左手(東側)にオリーブの林や緑の平野が広がる。と言っても全く起伏がないわけではない。ここから南東へと扇型にエズレルの平原地帯が広がっている。わたしたちはちょうどその西北端をかすめているのだ。エズレルの平原は、イスラエルの中央部にある唯一の平野で、それだけに貴重な農作物の産地であった。南北の王国時代には、この地はそのまま北イスラエル王国の中央を占めていたから、北王国は、山地の多い南ユダ王国に比べるとはるかに肥沃であった。しかし偶像礼拝に溺れた北王国は、その肥沃さと共にアッシリアの餌食にされた。イスラエルの敵は、まずこの平野へ攻め込んで来た。こうすることで、イスラエル全土は南北に完全に分断されるからである。アッシリアがとった作戦もこれである。北王国は、その肥沃さのゆえに偶像礼拝に誘われ、同時に敵の侵略にさらされるという皮肉な結果を招いたことになる。
しばらく行くと今度は西側に海岸が見えてきた。カイサリアに来たのだ。青い地中海が、広い白砂の向こうに広がる。海と砂浜は、イスラエルでは初めてだから、なんだか違った国へ来たようだ。その砂浜を海から遮るように古代ローマの?煉瓦造りの水道の遺跡が伸びている。「ローマの」と言ったが、実はこれは、ヘロデ大王がカイサリアの街を建てるために敷設した水道橋の跡で、なんとカルメル山の麓の水をここまで引いたと言う。この大王の建築熱はすさまじい。遺跡の途絶えた所から海を眺めているとグループの写真を撮ると言われたので引き返した。
ところがわたしたちが次に訪れたのは、カイサリアの遺跡ではなく、水道の遺跡と街の遺跡の間に挟まるように今もその姿をとどめている十字軍が築いた城塞であった。歴史がいきなり1000年以上も跳ぶ。ガイドブックによれば、ユダヤの国が滅びた後、カイサリアは新しい時代を迎えた。その後、紀元325年から634年までのビザンティン時代は、この街に繁栄の絶頂をもたらした。キリスト教を国教とするローマ帝国の保護を得て、この街には、ユダヤ人、キリスト教徒の諸民族、サマリア人と、併せて3万人ほどが住んでいたとある。しかし、この善い時代もイスラム教を信じるアラブ人の台頭によって640年に終わることになる。ところが11世紀の始めに突如として海から十字軍が侵攻してきて、エルサレムを占領し、エデッサ伯爵ボードワン1世がエルサレム王に即位した。彼は、1101年にカイサリアを占領すると、ほかの場所でもやったことをここでも繰り返して、アラブ人とユダヤ人を殺戮したのである。だが、この十字軍の時代も長くは続かず、イスラムの英雄と言われるサラディンによってエルサレムが再びイスラムの手に落ちると、カイサリアも1265年アラブの手に落ちた。
わたしたちが訪れたのは、その頃の十字軍の最後の城塞の跡である。石で固めた城塞の城壁は垂直ではなく、ちょうど日本の城のように斜めにカーブしている。梯子をかけて登るのを防ぐためである。入り口には、石造りの二重の門があり、敵が近づくと矢を射るための細長い穴がある。門には鉄柵が上から落ちる仕掛けになっている。そこを突破して中に入っても、狭い長方形の部屋があって、わずかな人数しか入れないから、たちまち殺されてしまう。その部屋から城の奥へ行く通路は狭く、通路の入り口の角が丸くなっている。そこに身を寄せて盾を構えると、通路は塞がれてしまう。アラブ軍の得意な馬もこれでは身動きがとれなかっただろう。海からも陸からも攻め込むのが難しいこの要塞も、アラブ軍を防ぐことができず、キリスト教徒の軍隊は、船で撤退せざるを得なかったと言う。城塞の壁と門だけはしっかり残っていたが、中へはいると遺跡はほとんど破壊されていた。
そこを出て今度はカイサリアの遺跡へ向かう。ヘロデの水道と十字軍の城とは1000年以上も隔たりがあるから、頭時計が1000年間を往復する。イスラエルでは、地理的な旅よりも時間の旅のほうが忙しい。十字軍の遺跡を出て歩いて少し行くとカイサリアの遺跡の入り口に来る。まっすぐ進んで先ず目に付くのは、左手に海を見晴らすように建っている競技場の跡である。野球場のような石の座席が幾重にも高く伸びている。座席はもとは楕円形だったのだが、今は半分しか残っていない。ここはチャリオット(一人乗りの軍車)の競技場だった。「ベン・ハー」の映画に出てくるあの場面がこういうところで行なわれていたのだ。
競技場を横目に見ながら進むと、海へ突き出たところにヘロデの宮殿の跡がある。宮殿はそれほど大きくはないが、これに隣接してローマ総督の官邸があった。ここが、イスラエル全土を支配するローマ軍の司令部だった。イエスの時代にポンテオ・ピラトは、この海岸に面した快適な官邸で、ヘロデと歓談しながら過ごしていたのだろう。そして祭りの時か、あるいはなんらかの緊急事態には、ここからまっすぐ馬に乗ってエルサレムへ向かい、神殿横のアントニアの砦に陣取るか、あるいはエルサレムのこれも壮麗なヘロデの宮殿にいたのであろう。大きな灰色の石碑があり、ラテン語で「TIBERIVM」と刻まれていて、その下に「・・・VS PILATVS」とあり、3段目に「・・・EFECTVSIVD・・・」とある。復元すれば、"Tiberium
Pontius Pilatus Praefectus
Iudaeae"となるから、「皇帝ティベリウスのポンテオ・ピラト、ユダヤの総督」である。ピラトの名前の刻まれた石碑は珍しく、これを発掘したのは助手の日本人だと西郷さんから聞いた。
