イスラエル一巡記(3)
展望の丘からヴィア・ドロローサへ
【3月19日(月)】
■展望の丘へ
エルサレム・ノヴォテ・ホテルは、聖ジョージ通りに面している。このイギリス風の名前は、その通りにある聖ジョージ教会から来ていて、静かなこの通りに面して三つのホテルが並んでいる。通りをまっすぐ南に降ると旧市街を囲む城壁のダマスコ門に出る。8時の集合なので、7時頃朝食を取りに降りていくと、大きな食堂は人でごった返していた。ナイジェリアから200名の巡礼団が来ていると言う。これ以外にも、フィンランドから、韓国から、エチオピアから、そして日本から観光/巡礼の人たちが集まっている。聞くとナイジェリアでは、聖地巡礼のために政府の補助金が出るのだそうだ。国策として巡礼を奨励しているのだから、200名、300名の団体も不思議ではないだろう。ナイジェリアの油田開発の利権はアメリカが握っていて、このため石油の利益が国民に十分行き渡らないというので、反政府活動が起こっていると聞く。そんな国内情勢と巡礼の奨励とがどう関係するのかよく分からないが、大声でしゃべりながら楽しそうだ。礼儀正しく英語で挨拶してくれるこの善男善女の中で、わたしも朝食を取る。
ホテルを出たバスは、エルサレム市街の東にある展望の丘へと登っていく。「登っていく」と言うのは正しくない。曲がりくねった道路を降りたり登ったりして進む。神殿の丘の東にオリーブ山があって、そこに展望の丘がある、ということは前から知っていた。しかしエルサレムへ来てすぐに分かったのは、そもそもこの街全体が大きな丘の上にあることである。それも一つの丘だけではない。「神殿の丘」という言い方も正しくない。わたしはひときわ高い丘の上に神殿があると思っていたが、旧市街全体が丘の上にあるのだから「ひときわ高い」という印象は受けない。旧市街の南にはダビデの町の丘があり、北にも新市街の広がる丘がある。エルサレム全体で、いったい丘は幾つあるのだろう。
展望の丘から街を眺めると、エルサレム全体がパノラマのように広がってくる。真ん中には、黄金のドームのモスクがひときわ目につく。なるほど「展望」とはよく言ったものだと思っていたら、西郷さんがその由来を説明してくれた。ローマ軍がカイサリアからエルサレムへ着いた時に、将軍ティトスは、先ずこの丘の上に登ってエルサレムを「展望した」。英語では“command”と言うが、これには「展望する/閲兵する/命令する」という意味があって、将軍が部隊を閲兵して彼らが自分の支配下にあることを確認し、またさせる意図がある。彼はエルサレムを「展望する」ことで、これの支配を確認しようとしたのだろう。「展望」の結果、この丘と神殿との間には深い谷があって、ここからの攻撃は無理だと判断したらしい。彼は、反対側の西から街を攻撃することにした。
わたしたちのほうは「征服」ではないが、「巡礼」と言うほどではないまでも、畏敬をこめた観光になるのだろうか。緑の帯のようなキドロンの谷を隔てて城壁に囲まれた旧市街全体が見える。オリーブ山から谷へ降る斜面は、ユダヤ人の墓地で埋め尽くされている。ユダヤ教では、オリーブ山にメシアが立つ時、神殿の美くしの門が開き、眠っていた者がよみがえるという言い伝えがあった。しかしこの墓地も旧市街全体も、1967年まではヨルダン領であった。六日戦争を経て、イスラエルはようやくヨルダン川の西側までを占領し、旧市街に出入りできるようになった。神殿の丘がイスラエル軍の手に落ちたときに、これぞ絶好の機会とばかり、無人の黄金のドームを土台から爆破しようという提案があったそうだが、これは賢明にも指揮官によって阻止されたことを後で知った。
■万国民の教会へ
