「霊の人」と永遠の命
(2019年4月10日)
 現在の人類(ホモ・サピエンス)は、また「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)でもあります。新約聖書には、この「宗教する人/人類」に対して、神は、その御子イエス・キリストを通じて「永遠の命」を賜(たまもの)として授与されたとあります。神の御子を受け入れて永遠の命を宿した人間は、ホモ・サピエンス(英知の人)から「ホモ・スピリトゥス」(霊の人)へと変容します。では、「永遠の命」とホモ・スピリトゥスとは、どのような関係にあるのでしょうか?この点を探るのが、今回の目的です。
 この問題について、私自身の解釈をも含めて、現在、主としてプロテスタントの聖書的な教会で広く受け入れられている解釈を紹介します〔山口希生「神の王国」第21回:神の王国と『天国』。『船の右側』(2019年4月号)〕。その後で、私自身の解釈をお話しします。どちらの解釈を選んでも、現在の日本のキリスト教神学から見て「異端」ではありません。だから、クリスチャンは、以下のどちらでも選ぶことができます。ただし、相互に理解し合い交わりを保つことが大事です。日本の仏教界でも、浄土真宗と禅宗と日蓮宗が、互いに認め合いながら共存していますから。
【A】以下は、現在の日本で、主としてプロテスタントの福音主義の教会で広く受け入れられている信条のあらましです。これによれば、神の御子イエス・キリストを信じるクリスチャンには、空間的に見れば「パラダイス」と呼ばれる「天国」が備えられていて、クリスチャンの「霊魂」は、「死後直ちに」この天国で、永遠の命に与ることになります。ところが、時間的に見れば、全人類には、終末の訪れの時が来ます。この時、イエス・キリストが再臨して、全人類に「体の甦(よみがえ)り」が起こり、人はそれぞれの信仰と行ないによって裁かれます。ある者は救いに入れられ、ある者は断罪され神とキリストに敵対してきたサタンと一緒に地獄の火で焼かれることになります。これが、新約聖書の言う「終末」と「新天新地」の訪れです。
 ただし、終末の到来とイエス・キリストの顕現(エピファネイア)と地上のエクレシアの関係については、さらに細かな分類があって、終末以前に、イエス・キリストの来臨によってエクレシアのメンバーが「空中へ携挙される」という説があります。また、終末期の大艱難の時期についても、イエス・キリスト来臨以前とする説と、来臨以後説とがあります。私は、これらを否定しません。また、以下に述べる私の見解は、これらと矛盾するものではありません。しかし、私は、このような図式的な見方とは、根本的に違う視点から「霊体」と終末を見ています。ただし、エクレシアが、1〜2世紀の成立当初には、「ユダヤ人キリスト教徒」の力に負う所が大きかったことを踏まえて、終末においても、異邦人から、再びユダヤ人に福音の働きが戻り、エクレシアの最終段階では、異邦人ではなく、「霊体」を具えたユダヤ人キリスト教徒の「イスラエル時代」が訪れるという信仰には、共感を覚えます。終末における「霊のイスラエル」の役割という信仰は、日本人のクリスチャンに多く、ここに、日本人とイスラエルとの不思議なつながりを覚えます。
 先に述べた「霊魂」説に戻ると、この立場では、イエス様を信じる「霊の人」には、死後直ちに天国へ召される「霊魂」と、終末になってよみがえる「身体」との二つが具わっていることになります。だから、「霊の人」においては、「聖なる霊魂」とその人の「身体」との関係は、ギリシア思想の「霊魂と肉体」の二元論に近くなります。人の霊魂と身体が、はっきり区別されているからです。ユダヤ教の黙示文学の一つ『アブラハムの遺訓』(ギリシア語で、成立は2世紀ですが、その原本はヘブライ語で前1世紀にさかのぼるか?)では、「天的な霊魂はみな、天使のように、身体のない霊的な存在」だとあります〔『アブラハムの遺訓』『聖書外典偽典別巻(T)関根清三訳』〕。だから、神に召された人が「死ぬ」と、その霊魂は、その身体から離れて神のもとへ昇りますが、 逆に罪人の霊魂は、暗い陰府に留め置かれて、終末の裁きの時に、恐ろしい刑罰が臨みます。
 この立場では、死後直ちに起こる天国への「魂の昇天」と、人類の終末における「全人類の身体の甦り」との二つの関係が問題になります。この空間的と時間的な出来事の間にあるのが、イエスが伝える「神の国/支配」です。だから、「神の国/支配」は、個人の死後の昇天と、終末での全人類の身体の甦りとの間の期間にかかわることなります。「神の国」は、個人の昇天の段階では、まだ未完成で、終末の人の子の再臨の時になって初めて完成されるのです。終末の訪れの時に初めて、天国に居て救われた霊魂には、それぞれの霊魂に固有の復活の体が与えられます。だから、「霊の人」は、終末での「からだの」復活を経過して初めて、自分固有の「霊の体」が与えられて、「新天新地」に住むことになります。
