同性愛問題について
大阪コイノニア会(2017年4月20日)
■同性愛の兆候
サッフォー(サッポー)は紀元前630年頃〜前570年頃のギリシアの女性詩人で、叙情的な詩の元祖とされています。彼女はエーゲ海のレスボス島の生まれで、3人の兄弟が居たと言われています。彼女の詩は、エジプトのアレクサンドリアで、ヘレニズム時代から、抒情詩として、その独自な作風で知られていました。実は、彼女は、女性同士の同性愛の詩人としても有名です。おそらくサッフォーは、文献的に確認できる人類で最も古代の同性愛者の一人でしょう。ギリシアでは、彼女以降も、同性愛の系譜が長く続き、その系譜は、中世のヨーロッパに引き継がれます。17世紀のエリザベス朝のイングランドでは、シェイクスピアによる『ソネット集』があります。このソネット集の始めの20篇は、ある貴族の男性が恋する男性に宛てて書かれたもので、こういう同性愛の系譜は、現在の英米にまで受け継がれていると言えましょう。
注意してほしいのは、サッフォーは、優れた詩人であり、おそらく上流階級の知的な女性であったと思われることです。彼女は「叙情詩」の元祖と言われますが、叙情詩(rylic)は、ホメーロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』のように神話的な歴史物語に登場する英雄を謡(うた)う叙事詩(epic)とは異なっていて、詩人の内面的な情緒を美しく詠(うた)う作風です。世界で最も古代の同性愛者が、こういう優れた芸術性を具えた知的な人物であることは、人類における同性愛の意味を知る上でとても重要です。
現在のわたしたちホモ・サピエンスにおいて、同性愛がいつ頃どのように始まったのかは分かりませんが、おそらくは、2500年以前頃からで、ごく最近のことであろうと推定されます。同性愛は、人類が比較的高度な文明に恵まれ、文化的に豊かで、知性が発達した人たちで、自己の内面性に深く目を向ける余裕のある人たちの間で生じたからです。だとすれば、同性愛の傾向は、人類の文明と文化の発達に伴って、人が自分の内面性に目覚めるのと比例して、今後ますます広がり、一般化していくことが予想されます。
同性愛とは、子を生むことがあり得ない愛の形です。だから、男女の愛と結婚に根ざす人類の生存と増殖を目指さないという点で、同性愛者の結婚も愛も「不毛な」形態にならざるをえません。かつて存在したいかなる生物よりも急激な増殖を繰り返すことで、現在の地球上のあらゆる動物にまさるほどまで増殖し繁栄している人類が、まさにその知的な内面化に応じて、こういう不毛な愛の形を求めるようになっているという不思議で矛盾した傾向をここに見ることができます。わたしには、ホモ・サピエンスの精神的な豊かさとその内面性の行き着く先には、人類の生存そのものが自動的に制限されて、やがて消滅へ向かうのではないか。そこまでいかないまでも、これ以上人類が増えないように、自動制御装置が働いているのではないか。とにかく、人類が減少する方向へ向かう一つの兆候のように思われます。このようにわたしは、この問題を人類学的な視野において観ていますが、同性愛が他の動物には見ることができず、ただ人間に、しかも、高度に発達した文明社会の人間だけに見いだせる兆候だとすれば、それがどういう意味を持つのか。この問題の意義づけは、わたしにもまだよく分かりません。
■パウロの警告
使徒パウロは、ローマ1章26〜28節で、同性愛を人類一般の「神への反逆の罪」の一つの形態としてあげています。彼は、生存と増殖を神の祝福と見なす旧約聖書以来のユダヤ教の伝統に沿って、子孫を残さない「性的な情欲/情熱」に動かされる同性同士の愛の有り様を「不自然な関係」と呼び、神の真理を偽りと取り替えていると非難しています。彼が言う「不自然」と「自然」、神の「真理」と「偽り」は、イスラエルの男女が結婚を通じて神の民の増殖と繁栄を目指すという旧約時代からの長い伝統に基づく考え方に準拠しています。ユダヤ教の伝統を受け継ぐパウロの念頭には、ヘレニズム世界で蔓延していたギリシア的な同性愛の「恥ずべき姿」が、堪えられなかったのでしょう。
