「宗教する人」への誤解
2017年12月2日
私が言う「宗教する人」が、クリスチャンからと、その他の宗教の人たちからと、両方から誤解を招くのではないかと懸念して、以下で、これについて述べておくことにします。旧新約聖書で「人」とは、神と人との関わりを視野においた「人間」のことです。人間(ホモ)には、経済する人、政治する人、言語を語る人など、様々な性質が具わっています。しかし、人間を何らかの意味で「神」あるいは「神々」との関わりにおいて見る時に、人は「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)になります。だから、神を否定する人も、神を信じない人も、無神論者も無宗教者も、総じてすべての人は、神と宗教を肯定するにせよ否定するにせよ、神との関わりにおいて見れば「宗教する人」にほかなりません。
この意味で言う「宗教」は、もはや人類を救う善意の「宗教」とは言えません。なぜなら、宗教する人の「宗教」それ自体こそ、神の前で救いを必要とする惨めな人間性の現れを指す用語になるからです。通常の宗教学では、「宗教」は人を救う善意の人間の営みを表しますが、私は、「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)を通常の宗教学の用語ではなく、人間の生々しい営みを考察する人類学の用語として用いていることになります。 だから、キリスト教が言ういわゆる「救済史」と、ホモ科の人類の自然史とが、この「ホモ・レリギオースゥス」において初めて出合うことになります。わたしたちは、救済史を人類史と関連づけることによって初めて、人類のもろもろの宗教が、どのように進化してきたかをみることができます。そこから、キリスト教とほかの宗教との正しいつながりが見えてくると思います。人類史は、猿人から原人へ、原人から旧人へ、旧人から現在のホモ・サピエンスへと、700万年とも言われる長い年月の進化の過程を想い起こさせます。福音的なホモ・スピリトゥスが、人類の進化となんらかの関係があるのかもしれませんが、この点は、進化の具体的な出来事がまだよく分かっていないので、なんとも言えません。進化思想は、かつてのナチスのように、人種の優生思想に道を開く恐れがありますから、軽々しく言うことができません。
人類は、己が抱く宗教的な理想とは裏腹に、と言うよりは、現実には、宗教的な理想を追い求める<まさにそのゆえに>、己に敵する者に対して偏見を抱き、その結果、宗教の名のもとに、「異教徒」「異端者」「敵性宗教を信じる者」を迫害したり、場合によっては殺戮を引き起こしてきました。自ら信奉する宗教の理想を実行も実現もできないままに、他の宗教を攻撃することで自己正当化を図るからです。これによって、相互に憎悪を増幅させるという過ちを犯してきたのです。
「宗教」と言うより、こういう「宗教する人」を、神との関わりにおいてほんらいあるべき「宗教」へと向かわせること、人を救う「宗教」へ人間を導くために、神は、第二イザヤや、釈迦や孔子、そしてソクラテスなどの聖者や賢者を人類に遣わしたくださいました。さらに近年では、ガンジーのような賢者の知恵を通じて、宗教する人間の在り方を諭し教え、神に背く「宗教する人」の行為に対して警告を与えてきました。にもかかわらず、人類の宗教的な暴虐は一向に収まりません。
だから神は、イエス・キリストを遣わして、御子の血による贖いと赦しの愛によって、「宗教する人」に具わる「罪」を赦し浄めて変容をもたらす道を啓いてくださったのです。神は、人類の血まみれの宗教の営みを寛容と忍耐をもって赦してくださったのです。だから、私たちは、自分たちの「宗教」をこれ以上自己義認を図る道具としてはならないのです。自分たちが、「宗教する人」として、すでに破綻していることを率直に認めて、御子の血の贖いを受け容れることこそ、イエス様がもたらしてくれた福音だからです。人は「宗教する」から救われるのではありません。「
宗教する」時でさえも、なお免れ得ない人(ホモ)の罪性を、父と御子が、私たちの罪を「逆転させる」ほどの贖いの赦しによって支えてくださるからこそ救われるのです。いわゆる「異教徒」呼ばわりする他宗教への批判攻撃も、宗教的な憎悪も、これを克服するためには、十字架のイエス様とその御名による罪の赦し以外に、人類に啓かれた救いの道は存在しません。
だから、私たちキリスト教徒は、十字架のイエス・キリストの福音を、「宗教する人」の罪性を自己正当化するための手段と<しない>ように自戒しなければなりません。
このように言うのは、神と人との関わりを指す「宗教」ほんらいの意義を否定することではありません。かく言う私自身こそ、愚かで自己義認の「宗教する人」の典型であることを身をもって知っています。ところが、「宗教する人」としての己の実態を悟り、主イエスの前に恥じてお詫びする時に、愚かな自分をも赦して、あえて、この「宗教する」私をも用いてくださる主イエスの驚くべき恩寵の働きに接することができたのです。イエス様が、四福音書で(例えばマタイ23章!)、当時の宗教的指導者たちに向けて、なぜあれほど激しい批判の言葉を浴びせたのか、その真意を今にして理解できます。だからこそ、私は、「宗教する人間」の有り様に潜む根源的な矛盾を「我が事」として自覚し、主様に己の罪を告白するのです。すると、驚くべきことに、赦しの霊風が、ものすごい勢いで吹き上げてきて、父と御子からの恩寵が、宗教する私を覆い尽くす不思議が生じるのを覚えます。
「宗教する人」の罪を赦す「逆転の恩寵」、「赦しの霊愛」です。だからこう祈ります。「主よ、宗教するこの私をどうぞお赦しください。」なお、ここで指摘する「宗教する人」が抱える問題は、そのまま、「科学する人」、「経済する人」、「政治する人」、その他「ホモ」に具わるすべての属性についても言えることを最後に指摘しておきます。
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