コイノニア会の出来事
                      2017年10月29日
 コイノニア会は、過去に、多くの人が集まり、それが分裂し、再び大勢が集められ、その集まりが逆に分裂の始まりとなるという悲劇を少なくとも3〜4度繰り返してきました。いったい何が欠けていたのでしょうか?それは「互いに愛し合う」という一事が欠けていたからです。ヨハネ福音書でイエス様が「私があなたたちを愛したようにあなたたちも互いに愛し合いなさい」と言われた愛の戒め(ヨハネ13章34〜35節)を現実に体現できなかったところに、その理由があります。イエス様の愛を宿すことは、十字架のイエス様を見つめることに始まります(ヨハネ3章14〜15節)。イエス様の十字架から発する赦しの霊光こそ、人の心を刺し貫いて、主様の愛をその人の内に宿らせます(ヨハネ6章54〜56節)。
 「赦す」とは、先ず自分の罪を認めることから始まります。そこに「赦しの栄光」が顕われます。するとその人は、「宗教する人」が避けられない宗教的な誇りや憎悪から救い出されて、人を愛する「信心する人」へ変容されます。その人の心が、御霊の働く場となるからです。これは、「宗教する人」が、己の宗教性のゆえに達成することではなく、ひとえに宗教する人そのものを根底から贖い赦す主様の御霊によって、無欲無心にさせられるからです(ヨハネ15章16〜17節)。コイノニア会には、立ち去る者にも、残る者にも、この「赦しの愛」が必要です。「赦しの愛」を拒否する者は、彼自身で、主様の恵みと愛を拒否するという「裁き」を自らに招くことになります。彼は、自分で自分に裁きを招き入れているのです。「信じる者は裁かれない。信じない者は裁かれる」とあるのは、こういう意味でしょう。もし私たちが、自分の罪を認めるなら、赦されます。認めることができないなら、認めることができるまで「裁き」が続きます(第一ヨハネ1章6〜10節)。
 主様の愛を心に宿す時に初めて、人の集まりが、御霊にある「自由な交わり」を生み出すコイノニアとなります。これこそ、ほんとうの意味で「エクレシア」と呼ぶのにふさわしい交わりの場です。こういうエクレシアの集まりは、人間の罪性ゆえに、いかにも脆く分裂し崩壊しやすいです。キリストの教会は、御霊にある個人の自由を優先するミニ集会か、それとも全体の統一を重視するマクロ宗団か、これら二つの両極の狭間を歩んできました。ミニ集会には分裂が、マクロ宗団には規制が不可避的に伴います。地上のエクレシアは、「自由と分裂」か、それとも「統一と規制」か、という二組の「残念な組み合わせ」の狭間を歩んできたのです。「御霊にある自由」と「御霊にある一致」、この二つを結ぶものこそ、イエス・キリストの十字架の恩寵から降る愛だけです。
 それでもなお、御霊にある自由と一致が一つになる交わり(コイノニア)を求め続けていくところに初めて啓けるのが、主の来臨を待ち望む終末的な希望です(第一ヨハネ4章7〜10節)。これが、イエス様のエクレシアが追い求めている希望です。コイノニア会も、始めはただのクリスマスの集いから、年に一度の夏期集会での集いへ、さらにより深い充実した夏期集会へと、一歩一歩前進してきました。「愛し合う」とは「赦し合う」ことにほかなりません。私は、生涯に3度の分裂を通して、このことを学び悟らされました。「失敗は成功のもと」などと言えるほど、事態が甘くないのは重々承知しています。それでも、失敗しても繰り返し、御霊にある自由と一致を目指す追求をあきらめないのです。失敗のただ中で勝利すること、この「逆転させる恩寵」が、イエス様と共に歩むエクレシアに生じる不思議な体験だからです。御霊の御臨在と、その働きによる出来事、これを正しく導く御霊にある知恵と知識、この三点セットこそ、エクレシアの理想を追求する鍵です。日本のエクレシアは、この理想をどこまでも追求することを辞めてはなりません。そうでなくても、お隣の韓国のエクレシア、そして現在の中国のエクレシアは、すでに組織化の弊害に陥っています。だから、日本人のエクレシアが、霊知と霊愛によってエクレシアの理想の姿を追求することを辞めない限り、キリストにある世界のエクレシアにおいて、そのかけがえのない価値を失うことがないでしょう。
 だからこう祈ります。 「主よ、どうか、この宗教する私たちの罪を赦し贖ってください。あなたは、水をぶどう酒に変えたように、私たちの罪をも逆転する恩寵を働かせてくださる方です。どうか、万人を贖罪し、万象を和解させる宇宙の支配者であるイエス・キリストの御霊の働く場として、私たちを贖い用いてください。アーメン」
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