イスラエル一巡記(4)
ベツレヘムから嘆きの壁まで
 
■最後の晩餐の部屋
 聖墳墓教会から旧市街を南へ降り、シオンの門を出ると、最後の晩餐が行なわれた部屋がある。12世紀には、すでにここに教会堂があったと言われているが、現在の建物は、13世紀の十字軍時代のものだと言う。部屋には幾本もの黒みを帯びた円柱があって、それぞれの円柱が中程から幾つもの縦に伸びる稜線となり、それらの稜線が天井近くで放射状に別れて、互いに絡み合って天井を飾っている。まるで中世ヨーロッパの初期ゴチックの聖堂のように見える。ここは現在では、旧市街を囲む城壁の外側になるが、イエスの時代には、この辺りは、エルサレムを囲む城壁の内部になり、街の南西にあたり、近くにエッセネの門があったとされている。だからイエスの一行は、晩餐の後でこの門を出ると、ヒンノムの谷の近くに出て、そこから城壁の外側を谷に沿って、キドロンの谷にあるゲツセマネまで歩いたことになる。その途中に鶏鳴教会があるのはこのためであろう。
■イスラエルの王たちの墓
 最後の晩餐の部屋のすぐ側に、ダビデの墓と伝えられる部屋がある。晩餐の部屋から外へ出る時に通りがかる部屋みたいな所なので、グループの人たちはその部屋を通り過ぎたが、黄色がかった部屋全体が、不思議な輝きを帯びている。わたしはなにか強烈な印象を受けて、思わずその部屋の写真を撮った。室内は簡素で、祭壇?と思われるところに金色のダビデの紋章が織り込んである黒い覆いが被せてあって、外観が大きなピアノのように見える。その上にアシケナジム(東部ヨーロッパのユダヤ人)とセファルディム(スペインから東洋にかけてのユダヤ人)とのふた種類のトーラー(律法)が置かれていると言う。ダビデ王やソロモン王は、後で述べるダビデの町に葬られたと言い伝えられているが、南ユダ王国の時代に、王たちは、ダビデの町ではなく、ここシオンの丘に葬られたようだ。このためにダビデ王の墓もここへ移されたのだろうか。
■書物の社
 わたしたちは、旧市街から、バスでエルサレムの西のほうにあるイスラエル博物館へ向かった。丘の麓のゆるやかな道を曲がると、突然不思議な形の建物が目に入った。真っ白な円形の蓋のようで、真ん中が突起している。これが「書物の社」“The Shrine of the Book” と呼ばれる建物で、そこには死海写本が展示されている。この建物は、写本が入っていた壺の蓋を象っていると言う。この社の向かい側に、大きな黒い長方形の壁が立っている。クムラン宗団の信仰を象徴する光と闇を現わしているのだ。その光と闇の間を通って、入り口を入ると、薄暗い部屋に、写本が発見され発掘されたいきさつが、パネル写真に添えて説明してある。その奥に入ると大きな円形の筒(トーラーを収める筒の形か?)が部屋の真ん中にあって、そこにイザヤ書が展示されている。
 この写本は1947年に第一洞窟で発見された。イザヤ書の全部が完全な形で遺っていたのだ。紀元前100年頃のものであるから、現存するイザヤ書の写本よりも1000年ほども前のものだと案内にある。それでいて、現存の写本とほとんど変わらないと言うから驚く。はっきりと読み取れる細かな字でぎっしりと書き込まれている写本を見ていると、聖典を伝えようとした人たちの信仰がひしひしと伝わってくる。この人たちはイザヤ書を全部完全に覚えていたに違いない。「ヤハウェ」の文字が出てくる度に、水で手を浄めて書いたと言う。部屋の壁に沿って写本が展示されている。クムラン宗団の『宗団規定』がある。これらは、「クムランの蔵書」“The Library of Qumran”と呼ばれていて、現在の聖書学会で注目を集めており、その内容について熱い論議が交わされている。
■エルサレムの模型
 実はイスラエル博物館には、わたしが見たかったものがもうひとつある。それは紀元1世紀のエルサレムをそのまま再現した50分の1の模型である。故ミカエル・アビヨナ教授が、ヴィジョンを与えられて、エルサレム滅亡の4年前にあたる紀元66年のエルサレムを再現したもので、これはもとホテル・ホーリーランドにあったものを最近ここへ移したと言う。