バスでキドロンの谷へ降りていく。ここから「展望」が「巡礼」に変わる。先ほどは街を囲む城壁の真下に見えていた聖ステファノ教会が、灰色の姿を見せてくる。神殿の北のほうにある壁門が、かつて「ステファノ門」とも呼ばれていたから、ステファノは、その門を通って連れ出され、キドロンの谷の上からこの教会の建っている場所へ突き落とされて殉教したのであろう。そこを左へ折れると緑の木立の茂る丘の斜面が現われる。展望台からはよく見えなかった丘の中腹には、ネギ坊主のような頭が金色にきらきらする塔の並ぶ教会がある。19世紀の終わり頃にロシア皇帝が建てたロシア正教の教会堂である。その斜め左下にアーチ型の柱廊を三つ並べた万国民の教会“Church of All Nations”が見える。ここはイエスが血の汗をしたたらせて祈ったと言われるゲツセマネの園があったところで、別名「苦悶の教会」とも呼ばれている。外形の古典的な様式は、4世紀に建てられた教会の姿を模して1919年に建造されたからだとガイドブックにある。建築のために世界中の国々から献金が送られたのが、この教会の名前の由来であろう。三つのアーチの上に拡がるファサード(正面)には、赤い衣を着たイエスが苦しみの表情を浮かべて描かれている。その両脇には、眠っている弟子たちと立って泣いている女性たちがいて、とても分かりやすい。
カメラ撮影は自由だが、男は帽子を取るのが礼儀だと言われる。ただし女性は「かぶり物」をしていてもいいそうだ。聖堂内部の天井や祭壇奥のアーチ型のモザイク画がとても美しいのだが、ちょうど礼拝中で、天井全体がほんのりと灯りに照らされているのが見えるだけで、近づいて見ることができない。入り口には、イエスと、その前に立って力づけている天使の姿が、白い壁に浮き彫りされている。
会堂の外へ出て、ラテン語で「ゲツセマネの園」と書かれた大きな石の門をくぐる。ゲツセマネは、オリーブの木が多かった所で、今でも幾本かのオリーブの木が遺っている。展望の丘から、最後の晩餐の家や鶏鳴教会が小さく見えたが、あそこからここまで、谷に沿って歩いて来るのはかなりの距離になるだろう。それでもイエスと弟子たちは、ここを常時祈りの場としていたとある(ルカ22章39〜40節)。オリーブの一本は特に大きく、枝振りがややゆがんでいる。これが樹齢2000年以上と言われる樹で、イエスがここで祈っていた時にその傍らにあったのだと言う。園の隅には岩のような大きな石があって、前半分がやや平らになっている。その平らな部分を見守るように、ひれ伏して祈るイエスの姿が後ろ半分に刻まれている。佇(たたず)んで見入る。なんだか身の引き締まる思いで園の出口へ向かった。
わたしたちはその足で、近くの「主が嘆いた教会」を訪れるのだが、家々が建て込んでいる上に、谷には自動車道路が通じているから車が多く、しかも他の観光バスも混じっているからなんとも落ち着かない。とは言え、自分たちもその混雑の一因なのだから文句は言えない。そんなわけで、この教会は丘の中腹にあることだけが印象に残った。
■岩のドーム
中華風のレストランで昼食を取ってから、わたしたちは、城壁の南にある糞門へ向かう。これからイスラムの岩のドームを訪れるが、一つだけ絶対に持って入ってはいけないものがあると告げられる。それは聖書である。聖書を持って境内に入るのはイスラムに対する冒涜になるらしい。ではコーランならいいのかと言えば、異教徒がコーランを持って入るのもよくないそうだ。また男は必ずなにかを被らなければならない。ところがテマサ・トラベルから支給された団体の「目印」のための帽子には、イスラエルと日本の国旗が付いているから、これを裏返しにして被ってほしいと言われる。帽子を被ったり脱いだり裏返しにしたり、ここでは男は忙しい。
境内に入るとまず鉛色のドームのアル・アクサー寺院に出る。「アル・アクサー」とはエルサレムのことらしい。実はこちらのほうが、きらびやかな岩のドームよりも年代的に古く、男性のためだけの寺院で、黄金のドームよりも格が上だそうだ。この寺院の北にそびえているのが、イスラムの聖地の一つ、黄金に輝く壮麗な岩のドーム寺院である。中には、ムハンマド(マホメット)がそこから昇天したと伝えられる大きな岩があるらしい。時間帯に恵まれたのか、人はほとんど見かけない。近寄って見ると、透き通るような青い壁面の上にみごとな装飾がほどこされていて、その壁面の上に黄金のドームがそびえている。