ただし、パウロは、すべての人間が、イエス・キリストの贖いによって救われなければならない「罪人」であると見ていますから、彼の同性愛批判も、より広い意味で、もろもろの人間の罪性に対する批判に含まれていると言えます。パウロは、罪の状態にある人類は、このままの姿では、神の怒りのために滅びにいたることを警告しているからです。だから、彼が言う「不自然」とは「不毛」と同義語であり、同性愛の罪も他のもろもろの罪の一環として断罪されているのが分かります。「自然」と「不自然」と「超自然」、この三つの関係については、コイノニア・ホームページの聖書講話欄の『これからの日本とキリスト教』第1章「自由と神」を参照してください。
しかし、ここで注意してほしいことがあります。それはパウロが、キリストの御霊の働きの下にあっては、「もはや男も女のない」と見なしていることです(ガラテヤ3章28節)。彼は、男女の差を、人種、宗教、社会的身分、先進と後進の差と同等において、過去から引き継いできた人類にまつわるこれらのもろもろの罪性をイエス・キリストの御霊の働きによって克服することができると見ているのです。先ほど、「不毛の愛」と言いましたが、パウロは結婚しない独身の状態を否定することをせず、むしろ積極的に肯定しています(第一コリント7章4〜7節)。この点でパウロは、ユダヤ的な伝統から離れていると言えましょう。だからパウロの見方では、すでに結婚している状態であろうと、独身であろうと、未婚であろうと、イエス・キリストの御霊にある者は、救いに与ることができることになります。しかし、パウロの言うキリストの御霊の働きは、人間にまつわる不倫や姦通やその他のもろもろの罪性と同じく、同性愛的な情欲からも、キリストの御霊にあって救われ、これを制御することができると見ています。だから、主の御霊にある交わりにおいては、同性愛者だからと言って、その人を排除したり差別したりする理由にはならないでしょう。ただし、そこに、同性愛同士の「結婚」が含まれるかどうか?ですが、おそらくパウロは、このような結婚形態を認めないでしょう。
■イエスの復活問答
男と女の問題に関しては、さらにイエスとサドカイ派の間で交わされた復活問答があります(マルコ12章18〜27節/マタイ22章23〜33節/ルカ20章27〜40節)。サドカイ派は、イスラエルの伝統的なツァドク的な神学から、創世記に基づいて、イスラエルの民は男女の結婚によって、その子孫の増殖を通じて繁栄することを目指していました。サドカイ派のこの自然の生命原理に即した合理主義からは、死後の復活はむしろ不合理であり、したがって復活はありえないという結論に到達します。
これに対してイエスは、彼らが、自然の生命原理を超える神の力が存在することを洞察できていないと指摘した上で、復活の生命は男と女の区別を超える「天使のような」性格を帯びると告げています。イエスのこの復活観には、その背後に、エゼキエルや第二イザヤを始め、前2世紀のセレウコス政権によるユダヤ教への迫害と殉教の歴史があります。
しかし、この復活問答は、奥が深く、注意して読まないと誤解を生じます。なぜなら、イエスはここで、人が復活によって天使と「全く同じ」になることを意味しているのではないからです。さらに注意しなければならないのは、イエスはこの問答を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と結びつけて、「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神である」と結んで、サドカイ派の聖書解釈に対する思い違いを指摘していることです。イエスは、人が、この地上に生存している今の時にも、なお「生きている神」の働きかけによって、人間が、男女の区別を超える存在になりえることをここで告げているのです。この意味で、共観福音書は、先にあげたパウロと通底します。