書物の社から少し歩くと、突然視界が開けて古代のエルサレムが広がった。模型は低い所にあって、周囲には柵を設けた歩道があり、歩きながら全体を見渡せるようになっている。西郷さんは、わたしたちをこのエルサレムの東南部へ案内した。そこからだと、後で述べるダビデの町と神殿とが一つながりになって見える。グループの方々が説明に聞き入っている間に、勝手をして、東南部から始めて、時計回りに街の周囲をめぐりながら写真を撮る。
 東南部には、キドロンの谷とヒンノムの谷との間に突き出た南の門?が間近に見えて、その北にシロアムの池があり、ダビデの町の立派な建物が北へ延びて神殿の壁につながる。街の南半分は谷へ降る傾斜部分にあたるから、文字通りの「下町」になり、傾斜地区を上がると北には平地が広がり、オレンジ色の屋根を持つ劇場や官邸など「上の人たち」の屋敷がある。城壁に沿って歩くと街の南西部へ来る。ここからはヒンノムの谷の上にエッセネの門が見える。この門から入った一画に、エッセネ派の人たちが住んでいたのだろうか。浄めのための大きな水槽がふたつほどあったとガイドブックに図示してある。ヘロデはよほど塔が好きだったと見えて、城壁の櫓の並びの奥に、ひときわ高く三層のダビデの塔が見える。さらに北へ歩くとヘロデの宮殿が城壁の中の城壁に囲まれて長方形に広がる。宮殿の北側は広場になっていて、その北側にダビデの門(現在のヤッファ門)がある。ここへ立つと、反対側の東にある神殿から城壁がまっすぐ西へ延びて来る。
 ここまでがソロモン時代の「第一城壁」で、この場所から後で築かれた「第二城壁」が、斜めに北へ延びていて、それが南へ降ると神殿の北西にあるアントニアの砦まで来る。イエスの時代の城壁はここまでである。ところが、その後、ユダヤ戦争が近づくに連れて、第二城壁のさらに北へ大きく広がる第三城壁が築かれた。ここで見る模型は、紀元66年頃のものだから、この第三城壁まで広げられているわけである。しかし、エルサレム滅亡の後、第二と第三の城壁は取り壊されて、かつての第二城壁と第三城壁の間くらいの所に、ローマ時代からビザンツ時代に、新しい城壁が築かれた。この城壁は、かつての第二城壁の北端の突出部と接している。これが現在、旧市街を囲む北半分の城壁になっている。したがって、ここダビデの門の前に立つと、第一と第二と第三の城壁とが出合う地点にいることになる。この周囲にマリアンメの塔とヒピクスの塔とファサエルの塔の三つが、壮麗な姿を見せて立ち並んでいる。どれもヘロデの妻と友人と親族とにちなんで名付けられているから、ヘロデ大王が建てたものであろう。ここからは、宮殿の向こうにハスモン家の邸宅や大祭司の邸宅、劇場、貴族階級の屋敷などが一望できる。
 エルサレムの北西部に出て、さらに歩を進める。ここからは神殿の北側とアントニアの砦がよく見えて、そこから第二の城壁がやや曲がりながら街の北側を囲んでいるのが分かる。ただし、柵の近くには第三の城壁が連なっているから、第三と第二との間の様子がよく分かる。倉庫?あるいは武器庫?らしい建物が散在していて、東側にオレンジ色の屋根のベテスダの貯水場の回廊が見える。ここからはやや遠いのだが、西のほう、第二の城壁と第一の城壁とが出合うあたりの外側のやや北のほうに、ゴルゴタの黒い岩の塊が見える。現在の聖墳墓教会がちょうどあの辺りになるのだろう。街の東北部を回って、南へ下がると神殿の東側に来る。神殿の東側にあるソロモンの回廊と現在の黄金の門が見え、その向こうに神殿の聖所の建物の入り口が見える。城壁に囲まれた中庭はよく見えない。
 見終わって、もとのところへ戻るとちょうど帰る時間が来た。博物館内部の展示はほとんど見る余裕がなかったので、その代わりに売店で総カタログを買う。ついでに、エルサレムの模型の小冊子を探したが、英語のは売り切れてなかったから、フランス語のを買って、急いでバスへ戻った。