総督府の南のほうには、堂々とした大劇場が今もほとんどそのまま残っている。半円形に幾段にもせりあがったそのローマ式の劇場は、入り口の配置から、俳優たちの登場口、貴族たちの入り口まで細かく設計されている。観客席の底に立って、紙を裂いてもその音が上まで聞こえるというのだから驚きである。ここは現在でも音楽会などに使われている。美しい大理石とも見える柱の名残が、幾本か立っていて、その横には倒れたままの柱が、2、3本ある。ヘロデは、アレクサンドリアを始め、東地中海一帯から珍しい石を運ばせてこの劇場を建てたと言う。大きな石灰石の白い石棺が残されていて、美しい文様が刻まれている。その大きさからして、ここに住んでいた身分の高いユダヤ人の石棺であろう。今更ながら、ローマの建築技術には舌を巻く。1世紀の著名なローマの建築家
ウィトルウィウスの『建築十書』が、17世紀のイギリスで規範とされていたのも頷ける。
総督府を挟んで、劇場とは反対の北側には、港があった。ガイドブックの復元図で見ると、この港も立派な回廊付きの壁で囲われていて、入り口はひとつしかなく、そこを入った船は、そのまままっすぐ波止場に着くと、ローマの神を祀る壮麗な神殿の前に出る。船から上がった漁師たちは、収穫の一部をそこへ捧げて、無事な帰還を感謝したと言う。現在は港を囲む壁は遺っていないが、波止場の半分ほどが復元されていて、船着場を上がると白い石畳の境内跡があって、崩れた神殿の遺跡の奥に、今もなお巨大な壁だけが立っている。緑の平野を背景にして、地中海に面して半円形に広がるローマ風のこの壮麗な港街は、イスラエルへの海からの玄関であった。
しかもここは、新約聖書にもしばしば登場する街である。わたしたちは、最初期の教会が誕生した頃、伝道者フィリポが(使徒のことではない)、この街へ伝道に来たのを知っている(使徒8章40節)。またペトロが、カイサリアに住むローマの百人隊長コルネリオに招かれて、異邦人の家に入り、そこで初めて異邦人にも異言を伴う聖霊が注がれたことを想い出す(使徒10章)。後で聞いたのだが、アレクサンドリアの著名な教父オリゲネスもこの街で塾を開いていたと言う。
何よりもパウロは、第三回伝道旅行の終わりにここへ上陸して(使徒21章8節)、ここからまっすぐエルサレムへ上るが、そこで逮捕されて、当時の総督フェリクスの命で、再びこの街へ送られて、ここで2年ほどを過ごすことになる。その間に、交代した総督のフェストゥスと会い、さらにアグリッパ王の前でも福音を証ししている(使徒23章31節以下)。その間彼は「ヘロデの官邸に留置された」(使徒23章35節)ことになっているが、総督府には地下牢もあったのだろうか? 「留置/拘禁」とは言うものの、総督の面前で演説するほどのローマ市民だから、おそらくは城壁の外へは出ないように命じられていたが、街の中は比較的自由に歩き回ることが許されていたのではないか。だとすれば、彼はここの海を眺めながら、故郷のタルソスを偲び、エフェソやフィリポやコリントの兄弟姉妹たちのことを案じていたと思われる。彼はこの港を出てから、二度と戻ることはなかった。
■エルサレムへ
カイサリアを出たバスは、今度はかつてのサマリアからユダヤへと縦断する。地中海沿岸沿いに広がる平野は「シャロンの野」と呼ばれ、雅歌にも「わたしはシャロンのばら」(2章1節)と歌われている。イザヤも終末の栄光が顕れる時に「砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる」(イザヤ35章2節)と預言した。けれども今は、最近新しく完成したばかりだと言うハイウエイ6号線をひた走る。夕暮れ近いシャロンの野は、高速道路に縦断されて昔の面影は感じられない。それでも南下するバスから見た西と東とでは景色がだいぶ違う。西には緑が拡がり、東はハイウエイの燈柱に間断なく切られながら小高い丘が点々と続く。やがてバスは、テルアビブからエルサレムへ通じる1号線と6号線との交差地点を左に折れて、エルサレムへ向かう。これもハイウエイで、道の両側には道路建設で削られた丘の白茶けた肌とこれに被さる緑が続く。
1948年のイスラエル建国の時には、このようなハイウエイはなく、丘が点々と続くその下をエルサレムへ通じる道が続いていた。ベン・グリオンの率いるイスラエルの部隊は、これらの丘に上に築かれたヨルダン軍の陣地から狙い撃ちされながらエルサレムへ向けて決死の突撃を敢行した。彼らは、トラックを厚い鉄板で覆った急ごしらえの「戦車」で、鉄の重みでのろのろと走るトラックの中から応戦しながら進軍しなければならなかった。その時の「トラック戦車」の残骸を赤茶けたままで道路脇の所々に見かける。この決死隊を記念するために、そのまま遺してあるのだそうだ。紀元70年に、ティトスの率いるローマ軍は、カイサリアを拠点としてイスラエル全土に侵攻した。その主力は、この道をまっすぐエルサレムへ向かった。それから2000年経ってから、ベン・グリオンの率いる部隊がエルサレムの奪回を目指してこの道を進んだ。イスラエルの歴史は長いと言うべきか、短いと言うべきか。こんなことを考えているうちに、行く手の夕闇の中に、灰色にかすんで、びっしりと家に覆われている丘が見えてきた。エルサレムへ来たのだ。
戻る