 こういう解釈は、イエス様が来た前後2世紀にわたる黙示思想の影響を受けていますから、新約聖書をユダヤの黙示思想/文学の視野から読み解こうとします。この解釈は、ヨハネ黙示録の記述とも符合するところがありますから、世界のプロテスタントの福音主義の教会で広く受け入れられています。
【B】では、これから、私自身のこの問題についての解釈をお話しします。私の解釈は、現在行なっている共観福音書講話と注釈から学んだこともありますが、同時に、共観福音書をさらに霊的に深めて解釈しているヨハネ福音書から学んだことが大きいです。これに、今までの私自身の異言を含む聖霊体験が加わります。
  結論を先に出しておきますと、私の解釈は、【A】とは、次の三つの点で異なります。
(1)私は、人を「霊魂」と「身体」とに分けません。だから、「霊の人」の実体験としては、過去から未来への全人類は、それぞれの人が死を迎えるその「時の場」で、その人固有の「姿形を具えた人格体」が永遠に定まり、終末の裁きに面することになります。〔石田晶彦さんによる本論へのまとめ〕
(2)〔A〕では、全宇宙が滅び去った(消滅した)後に新天新地が訪れます。しかし、私は、現在の全宇宙が無くなっても、そこからまた<新たな宇宙が>誕生することがありえると考えています。だから、私は現在の宇宙の有り様から超絶したギリシア的な意味での形而上的な絶対の「永遠」を考えていません。旧新約聖書の「永遠」とは、日本語の「幾久しく」のように、「いつまでも続く」という素朴な「永遠」だからです。神様の宇宙は、現在の宇宙の時代が過ぎ去っても、一つの時代(アイオーン)から別の時代(アイオーン)の宇宙へと「幾久しく」続くと考えています。だから、聖書の「新天新地」とは、もろもろの「アイオーン」の一つの区切りのことだと考えるのです。
(3)これらの二つは、聖書的な視野に立つ神の救済史に基づく解釈ですから、基本的に〔A〕と対立するものではありません。ただし、私は、永遠の救済史に加えて、現在の人類について、ここ何十万年かにわたる「人類の進化」を神の御霊の働きと関連づけて見ています。これは自然科学的な人類史ですから、御霊にある「霊の人」は、救済史的な永遠性だけでなく、ここ十万年単位で、人類の進化にも影響を与えると見るのです。救済史を人類史と関連づけるのは、これからの時代では、キリスト教と仏教や神道など、他宗教との関係が極めて重要な意義を持つと考えるからです。
 以上の三点を念頭に置いて、なぜそういうことが言えるのかをこれから順を追ってお話ししたいと思います。  
〔ナザレのイエス様〕
 ヨハネ1章には、宇宙を創造された神が、神からの永遠の生命を宿す神の言葉(ロゴス)を一人の人間としてこの地上に遣わし、この一人の人を通じて、宇宙創造の神自身が、初めて人類に啓示されたとあります。これが歴史の「ナザレのイエス様」です。だから、イエス様の言葉とその業だけでなく、その身体をも含むイエス様の全存在、全生涯が、そのまま「(天地創造の)神を啓示する出来事」になります。この出来事は、神のロゴスの「受肉」と呼ばれていますが、ヨハネ福音書には、これが、神から人間への驚くべき「恩寵の顕れ」として語られています。私は、この「ナザレのイエス様の出来事」こそ、新約聖書の福音の源泉だと思っています。
 私たち人間は、この受肉の出来事をどのようにも解釈することができます。しかし、この出来事の場合は、神とは何か、受肉とは何かを解釈したり論じたりする前に、先ず、この出来事に<出逢う>人に、これを「受け入れる」のか、「拒否する」のか、これを信じるのか、否定するのか、その人の受肉に対する根本的な態度/姿勢が問われることになります。神は、ナザレのイエス様を通して、神の有り様を「解き明かす」のではなく、受肉のイエス様を「神の言葉」として、人々に「語りかける」、言い換えると人々に「働きかける」からです。だから、ナザレのイエス様の出来事は、これを受け入れる人には「恩寵」となり、これを拒否する人には「裁き」となります。このイエス様の出来事は、この世の人間に「恩寵の信仰」と「裁きの躓き」の両方を表裏一体の形でもたらすのです。
〔永遠の命と身体〕