■夜のエルサレム街
 わたしたちは、ようやく一日の行程を終えて、再び聖ジョージ通りのノボテ・ホテルへ戻った。大勢の人たちと夕食を済ませてから、みんなで夜のエルサレムの繁華街へ出かける。「繁華街」とは言っても、それほどのきらびやかさはない。立ち並ぶ店ごとの灯りが通りを照らし出す程度で、「日本の地方都市の大通り」みたいだとグループの人が言う。それでも出発を明日に控えて、グループの人たちは思い思いに買い物に散っていった。近くにいい本屋があると西郷さんが言うので、にぎやかな通りと交差するややじみな通りを行くと、それほど間口の広くない本屋があった。だが奥行きが深い。エルサレム関係の本は、店の一番奥に置いてあった。ヘブライ語の本は言うまでもないが、英語の本もけっこう多くて有り難い。そこで幾冊かのエルサレム関係の本を買うことができた。
 
【3月20日(火曜)】
■ベツレヘム生誕教会
 比較的早い朝食をとって、わたしたちは、ベツレヘム生誕教会を訪れるためにバスでエルサレムの南に向かう。岩石の散在する緑の丘をめぐるようにバスが進み、しばらくすると白い家々に覆われた丘が見えてきた。ベツレヘムの町である。近づくとこれまで見たことがなかった灰色の壁に出合った。ベツレヘムはパレスチナ人居住区だから、分離壁で隔てられているのだ。壁の間に設けられた検問所には若いイスラエルの兵士たちがいる。パスポートの検査こそないが、まるで別の国へ行くみたいだ。イスラエルの観光バスはここには入れないから、検問所を歩いて通って壁の向こう側に出るとパレスチナ人の運転手さんが待っていた。乗り換えたバスが丘をめぐるように上がるとベツレヘムの町が広がる。比較的朝が早いためか、町は静かで人気がない。どういうわけか、途中ガレージで降りてから再び乗ると間もなく生誕教会へ着いた。
 がっしりとした石壁に挟まれた通りの奥に古びた入り口が見える。入り口付近はかなり広いのだが、人はわたしたち以外にほとんどいない。あまり静かなのでガイドさんたちも驚いている。少し前に、この教会へパレスチナのゲリラたちが逃げ込んで、イスラエルの戦車がこの入り口付近を囲んでいたのを思い出した。しかし今は、ひたすら平和で静かだ。
 この生誕教会“the Nativity Church”は、ニカイア会議(325年)の後で、コンスタンティヌス帝の生母ヘレナによって建てられたが、その後ユスティアヌス皇帝の命で529年に改築され拡張された。この教会は、不思議というか幸いというか、それ以後破壊を免れて現在にいたっている。なるほど石壁も入り口も古びているはずである。ただし、ビザンティン時代に、さらに十字軍の12世紀にも、内部に様々な装飾が施された。小さな白い石でできた壁の上部には茶色の大きな石壁が積まれていて、その上に、明らかに十字軍時代のものと分かる塔があって、そのドーム型の屋根の上に十字架が立っている。
 中へ入ると広々とした石畳の会堂が広がる。古びた円柱が左右に並び、その奥には祭壇がある。いたって簡素な造りである。様々な色合いの大きな長方形の石が敷いてあって、その上に太い円柱が、これも長い年月で茶色みを帯びて佇んでいる。ベンチがないので広々と見渡せる。会堂の壁の上部には、黒ずんでほとんど見分けが付かない壁画が遺っている。石の床の一部に木の蓋があって、これが開いている。のぞいてみるとその下には、ビザンティン時代のモザイク文様の床が朝日を浴びて深い色合いを見せている。柱に手を触れると冷たくなめらかだ。奥の黒みを帯びた祭壇は東方教会の様式であろう。屋根には丸木が通っているようだ。これがこの聖堂のほとんど全部である。自分が今4世紀の教会の床の上に立っていると思うと、飾り気のない堂内から不思議な霊気が迫ってくるのを覚える。祭壇にろうそくを捧げてから、祭壇脇の美しい聖母子のイコンの前で写真を撮ってもらった。