人気のない境内を見渡す。境内全域が大きなサッカー場くらいの広さだろうか。かつて、今は故人となったイスラエルのラビン首相とこれも故人となったパレスチナのアラファト議長とが、クリントン大統領の招きで和平会談を持ったことがある。イスラエルとパレスチナ難民との歩み寄りが見られた時があったとすれば、わたしの知る限りこの時だけである。この会談は成功して二人は取材の人たちの前で握手を交わすまでになった。しかし、両者が最後まで譲らなかった項目があった。それは、この神殿の丘の主権が一体どちらに属するのか? という問題である。和平気分が盛り上がったところで、イスラエルのリクード党の党首であるシャロンが、わざわざ武装した兵士を連れて、この境内に入り込んだのである。これで和平気分は壊されて、間もなくラビン首相は、公衆の面前で、イスラエルの右翼の若者にピストルで射殺された。それ以来イスラエルとパレスチナの紛争は絶えることがない。
今見ているこの「土地」が、イスラエルとパレスチナとの和平を実現する最後の障害として残されたことになる。ここがその「和平を阻むとげ」なのだ。あの頃、エルサレムの市長が、この境内をどの国にも属さない「神の土地」としてはどうかと提案したと聞いているが、聖地と言い、宗教と言い、いったいこのやっかいなものの正体はなんなのか? ここに立っていると改めてこの疑問が迫ってくる。
■ベテスダの池へ
岩のドームのある神殿の丘から城壁の外へ出て、再び獅子の門から入る。通りを右に(北に)折れると、驚くほど深く大きな長方形の「井戸」があって、全体が白い石を煉瓦のように積み上げて作られている。「井戸」と言うのは正しくないだろう。これは「ベテスダの池」と呼ばれていた貯水池の跡だからである。ほんらいここには間歇泉があったと言われている。遺跡の向こう側(北側)にはかなり広い通路が横切っていて、地上からアーチ型の入り口を通ってその通路へ降りるようになっている。深い底を見下ろすと、石の積み上げた側面は途中からかなり崩れていて、その中ほどに漆喰で固めたような跡が見える。貯水池の壁の上半分はビザンティン時代のものだと言う。アーチ型の門はその後の十字軍時代の教会の跡である。紀元前2世紀のヘレニズム時代には、この池でギリシアの医療の神アスクレピオスも祀られていたらしい。イエスの時代のベテスダの池は、これよりも浅かったのだろうが、それにしても深い。
ガイドさんの説明によれば、実はこれは、この池の遺跡全体の4分の1にすぎないのであって、これと同じくらいの広さが、南半分に未発掘状態で残されていると言う。さらに通路の北側にも、現在の広さの2倍の大きさの遺跡が残っている。全体が発掘されると、長さが95メートル、幅50〜60メートル、深さ15メートルほどだというから驚く。だから、北側に見える通路は、ほんらいは池の真ん中を通っていた回廊だったことになる。わたしたちが立っている場所から反対側に回ると、構築全体の時代区分がもっとよく分かると言うのだが、時間の余裕がない。全体が四つの回廊で囲まれていて、その真ん中を通る回廊があるのだから、ベテスダの池には五つの回廊があったと伝えられるおりである(ヨハネ福音書5章2節)。現在、回廊の壁面の跡はどこにも残っていないが、これはもはや貯水池ではない。「水の神殿」と言うのが言いすぎなら「水の聖地」である。さまざまな病の人たちが、癒しを求めてこの聖地に詣でに来ていたわけがよく分かった。
ベテスダの池のすぐ側には、聖母マリアの母である聖アンナにちなんだ教会がある。教会は5世紀に建てられたが、後に破壊され、12世紀、十字軍の時代に再建された。この教会は、音響効果のよいことで有名だそうだ。入り口に素朴で愛らしい母娘の白い彫像がある。中にはいると大勢の人たちが「アーメン」のコーラスを合唱していた。なるほど歌声が会堂全体を包み込むように柔らかく響き渡る。グループのルーテル教会の方で、若い姉妹が感激して聞いている。彼女は聖アンナのことを知らないらしいが、プロテスタントだから仕方がない。簡単に説明した。
■ヴィア・ドロローサ(1)
