日本の平和憲法とピューリタン理想主義
             
(2017年 『コイノニア』97春号)
 20世紀の半ば、日本が米英との太平洋戦争に敗れると(1945年)、アメリカ占領軍の司令官マッカーサーは、日本の占領を無事に成功させ、これを手土産にアメリカの大統領選挙に臨むことを考えていた。彼は、アメリカのピューリタンたちを招いて、日本の憲法を作らせた。任務を与えられたピューリタンたちは、マッカーサーの意図よりも、むしろ彼ら自身の神学的な意図を実現しようとする「ピューリタン的理想主義者」たちだったのである。日本では、この憲法が日本を無力化するための「押しつけ」だという見方をする人が多いようであるが、これは、その時に起こった「出来事」の実際の歴史的な意義を日本の国という限られた視野から見たやや感情的な見解にすぎない。
 アメリカは戦後の世界全体をどのような基本理念によって秩序づけようとしているのか?平和憲法の草案を作成したアメリカ人の真意は、日本の占領政策を通じてこれを世界に提示するための重要な実例だった。「自由と民主主義の国アメリカ」、このピいューリタン的な理想こそ、戦後一貫してアメリカが世界政策の基本理念として訴え続けてきたことで、その事情は今でも変わりない。日本の占領政策と平和憲法は、この理念形成の出発点だった言える。戦後のアメリカの世界政策は、この視点に沿って形成されてきた。彼らは、このピューリタン的な理想に基づいて、かつて地上に存在したことのない「平和国家」を目指す憲法案を作成し、これをマッカーサーに上申したのである。それは政治的な憲法と言うよりも、神学的な意図に基づくものであり、しかも彼らの目指す平和憲法は、天皇を戦争責任から回避させるという思惑も兼ねていたから、日本人だけでなく、全世界に向けて「新しい日本」の有り様を提示するねらいもこめられていた。驚くべきことに、この憲法を日本人はそのまま受け容れたのである。日本の国の内外の犠牲があまりにも大きく、その犠牲があまりにもひどかったからである。戦争で死んでいった多くの若者たちは、自分たちの死が、将来戦争のない平和な日本をもたらすことを信じて逝った。このことを生き残った日本人が心に刻んでいたからである。だから、日本人は、人類の生存をかけた宗教的な悲願としてこの憲法を守り通してきた。草案はアメリカ側によるものであるが、これを実現しようと守り抜いてきたのは日本人である。アメリカにとって皮肉なことに、これには、日本が世界で唯一の被爆国になったことが大きく作用していた。戦争の犠牲者への追悼と原爆の被災者の叫びと、歴史が授与した平和憲法、この三つが戦後日本の国家理念を支える支柱となった。
 しかし、ようやく訪れた平和国家日本にも、戦前・戦中の指導層の中には、敗北と多大の犠牲への反省よりも、日本の戦争の正当性を主張しアメリカに対する恨みを抱き、与えられた平和憲法を「屈辱」だと受けとめる人たちがいた。確かにこの憲法は、日本に限らず、アメリカをも含めていかなる国家に適用されても、その国家と民族性それ自体をも超えようとする理想追求を包摂している。人類に奉仕する平和国家日本よりも、人類に君臨する戦争のできる国家を目指そう。こう考える人たちが現在の日本にも大勢いる。ところが、不思議なことに、この憲法の下で、日本は空前の経済発展を遂げることになった。それだけでなく、世界における日本の評価をかつてなかったほどに高める結果になったのである。だから、アメリカとソ連との冷戦が終結した時に、アメリカの新聞はこう書いた。「アメリカとソ連との冷戦は終わった。勝ったのは日本である。」  
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