 祭壇の横にある入り口からイエス誕生の地下へ降りていく。入り口の上に珍しい黒い聖母子像がかけてある。「黒い聖母」は、ここだけなくスペインにも遺っているが、後の聖母像よりも古く、その由来はよく分からないらしい。階段を下りると薄暗がりの中でろうそくの明かりに照らし出されて、アーチ型の聖母子の壁画とその下に簡素な祭壇がある。祭壇の真下には銀色に鈍く光る大きな星があって、その真ん中に穴がある。詣でる人はこの穴に手を入れるのだそうだ。その祭壇の近くにさらに一段低くなった狭い部屋があって、片方に祭壇があり、その向かい側は、イエスを寝かせたという石のベットになっている。簡素で分かりやすいから、それだけ降誕の出来事がひしひしと伝わる。
 生誕の部屋を出て階段を上がり本堂の側を通りすぎると近代的な会堂に出た。フランシスコ会のカトリックの礼拝堂である。クリスマスの夕べに決まって放映されるベツレヘム教会の礼拝は、ここで行なわれているのだろう。本堂の反対側には、アルメニア教会の礼拝堂もあるそうだ。そこを通りすぎてまた階段を下りると天井の低い洞窟に出る。手を胸の上で組んだ聖者の浮き彫りが灯りに映し出されている。ふと横の柱を見るとラテン語で「ヒエロニムスとパウリニアヌス」とある。ヒエロニムスは、この洞窟にこもって修行を積みながら、ヘブライ語とギリシア語の聖書の原典をラテン語に訳した。ウルガタと呼ばれるこのラテン語訳は、その後、カトリック教会の正典とされている。パウリニアヌスは彼の弟で、兄に同伴してベツレヘムへ来て、彼もこの教会にとどまったと伝えられている。彼らの一行には、ローマの婦人パウラ(聖パウラと呼ばれている)も加わっていた。彼女もベツレヘムに留まって、ヒエロニムスがこの大きな仕事を成し遂げるために奉仕と支援を惜しまなかった。実はヒエロニムスが、その偉業をこの生誕教会で成し遂げたことをわたしはここへ来て初めて知ったから、予期しない驚きと感銘に包まれた。
再び階段を上がり外へ出ると、今度はカトリック教会堂の正面に出た。会堂前の広場にはヒエロニムスの彫像が建っている。ただし今思い出しても、生誕教会の本堂の簡素なたたずまいが不思議に迫ってくる。今までずいぶんいろいろな聖堂や教会を見てきたが、こんな不思議な体験は初めてである。
 バスで、運転手さんの家が経営している土産物店へ案内される。広い店内には、様々なキリスト教関係の彫像や遺物やイコンの模型が並んでいる。ベツレヘムにはクリスチャンのパレスチナ人が多いのだろうか。バスで再び壁のほうへ戻る。高い壁のこちら側には、下半分の至る所に大きな落書きがしてあって、英語のものもある。観光客に訴えるためだろうか、「自由」「恐怖」「希望」などの言葉が目に付く。わたしたちは再び検問を通ってイスラエル側に出た。
■ヤド・ヴァシェム
 ベツレヘムから再びエルサレムへ戻ったわたしたちは、今度は旧市街とは反対の西に向かう。ヘブライ大学に近い丘の間を抜けて小高い丘を登ると観光バスが沢山並んでいる建物の前に出た。これらのバスのほとんどが(3分の2以上)、わたしたちのような観光客ではなく、イスラエルの中学生や高校生を乗せてきたバスだと言う。実はここは「ヤド・ヴァシェム」と呼ばれる、ナチスによるホロコースト(大量殺戮)の追悼館である。この名は、イザヤ書56章5節に「わたしは彼らに<記念碑と名>(ヤド・ワシェム)を与える」とあるのにちなんでつけられた。西郷さんの説明によると、イスラエルでも世代が代わって、若人たちの間では、第二次大戦でのホロコーストのことを知らない子供たちが増えているそうだ。そこでイスラエル政府は、この記念(追悼)館を作ることにした(1953年)のだそうだ。
