「自然」について:科学と宗教の狭間にあるもの
           (2019年1月25日)

 日本語の「自然」は、明治になって、英語の"nature"から造られた訳語であるという説がありますが、これは誤りです。「自然妙法」(じねんみょうほう)という仏教の言葉に見るように、昔からある日本語です。日本語で「自然のなすがままに」と言うように、「自然」は事の成り行きを表わす用語です。「自然(じねん)」は、親鸞の『嘆異抄』16章にも出てきます。親鸞は「しかれば念仏も申され候ふ。これ自然なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力にてまします」と述べて、自らのはからいによらず仏(ほとけ)に任せることを「自然法爾」(じねんほうに)と呼んでいます。この思想は、古代中国の老子の思想の根本を成す「無為自然」(むいしぜん)にさかのぼるものでしょう〔大和昌平「『嘆異抄』と福音」『いのちのことば』2019年2月号26〜27頁参照〕。
 そこには、自然そのものの内に成り行きを造り出す理法が存在しているのか?とか、何らかのカミの力が働いていて、自然がこれによって成り行きを決定されるのか?というような区別はつけられていません。日本人の見方には、万象にカミを見るアニミズムが宿るという見方がありますが、これは一方的で、森羅万象の「事の成り行き」には、人の想いを超えたなんらかの不思議な「はからい」が存在するという洞察も古来からなされてきました。「目に見えぬ神の心に通うこそ、人の心のまことなりけれ」(明治天皇の皇后尚憲皇太后)とあるように、「自然の成り行き」に、人のまごころに通じるカミの働きを信じることも日本人の長い伝統なのです。逆に、欧米の思想が唯一神教だというのも誤りです。皆さんは、ハリー・ポッターの描く世界が唯一神教だと思いますか? 自然そのものが、行き当たりばったりの出来事の羅列だと見ることも、事の成り行きに不思議な力の「はからい」を「自然」に見出すことも、そのどちらにも受け取ることができるのが日本語の「自然」です。
 ところで、19世紀に、ダーウインが進化論と唱えて"natural selections"という概念を提示した時にも、彼の言う「自然」"nature"には、日本語の「自然(じねん)」と同じ含みがこめられていました。"natural selections"を「自然淘汰」と訳すと、「排除される/失われる」ことのほうに重点が置かれますから、正しい訳語とは言えないでしょう。「自然選別」と訳すほうがより的確です。ダーウインがこの言葉を用いた時には、「自然<が>選別する」のか、それとも「自然<に>選別が生じる」のか、このどちらの意味にも通じる意味で用いられていました。ところが、キリスト教側が、「自然=神」と置き換えて、神がその計画によって選別を行なうことだと主張したために、これが、自然科学の人たちからの反論を呼ぶことになります。科学者たちは、自然それ自体は、偶発的で無目的な成り行きにすぎないのだという「無目的自然選別」論を唱えるようになります。こうして、ほんらい、どちら側をも許容する中立な「自然選別」が、科学と宗教との狭間に置かれて、相互に反論し否定し合う争いが生じる結果になりました。これが現在に持ち越されて、今もなお、進化論とキリスト教とは相容れないと「信じる」人たちが欧米を中心に多数います。これが、「科学か、宗教か」というあらずもがなの事態を招いた原因なのです。
 進化論とキリスト教との対立をめぐっては、アメリカで、プランティンガとデネットとの間で行なわれた有名なシンポジウムがあります。その討論で、プランティンガは、「自然」の両義性と、「自然選別」の中立性を指摘しています。彼は、偶発的で無目的な「自然選別」論を唱える立場は、無目的を信じる哲学的な「信念」に基づくものであり、「擬似宗教」と同じだと指摘しました。「自然<が>選別する」のか、それとも「自然<に>選別が生じる」のか、これは、ほんらい科学が決定するべき問題ではありません。私たち日本人クリスチャン、と言うより、21世紀のキリスト教徒は、もはや従来のこのような進化論と宗教論との無益な争いに巻き込まれる必要がありません。目的性を有するか、目的が存在しないか、という点から見れば、「自然選別」は中立だからです。出来事が「目的性を有する」ととらえるのか、「無目的なもの」だと見なすのか、これは、ほんらい哲学的・宗教的な問題なのです。だからこそ、欧米を含む科学者の中でも、目的性を信じる科学者たちと、これを認めない科学者たちと、その両方が存在するのです。ちなみに、自然科学的な人類の歴史(人類学)と聖書の救済史に基づく人類の歴史(聖書神学)、この狭間にある人間の有り様を追求しようとするのが「ホモ・レリギオースゥス」(宗教する人)というコンセプトです。人間の自然史と救済史は、この「ホモ・レリギオースゥス(宗教する人)」という概念を導入することによって初めて、二つが出合うことになります。
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