聖アンナ教会を出て、来た道を引き返すと、獅子の門からまっすぐ通じる道に出る。神殿の北のこの辺りは、イエスの時代に神殿を警護するローマ軍のアントニアの砦があった所である。「警護」と言うよりは監視のために建てられたと言うべきだろう。伝承によれば、イエスはこの砦でピラトの裁判を受けて、十字架刑を宣告され、十字架を肩にゴルゴタの丘まで歩いたとされている。この由来を受けて、ここから十字架の丘までの道行きは、「悲しみの道」(ラテン語で「ヴィア・ドロローサ」)と呼ばれている。「悲しみの道」の巡礼が行なわれるようになったのは13世紀頃かららしいが、それ以前のビザンティン時代にはすでに、キドロンの谷からゴルゴタの丘までの巡礼が行なわれていたと伝えられている。
ただし、ここがイエスの裁判の場所であるというのは言い伝えで、実際は、エルサレムの西の一画にあったヘロデの宮殿で裁判が行なわれたのではないかと言われている。そこはローマ総督のエルサレム滞在中の官邸でもあった。この宮殿/官邸は、その北にある広場(市場)に面していた。裁きを行なう総督と原告や被告や証人たちは、広場に面して一段高い回廊に設けられた裁判席に上がっていたのだろうが、イエスを訴える群衆はその下の広場に集まっていたようだ。裁判は公開で行なわれるのが習わしであった。もしも裁判がヘロデの宮殿で行なわれたとすれば、判決の後で、イエスは鞭打ちの刑を受けてローマ兵に侮辱されたと聖書にあるから、そこからアントニアの砦まで連行されて、そこで鞭打ちを受けたことになるのだろう。
現在、「悲しみ」の行程には14の"STATIO"(ステーション)がある。Tから[までは、聖墳墓教会へいたるまでにあり、\からXWまでは聖墳墓教会の内部にある。"STATIO"を「ステーション」と呼ぶと駅みたい聞こえるから、これは「場」と呼ぶのがいいと思う。巡礼者は、この道を歩くことで、イエスの受難の道行きを自分で“enact”(再現/再演)することになる。その再演を通じて過去を現在に体現するのだから、これは聖なるドラマの最終の「幕」を構成する「場」と呼ぶのがふさわしい。
第1場は、ユダヤの群衆がピラトにイエスの十字架刑を要求する場面である。しかし現在そこは、パレスチナ人の学校の校庭になっていて、入ることができない。そこで第2場へ足を向けると鞭打ちの教会に出る(現在ではここが事実上の第1場とされている)。アーチ型の入り口の上が、ぎざぎざの文様で縁取られていて、それに棘のある茨が組み合わされている。アントニアの砦があった場所はこの辺りになるから、イエスはここで死刑の宣告を受け、鞭打ちに処せられたのであろう。この会堂は、中世から遺されていた廃墟の跡に1927年に建てられたとガイドブックにある。教会の中にはベンチが並び、大勢の人が、牧師さんらしい人の説教を聞いている。大事なのはここの床に敷かれている石畳だと思うのだが、聞いている人たちは、床の石よりも牧師さんの話のほうに注目している。
鞭打ちの教会を第1場とするならば、第2場は、これのすぐ隣にある「シオンの姉妹たちの教会」である。ここはイエスが十字架を負わされた(ヨハネ19章16〜17節)と伝えられる場所である。エルサレムの滅亡以後に、ハドリアヌス帝が、この街の名をアェリア・カピトリーナと改名して、これを記念するために大きな凱旋門をここに建てた(135年)。そのアーチの下を通って悲しみの道が続くのだが、凱旋門の北側にこの教会がある。ビザンティン時代にすでにあった教会の跡に、1903年にフランシコ派によってこれが建てられた。だとすれば、ここの敷石はイエスの頃のものではないことになるのだが、凱旋門を建てる時に、アントニアの砦跡の敷石をここへ移して用いたことが確認されている。ローマ兵が「王の遊び」というゲームをするために刻んだ跡まで残されている。聞くところによると、この教会の床は、実際にイエスが歩いた時の石畳を掘り出したものだと言う。だからこの会堂の床石は、イエスが実際に歩んだ石と同じである。かなり大きな長方形の石が敷かれていて、白いものや茶色のものが、薄暗い教会堂内でつやつやと鈍い光を放っている。残念ながら、ここでも、狭い教会堂内にベンチが並んでいて、その上、一杯の人で肝心の敷石が見えないのだ。わずかに通路に見える敷石を薄暗い中で写真に撮る。その現場に立って、そこで起こった出来事を偲びつつこれを体現するのが聖なるドラマの再演だと思うのだが、教会を建てた人たちは、ここで礼拝するほうが大切だと考えているらしい。教会を出ると道がアーチの下を通っていて、この辺りでピラトが、イエスを引き出して、「エッケ・ホモ」(この人を見よ)と言ったと伝えられている(ヨハネ19章5節)。これにちなんで、この教会は「エッケ・ホモ教会」とも呼ばれている。