 入ると両側の壁が高い天井までそそり立っていて、しかも両側の壁が斜めに伸びて頂上で一つに出合うから、まるで3角形の通路に閉じ込められたような気持ちになる。これは自由を奪われた人の心を表現するためだそうだ。その通路の両側に部屋があって、訪れた人は右と左の部屋を交互に見て回るようになっている。映像やビデオが流れているために写真撮影は禁じられている。20世紀始めの平和なユダヤ人の暮らしぶりが紹介され、それがやがてナチスの迫害とホロコーストの場面へとつながる。どの部屋も実際の遺族から寄せられた個人の写真や映像や記録や証言で埋め尽くされていて、故人の作業服やその他の遺品が陳列してある。中学生や高校生が、その前に座り込んで映像を見ながら証言を聞いている。抽象的で一般的な解説は全くと言っていいほどない。あるのは具体的な個人の顔と名前である。ジグザグに回りながら最後の部屋へたどり着くと、大きな丸い井戸があって、井戸の底が真っ黒に見える。その水の上に青い空が映っている。井戸は人の心を象徴し、その底には恐ろしいものが潜んでいるという意味であろう。だが、その井戸にも青空が映っている。
 その建物を出ると今度は「義人たちの林」へ案内された。道の両側に木々が生えていて、その一本一本には、世界の各国で、危険にさらされたユダヤ人を助けた人たちの名前が付けられていて、その名を記したプレートが側に置かれている。大きな松の木があって「杉原千畝」(すぎはらちうね)の名が付けられている。よく見ると“Senpo Sugihara”となっていた。この林を通り抜けてさらに進むと子供たちの追悼館へ出た。
 第二次世界大戦中に、ナチスによって殺されたユダヤ人のうちの実に150万人が子供たちであった。中へ入ると真っ暗である。その暗闇の天井には、ちょうどプラネタリウムのように無数の灯火がちかちか燃えている。後で知ったのだが、わずか5本のろうそくが、沢山の鏡の反射によって天井に映しだされているそうだ。子供たちが星になって天で瞬いている、という想いがする。突然の暗闇で、わたしはグループから完全にはぐれてしまった。仕方がないからじっと立ったまま天井の星々を眺めていると、低い声でアナウンスが聞こえる。英語である。「カトリーヌなにがし。14歳。フランス」と殺された子供の名前と年齢と出身を告げている。これがなんと150万人分、延々と続くのである。暗闇の中で、一人で聞いていると、わたしは、ユダヤの黙示文学に出てくる「天の書物」を思い出した。人びとを苦しめた王たちや牧者たちの行ないと名前とが、漏らさず書き留めてあって、終わりの日にそれが神の御前で天使によって読み上げられるという「天の書板」である。黙示文学では、殉教者たちが星空のように輝くとあるが、同時にそれは故(ゆえ)なく殺した者たちへの告発でもある。
 もしも今、韓国で、従軍慰安婦として徴用された15万人とも言われる女性たちの名前とその時の年齢と彼女の出身地が、こういう形で読み上げられていたとしたらどうであろう。そこへ、今わたしが立っているように、慰安婦問題など存在しないと主張する人を立たせてみてはどうだろう。「キムジハ。15歳。チュジュ島」。彼は言うだろうか?「日本の国家はそんなことに関与していない!」名前、年齢、出身。「あれは軍隊がやったのではなく民間の経営者たち行なったことだ!」名前、年齢、出身。名前、年齢、出身。「狭義の意味で強制ではなかった!」名前、年齢、出身。名前、年齢、出身。「事実を歪曲している!」名前、年齢、出身。名前、年齢、出身。どう弁明しても、どう抗議しても、名前、年齢、出身。名前、年齢、出身。15万人の名前を聞き終わるまで、彼は耐えられるだろうか? 「神の告発」とはこういうものなのだろうか。ほんとうの意味での「正義」と「裁き」とは、こういう形でしか表わすことができないのではないか? 外へ出てから、そんなことを考えていた。
■ダビデの町
 わたしたちのバスは逆戻りして、丘の上に立ち並ぶ一風変わった建て方のマンションの麓を旧市街の南のほうへ向かった。いったいエルサレムには幾つ丘があるのだろう? そんなことを考えている内に「ダビデの町」へ着いた。ほんらいなら、エルサレム観光はここから始めるのがいいのだろう。なぜなら、ここは、ダビデが最初に都を定めた場所だったからである。ダビデの町は、神殿の南側にあって、谷を隔てた小さな丘の上にあった。しかし現在では、ここは旧市街を囲む城壁の外側になっている。