■結婚の奥義
同性愛との関係で対比されるのは、むしろ、エフェソ5章で語られている「結婚の奥義」のほうでしょう。そこでは、キリストとエクレシアの関係が夫と妻との関係と対応して語られていて、しかも、これの「奥義は大きい」とあります。「奥義が大きい」とは、キリスト=エクレシアに対応する夫=妻の関係が、ヨハネ黙示録19章6〜9節にあるように、終末的な意義を帯びた窮極の目標となりえることを意味します。言い換えると、エクレシア的な結婚観においては、夫婦の誓約は、この地上における世俗的で社会的な領域に限られる法的な意味だけでなく、夫婦の結びが、「小羊の婚宴」という霊的な意義を担うほどまで高められているのです。したがって、エクレシアにおける夫婦の結婚の誓約は、世俗の法的な資格を超えた永遠性を帯びるほどの霊的な意義が与えられているのです。結婚の奥義は、自然な人類の営みを包含しますが、それは神によって、人の力を超えた領域にまで及ぶことを知らなければなりません。
現在の憲法では、結婚は、男女それぞれの自由な意志に基づいて行なうことが認められています。男と女の「結婚」は、当事者の自由意志に発するものです。ところが、先のエフェソ5章の「結婚の奥義」に照らして見るならば、キリストのエクレシアにおいては、一組の男女の「結婚の誓約」は、結婚の目的達成のために、終末的な愛の成就に到達するという努力目標が夫婦の双方に課せられることになるのです。「自由」とは、これを成就しようとするなら、「自発的に」厳しい束縛に身を委ねることを求められるという、自由と束縛との相互関係に潜む矛盾がここに含まれています。
翻って、同性愛者同士の場合を考えてみると、同性愛がそれぞれの個人の自由な営みであるという点では、結婚にいたる男女の愛情と原理的には変わりません。しかし、同性愛という性質上、二人の関係が、上に述べた「夫婦間の結婚愛」と同様に、終末的な窮極の意義を与えられているとは言えないのです。夫婦間の結婚愛は、地上における人類の存続と繁栄を霊的な領域にまで高めるところに、その意義を見出すことができます。しかし、同性愛者同士の場合、その「結婚」には、そのような霊的な意義を見出すことが困難です。むしろ、同性愛者は、そもそもの初めから自由な結びつきを求めて始まったのと同様に、関係を止めたければ、いつでも自由に止めて、通常の友人関係に戻ればそれで済むのです。
したがって、エクレシアにおいては、夫婦の結婚と同性愛者の結婚を同等に見なすことは、できもしないし、第一その必要がないのです。世俗の法的な領域においては、同性愛者同士の「結婚」も制度としてその便宜性が認められるかもしれません。しかし、エクレシアにおいては、同性愛者同士が、「結婚の誓約を交わす」必要もなければ、その関係を続けることを「努力目標」とする必要もないことになります。
結論として、エクレシアにおいては、パウロのように独身の者、ペトロのような妻帯者、同性愛者など、様々な人たちが主にある御霊の御臨在と救いに与ることができます。人間が地上に生存している間は、情念や偏見や愛憎から生じるもろもろの肉的な制約を免れることができません。そういう人間が、あるがままそのままで、イエス・キリストの贖いの赦しに与り、イエスの御霊の働きを受けて、人間的な罪性を克服する力を日々注がれて歩むことになります。人をもろもろの罪と肉的な制約から救う力こそ、神から授与される絶対恩寵の無限の力なのです。こういう恩寵に導かれて初めて、イエスの言うように、人間が男女を超える「天使の領域」に近い存在へ高められるからです。エクレシアの中においては、夫婦の誓約に基づく結婚愛には、終末的な目標が与えられ、その目標を目指して、夫婦が自発的に「結婚愛を追求する」よう教えられます。しかし、同性愛者には、そのような努力も追求の必要性もありません。むしろいつ何時でも、通常の友人関係に戻り、独身者として歩むことができるのです。
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