第3場は、イエスが十字架を背負ったまま、くずおれるように両膝を曲げ、両手を地面に付くようにして体を支えている場である。斜めに倒れた十字架とイエスの姿が、真っ白な彫像のように、沈んだ青い空と岩山を背景に浮かんでいる。空には、合掌している天使たちの列が見える。クリスチャンなら熟知している筋書に沿って舞台が進行するのは、古典劇の演出である。出来事が起こったその場所で、観る者がこれに参与することで再演される。だから意義深い。グループの信者さんたちが、感激した面持ちで歩いている。
このような再演は、観客に「見せる」ための、いわゆる「額縁型」の舞台ではない。かと言って、過去の出来事を新聞記事の再現のように実証的に展示するのでもない。そういう展示なら博物館で観ればいい。そうではなく、観る者が参加するための演出である。出来事を外から「観る」のではなく、これを「伝える」ためであり、参与する者が自分で「体現」するためである。聖なる場所を「歩く」という肉体と精神が一つになる運動において、過去の出来事が自分の現在となり、そうなることにおいてそこになにがしかの創造が生まれる。この「聖なる営み」を体験するために、わがグループの人たちも、世界中から集まってくる善男善女たちも、この場に惹かれるのであろう。
例えば王や皇族の結婚式典のように、一回限りの歴史的な「出来事を演出する」場合には、国民がこれに参与できるように、出来事それ自体をドラマ化する。聖なるドラマのほんらいの姿もこれに近い。ドラマ化は繰り返しを可能にするが、それは観るための繰り返しではない。再演によってその出来事に参与するための繰り返しである。出来事の最初のドラマ化は、記された台本として残され、これが再演の基礎になる。言うまでもなく再演は、初めの出来事を抜け出すことができない。しかし同時に、再演は、出来事それ自体の意味を問い、問い直すことによって、起こった出来事を現在に追体験させ、その過程において新たな解釈を呼び込む。受難の道行きの演出は、このようにして出来事を新たによみがえらせるように働きかける。これが聖なる出来事のほんらいの演出であろう。
人々はここで、2000年前のイエスの処刑から昇天にいたる道行きを追体験し、これに参与することによって、出来事に自分なりの解釈をからだを通して創り出し、その出来事の意義になにがしか賦与する営みに加わることができる。幅は3メートルもない狭い道だが、埋もれていた石を掘りだして敷いてあるから、そこはイエスが歩んだであろう石畳である。パレスチナ人の区域内なので、両側にパレスチナの人たちが経営する店が並ぶ。その間にはめ込まれた9つの「場」は、ややちぐはぐな感じがしないでもないが、わがグループの信者さんたちには、そんなことは全く目に入らない。
第4場は母マリアがイエスを見つめる場面である。石壁にはめ込まれた扉にアーチ型の文様があり、その中に二人の出会いの場面の上半身が浮き彫りされている。道を右に曲がると第5場に出る。ローマ兵が、キレネ人シモンに命じてイエスの十字架を担がせた場である(ルカ15章21節)。小さな扉から中に入ると、狭い礼拝室の石壁がアーチ型にくり抜かれていて、そこに今にも倒れそうなイエスの背負う十字架を抱えるように持ち上げているシモンの姿が浮き彫りされている。浮き彫りと言うよりは茶色の石像に近い。
第6場は、ヴェロニカという女性が、イエスの顔の汗を拭うと、その顔がその布に写ったという言い伝えに基づいている。狭い通りの左側に、彼女の家の入り口だとされている扉がある。ヴェロニカのことは、ルオーの絵などで知る人も多いと思うが、聖書的な根拠がないから、プロテスタントの人たちにはなじみがないかもしれない。