 紀元前1000年頃、ダビデがヘブロンからここへ攻めて来た時には、ここにはすでに城塞化したエブス人の町があった(サムエル記下4章6〜8節)。1キロ四方ほどの丘は、キドロンの谷やヒンノムの谷から伸びた渓谷で囲まれていて、わずかに北のほうだけがやや平坦であった。高い城壁に守られていたから、エブスの人たちは、城壁の上からダビデに向かって「目の見えない者、足の悪い者でも、お前たちを追い払うことができる」と嘲ったとある。ところがダビデは、丘の麓にあるギホンの泉から(歴代誌下32章30節)、水汲みのトンネルを伝って町に攻め込んだと伝えられている。ダビデはこの丘に王宮を建てたが、ついに神殿を建てることはできなかった。ダビデの息子ソロモン王の代になって、ようやくこの丘の北にある現在の神殿の丘に王宮と神殿を建てることができた(列王記上6〜7章)。これが第一神殿時代の始まりである。だからエルサレムは、このダビデの町と神殿の丘とをつなぐ二つの丘の上にある瓢箪のような町だったことになる。
実はここは、まだ発掘が進行中で、掘り起こされた石があちこちにごろごろしている。金網の下には、ダビデ時代の王宮の遺跡の石が集めてあって上から見ることができる。ダビデはどこからバト・シェバを見たのだろうか? などとあらぬ想像をする。楕円形のダビデの町を上から見た模型もある。階段を降りて丘の中腹をめぐるように手すりのある通路ができているので、そこから発掘中の遺跡を横側から見ることができる。大きな石や小さな石が複雑に入り組んだ壁が、丘に沿って上まで続く。そのちょうど真ん中に、石の柱のある家の跡が発掘されていて、それがここからよく見える。出てきた遺跡に記された名前にちなんで「アヒエルの家」と呼ばれている。この家は、四つの部屋があって、丘の中腹に建てられているから階段や石段のある複雑な造りになっている。この時代のイスラエルの国(アレッツ・イスラエル)では、これがほぼ標準的な4部屋様式だったとガイドブックにある。崩れかけた第一神殿時代の城壁の跡があり、その上に重なるように第二神殿時代の城壁がある。驚いたことに排泄物を流す溝もちゃんと遺っている。現在でもダビデの町は、家々が階段状に重なって建っているが、おそらく3000年前もこれと似たような姿だっただろうと言う。
ダビデの町には一つの謎があった。それは唯一の水源であるギホンの泉が、丘の麓のキドロンの谷の真下で、城壁の外側にあったことである。これでは敵に囲まれた時に水を汲むことができない。しかしこの謎は、チャールズ・ウォーレンによって1867年に解かれた。ギホンは泉ではなく地下水路だった。彼は発掘によって、城壁の内側から地下へ降りる地下道を発見し、しかもその地下道は、城壁の外まで延びていて、さらにそこには部屋があって、そこから深い井戸が泉の水路まで掘られているのを確認した。これが「ウォーレンの竪穴」である。
ヒゼキヤ王の時代になって、アッシリアの王センナケリブの攻撃を予期していたヒゼキヤは、この水路を南へ延ばしてシロアムの池を造り(歴代誌下32章4節)、この池を囲い込んで西のシオンの丘から旧市街の西の丘をも囲むように城壁を広げた。これで第一城壁の全体が完成したことになる。だからこの水路はヒゼキヤの水路と呼ばれている。ダビデの町と神殿の丘とがつらなる二つの高台と、これに沿って北の貯水池から南のシロアムの貯水池へと伸びる水路によって、聖都エルサレムが支えられているのが分かる。
わたしたちもこの「ウォーレンの竪穴」に挑戦してみた。薄暗い岩穴を灯りがぼんやり照らしていて、足下もおぼつかない。手すりを頼りに、岩と岩との間の迷路のような穴をひたすら下へ下へと降りていく。途中でイスラエルの中学生たちに出会った。なんと彼らは、水路まで降りて、そこから水路の中をシロアムの池まで歩くと言う(500メートルくらい?)。しばらく降ると大きな岩穴の井戸が灯りに照らされて現われた。まっすぐに掘られたその井戸の底がライトで明るく照らされているので、井戸の底が光っているようだ。ところが、そこからまた実際の水路まで降りる路があるので、腹を決めて降りることにした。ようやく水路に出たらしい。暗くてほとんど見えない。たださらさらと水の流れが聞こえる。なるほどこれは泉ではなくて地下に川が流れているのだ。音を頼りに手を伸ばすと、冷たい水に触れることができた。どうやらこれで、ギホンの水の洗礼を受けることができたと引き返す。ところが降りるよりも登る方がもっと大変である。ようやく地上にたどり着いた時には、さすがにしばらく歩くことができなかった。発掘の現場には、まだダビデの町時代の遺跡の石が転がっている。持って帰ってもいいと言うので、記念にふたつほど持ち帰った。
■オフェル考古学ガーデン
 わたしたちは、ダビデの町から再び神殿の丘のほうへ戻った。アーチの門の真ん中に大きなダビデの竪琴を象る彫像があって、そこを通りすぎるとオフェル考古学ガーデンの切符売り場へ出る。オフェルの丘は、ダビデの町と神殿の丘との間にあるから、南北に長い最初のエルサレムの真ん中にあたる(歴代誌下27章3節)。しかもここには、ヘロデが建造した第二神殿の南の城壁がそのまま遺っている。「ガーデン」とあるが、入り口近くにミルトスの木があるくらいで、そこを抜けると神殿の南壁の真下に出る。そこからかなりの傾斜が谷へと続いている。しろい巨大な石の遺跡が広がっているが現在でもまだ発掘が続いているそうだ。大きな長方形の水槽の跡が二つほどある。神殿に参詣する人たちはここで身を浄めたのだろうか? 谷底からこの城壁へ上る階段は、幅の広い段と狭い段とが交互になっていて、走って上がることができないように仕組まれている。神殿に参詣する時には、決して急いではならないからだと説明されたが、それだけではなく、敵が攻めてきた時に駆け足で登れないようにするためでもあろう。
 しかしここの見物は、なんと言っても石の壁そのものである。大きな白い石がきちんとはめ込まれた城壁がまっすぐに続いている。石は壁の上のほうに行くに従ってだんだん小さくなり、色も茶色に変わる。何よりも目につくのは、石の形が不規則で修復の跡も見えることだ。後代になって造られたからである。しかし土台の巨大な白石の部分はヘロデの第二神殿からのものである。しかもそれらの石と石との間に細い溝ができるように工夫されていて、みごとな直線でそれぞれの石がはっきりと形を見せるように仕組まれている。これはヘロデの石組みの特徴で「ヘロデ石」と呼ばれている。
 城壁の内側にはこれも大きな白色の石がきちんと敷かれた広い通路がある。と言うよりは「あった」。ところがその通路が巨大な白色の石の塊で覆われている。それだけでなく、敷石も割れたりゆがんだり、地面がむき出しになったりしている箇所もある。紀元70年のエルサレム陥落の時に、ローマの兵士たちが巨大な神殿の城壁を破壊して、その石を崩して下へ投げ落とした時の状態がそのまま遺されているのだ。明らかに壁の最上部におかれてあったと分かるなめらかに縁取りされた石の塊には、大きなひび割れが入っている。すさまじい破壊の様子を彷彿させる光景である。遺された壁には、「これを見てあなたがたの心は喜び楽しむだろう・・・・・」というイザヤ書66章14節がヘブライ語で刻まれている。皮肉かと思ったら、悲しみに沈むユダヤ人の一人が後世に託した希望なのだと言う。
 神殿の南の壁と西の壁とが出合う所に「ロビンソンのアーチ」と呼ばれる所がある。実はここ南西の西壁には大きな石が突き出ていた。1838年に、エドワード・ロビンソンという聖書学者が、これらの石は、エルサレムの「上の町」に住む貴族たちが神殿へ入るための回廊の跡であろうと判断した。ところが発掘が進むに連れて、この回廊は階段になっていて、しかも途中で南へ下がるL字型だったことが分かった。幅15メートルほどの階段である。エルサレムの上層階級も下級階層も、城壁内の市民たちは、都の東北の一角にそびえる壮麗な大神殿を訪れる時には、ここから登り降りしたと想像される。ここからだと街の東南からも神殿に入るのに便利だから、おそらくイエスとその一行も、この階段を登って神殿内へ入ったのだろう。ここは祭りの時になると、先ほど見た南側の広い階段を登り、そこからこのL字型の階段を登って神殿へ詣でる群衆でさぞ混雑しただろう。そんなことを想像した。