そこを通ると四つ辻があって第7場に出る。ここはイエスが2度目に倒れた所とされている。実はイエスの時代には、東側にある神殿から城壁がまっすぐ西へ延びていて、その城壁が、この辺りでエルサレムの西側の城壁と出逢っていた。現在は残っていないが、ここに「裁きの門」があって、イエスはそこから城壁の外に出て、ゴルゴタへ向かったのであろう。そこからルートを少しはずれると、第8場があって、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」(ルカ23章28節)とイエスが語った場所に出る。ここにはギリシア正教の十字架が壁に刻まれている。ふと見ると、アルメニア教会の入り口が開いていたので、脇道をして中へ入る。みごとなイコンの絵が壁に並んでいる。思わず見とれていると、添乗員の竹入さんが、心配そうな顔をして付いてきてくれた。巡礼からはずれると言うより、グループからはずれると時間をとるから気になるらしい。再びもとの道へ引き返す。
第9場はイエスが3度目に倒れた場所で、ここが聖墳墓教会の入り口に通じる路である。わたしたちはようやくゴルゴタへ来たのだ。アーチ型に張られた門の上に、縦と横が等しいギリシア十字が立っている。その四隅がさらに小さな十字になっているのは、アルメニア教会の十字架なのだろうか。石壁に挟まれた比較的狭い通路が入り口へ通じている。なんとなく教会の「裏口」のような感じである。
■ヴィア・ドロローサ(2)
コンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令を発布して、キリスト教をローマ帝国の公認宗教に加える旨を公示し(313年)、帝国をその支配下に収めると、帝国の都をコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)に定めた(330年)。ビザンティン時代の始まりである。その直後の335年に、皇帝の母ヘレナがエルサレムを訪れ、イエスの十字架刑の場所を特定して、そこに復活教会を建てた。これが後に「聖墳墓教会」と名を改めて現在に至っている。改名の由来は、十字架から埋葬と復活までの全過程を含む規模の聖堂になったからであろう。ビザンティン時代の聖堂は、幾度か破壊されたり再建されたりしたが、十字軍によるエルサレムの征服を記念して(1149年)、大規模な改築が行なわれ、それ以来この建物が現在にいたっている。ガイドブックによれば、イエスの墓を中心とする聖堂の西半分には、ビザンティン時代の建築がほぼ残っているが、ゴルゴタの十字架を中心に東半分(入り口に近い部分)は、十字軍時代のものだとある。
それにしても大きくて、しかも様々な遺跡や記念の礼拝堂がひしめいている。中に入ると、どこをどう歩いているのか分からなくなる。わたしたちは聖堂の左側(南)から入って、右へ進んだと記憶している。ゴルゴタの丘は、大聖堂の本堂の東南の一画にあたる。ゴルゴタへ行く少し手前の壁に、アーチ型のニッチ(壁龕〔へきがん〕と呼ばれる窪み)があり、そこに、まだ衣服のままのイエスと母マリアとが十字架を背景に最後の別れを交わしている彫像が目に留まった。イエスは殉教を表わす赤い衣を、マリアは天国を表わす青い衣をまとっている。そこから第10場、イエスが衣をはぎ取られる場所に来るのだが(ヨハネ19章23節)、やや急いで通り過ぎたから印象に残っていない。
第11場は、イエスが十字架に釘付けされる場面である。青みを帯びた文様のアーチ型の天蓋があり、その奥に、聖母が黒い衣をまとって亡霊のように立ちつくし、足下には十字架につけられたイエスの白い体が浮かぶ。そのイエスの足にすがるように泣いているのは、マグダラのマリアだろうか? 全体が弱い灯りを帯びて幻想的である。ゴルゴタの一画には、ギリシア正教とカトリック教会との両様の祭壇があるというが、この絵はカトリック様式であろう。