■嘆きの壁
わたしたちのイスラエルの旅は、「嘆きの壁」で終わることになる。紀元135年のバル・コクバの反乱以後、ユダヤ人は、エルサレムへの居住は愚か、入ることも許されなかったらしい。にもかかわらず、神殿の丘には神が臨在しているという言い伝えがその後のユダヤ人の間から絶えることがなかった。神殿の西の壁に向かうユダヤ人の礼拝が実現したのは、1520年、オットマン・トルコによるパレスチナの支配が始まった直後のことらしい。エルサレムを征服したサルタンのスレイマンは、汚物の下に埋もれていた神殿の西壁を発掘して、そこで礼拝することをユダヤ人に許可したのである。西の壁は、全く損なわれることなく遺っていたらしい。その長さはおよそ300メートルほどだと言う。それ以来現在に至るまで、西壁での礼拝は絶えることなく続けられてきた。礼拝の場所が神殿の南の壁ではなく西壁なのは、この壁が、かつての第二神殿時代に、聖所と至聖所に面していて、これを支える壁だったからだと言う。
1948年のイスラエル建国の時には、イスラエルとヨルダンとの休戦ラインは、旧市街の西側に沿っていた。だから、旧市街全体がヨルダンの管理下にあったことになる。1967年6月5日に、いわゆる6日戦争が起こって、この時にイスラエルはそれまでの領土を一気に拡大し、ヨルダンとの休戦ラインは、ヨルダン川へと後退することになった。東エルサレムがイスラエル軍によって解放されたのは6月6日のことである。こうして、エルサレム全体がイスラエルの管理下におかれることになった。
嘆きの壁は、神殿の西壁の南の部分にあたるから、現在黄金のドームのある場所、すなわちもとの聖所のあった場所の南になる。聖所の南に当たる西壁からは、ソロモン時代からの第一の城壁が真っ直ぐ西に向かって延びていたから、現在の嘆きの壁は、ちょうどその城壁に突き当たる形で直角に南へと伸びている。
 嘆きの壁の見える所に出ると、一段高い広場があって、そこから壁のほうへは、一段低い広場になっていて、そこが礼拝の場である。だからわたしたち観光客は、少し高い広場から礼拝する人たちの姿とその前にそびえる壁とを見渡すことになる。曇り日で風が少し強いので涼しい。広場にいる人はそれほど多くはないが、壁の前ではかなりの人たちが黒い服をまとって祈りを捧げている。ここからは岩のドームもアル・アクサ寺院も目に入らない。だれでも自由に降りていって、祈ってもいいと言うので、グループの人たちが二、三人、祈るために降りていった。わたしも祈ろうかと、広場の端の階段を降りて、祈りの場の片隅に立った。だが、それ以上どうしても足が進まない。ここは「あの人たち」が真剣に祈る聖地であって、わたしの参与すべき場ではない、という思いが強く迫るからだ。しばらくそこに佇んだまま、その祈りの情景を畏敬の念を持って見ていた。
 せっかく来たのだから、壁を背景に写真を一枚撮っていただく。夕風に吹かれていると少し疲れを覚えたので、幸い置いてあった椅子に坐って壁のほうを見ていた。京都に行ったことがあるというアメリカ人の歴史の先生と話をしたが、今は周囲に誰もいない。じっと壁を見つめていると、不思議にも十字架の影が黒く壁の上に映って、ゆっくりと動いていくのが眼に映った。ユダヤの民が受難の民であることは、頭では分かっていても、そのことを実感することはついぞなかった。しかし今、その壁が、旅の体験の積み重なりの中から、わたしにこのことを語りかけてくれている。そう思った。わたしたちは、ここを最後に、バスに乗って夕闇の迫るエルサレムの街を後にして、空港へ向かった。
                             (完)
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