第12場は、イエスの十字架が立てられた場所である。真ん中に十字架にかけられたイエスの像が立ち、右と左にマグダラのマリア?と聖母が立って見守っている。ここはギリシア正教の祭壇で、上から吊るされた灯明の列の奥で、十字架全体が金色に輝いている。聖母の立像は頭にサファイアの冠を載せていると言う。十字架が立てられた穴が、その祭壇の真下に薄暗く見える。祭壇の下段に書かれたギリシア文字も記憶にないほどぼんやりと薄暗い。11場と12場との間に腕を重ね合わせた聖母の上半身の像が、アーチ型のケースに入っている。二本のろうそくの明かりでほのかに映し出された美しい顔だけが目に入る。祭壇のほうは、ギリシア正教の厳かな聖母のイコン像を想わせるが、こちらはローマ・カトリックの様式らしく、立体感がある。ここが第13場で、イエスを見守るマリアの場所とされるが、次の十字架からの降下の場も第13場とされているらしい。
ゴルゴタと本堂の中心にあたる埋葬の場との間に、イエスの遺体を降下させて亜麻布で包んだ場所がある(マタイ27章59節)。ここがほんらいの13場だと言う。1畳ほどの「塗油の石」が床の上に置かれている。これはニコデモが行なったと聖書に記されているから(ヨハネ19章39節)、ニコデモを記念する礼拝堂が聖堂の一番奥に(西側)ある。いくらかひびが入ったそのつややかに見える石は、手で触れると塗油が施されていて、不思議な輝きを発している。わがグループの人たちは、その傍らに佇んで、しばし声も出ない面持ちでじっと見つめている。これが「ほんもの」かどうか、などという詮索はこの際無用であろう。霊的な出来事を伝えるために、この石がわたしたちの足下で何か語ってくれている。それで十分なのだ。目を転じて見ると、イエスの遺体が白い布の上に横たえられて、その周りを9人の人たちが、それぞれに嘆きの仕草をしている絵が、鈍い金色を背景に描かれている。よく見ると3人が男性の弟子で、6人が女性らしい。イエスの頬に顔を寄せているのは聖母であろう。
わたしたちは、いよいよ最後の場所、イエスの遺体が埋葬された第14場へ着いた。一度には入れないから、4人ずつ並ぶように言われて、しばらく待つ。ユダヤの墓には「コヒム型」と呼ばれて、墓の室内の壁に1メートル四方ほどの横穴を2メートルほど掘って遺体を安置する様式と、「アルコソリゥム型」と言われる様式とがある。こちらは、墓室の壁にアーチの天蓋をもつ寝台(棚)を掘った様式である。イエスの時代には、「コヒム型」と「アルコソリゥム型」とが混在していた。どちらも古くから行なわれていた様式らしいが、イエスの時代には(1世紀初頭から2世紀初頭まで)、遺体を1年ほど放置しておいて、それから遺骨だけを蔵骨器に収めるという二段階の埋葬方式があり、これがエルサレムを中心に拡がり始めていたから、ややこしい。アリマタヤのヨセフの墓がどちらの様式だったかは確定できないが、聖墳墓教会の場合は寝台型である。手元にある図入りの本では、2冊ともイエスの遺体安置の場が寝台型になっているから、やはり聖墳墓教会の伝承通りなのだろう。
ようやくわたしたちの順番が来たので、4人で中に入る。入り口をくぐると前室がある。真ん中にろうそくをともした小さな四角のテーブルがあって、そこが天使たちの顕現した場所だと神父さんが言う。5人が円形に立てるくらいの大きさの部屋である。その奥に3畳ほどの部屋が続いていて、そこは縦半分が寝台型になっている。これだと、女性たちは、遺体が安置されたままの状態で、後からでも香料を施すことができる。入り口も部屋も、便宜のために実際よりは大きくなっているのだろうが、アルコソリゥムの墓の最も基本的で簡単な型である。
壁には嘆きの聖母の像が掲げてある。イコン様式なのでギリシア正教のものであろう。寝台の上とその上の棚に幾本かのろうそくが灯してあるだけで、部屋全体がほんのりと映し出されていて、穏やかだが厳かである。誰もなんにも言わない。ほんらいなら、ここでお祈りを捧げるところだろうが、後がつかえているからそれもできないようだ。そのまま戸口を出た。イエスの墓は、聖堂の美しいドーム型の天井の真下にあるから、ふと、イエスが墓からそのまま昇天したような気持ちになる。しかし、昇天のほうはしばらくお預けにして、聖墳墓教会を後にした。
(聖書講話欄の「イスラエル一巡記」に地図と写真が載せてあります。)