 私が「イエス様の霊性」と言う時、それは、イエス様の心霊に宿った神の聖霊を指すだけでなく、「霊性」は、イエス様の言葉もイエス様の「身体の働き」もすべてを含んでいます。神御自身が、一人の人間の人格的霊性と成って現われ、その人の心身を通じて神御自身を啓示したからです。イエス様は、十字架の受難を経ることで復活して昇天しました。それは、かつて地上に現われたイエス様の霊性の臨在が、現在も変わることなく、地上にいてイエス様を信じる人を通じて再現されるためです。この目的のために、イエス様の父なる神は、イエス様の御霊(聖霊)をこの世にいる人間に遣わしたのです。だから、宇宙を創造された神御自身の聖霊が、かつてのイエス様同様に、私たちにも働いてくださるのです。こうして、かつてイエス様に宿り、イエス様に復活と昇天をもたらした「永遠の命」が、イエス様の御霊となって、現在この世に居る私たちにも働くのです。
 では、この御霊の働きと私たちの身体とは、どのように関わり合うのでしょうか?実は、私がこの問題を扱った「『自然の体』と『霊の体』」が『船の右側』(2017年5月号)に掲載されました(現在コイノニア会のホームページの聖書講話欄にある「パウロ系文書補遺」でも読むことができます)。今回は、特にヨハネ福音書から、イエス様の御霊と私たちの身体との関わりを学びたいと思います。
 共観福音書は、御霊の働きを人の身体の働きから区別しながらも、病人の人体の「癒し」を「救い」と記述するなど、神の聖霊の「救い」の働きに、人の人体をも含めています。ヨハネ福音書にも、共観福音書と同じに、人間の身体的な命と聖霊の命とを対立させている?とも受け取れる箇所があります(ヨハネ12章25節=マルコ8章35節=マタイ10章39節)。けれども、ヨハネ福音書は、共観福音書に見られないほど、神の御子として遣わされたナザレのイエス様において、神の聖霊のお働きが、人間の身体と密接に関わっていると言われています。ヨハネ福音書では、「未来に」訪れるはずの終末が、すでに「現在の」私たちにおいて実現していると言われるほど、イエス様の御霊の働きが強く現臨しているからです。このことは、ヨハネ福音書のイエス様の言葉、とりわけ以下の二箇所に顕著に表われています。
 「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へ移っている。よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。」(ヨハネ5章24〜25節)〔聖書協会共同訳〕
「私は復活であり、命である。
生きていて私を信じる者は誰も、
決して(永遠に)死ぬことはない。」
(11章25〜26節)〔聖書協会共同訳〕
 ここでは、「死から(永遠の)命へすでに移っている」「今がその時」「(この世で)生きていて(「生きながら}のこと?)」イエス様を信じる者は永遠に死ぬことがない」のように、聖霊の永遠の命が、<すでに現在において>、信じる者に与えられ働いているという印象を受けます。とは言うものの、共観福音書との整合性を意識したのでしょうか、5章24節は「<終末での>体の復活を信じることによって、永遠に生きる<備えをする>こと」〔バルト『ヨハネ福音書』〕だという解釈があります。11章25節は、「信仰者は<地上で死ぬ>としても、より高い窮極の意味での生命を持っている」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕と解釈されていますが、これでは、「より高い」永遠の命を、「この世で」すでに持っているのか?いないのか?はっきりしません。フランシスコ会訳は、11章25節に、「イエス様を信じる者は、この世の命に死んでも、永遠の命に生き続ける」と注をつけています。「生き続ける」永遠の命が死後に始まるのなら、「この世で死んでもあの世で生きる」ことになりますから、「この世の命」と「永遠の命」が、<時期的に>どういう関係にあるのかがはっきりしません。このように、これらの節の解釈には、「意図的な曖昧さ」が見受けられます。
 これに対して、上記のヨハネ福音書は、「永遠の生命」と「自然の生命」とを<同時的に共存させている>という解釈があります〔C・H・ドッド『第四福音書の解釈』〕。24節では、「今、すでに、ここで、地上で、その永遠の命が<始まっている>」と言う解釈です〔蓮見和男『ヨハネによる福音書』〕。イエス様の頃までのユダヤ教では、神の義人は、たとえ死んでも、主なる神の到来の時に復活して、彼がかつて「この世」で生きた生命が、「来たるべき世」においても継続すると信じられていました。ヨハネ5章28〜29節は、ユダヤ教のこの信仰(例えばダニエル書12章2節)を受け継いでいます。ところが、ヨハネ5章24〜25節では、ユダヤ教の義人に授与される「来たるべき世」の永遠の命が、「この世にいる」信仰者へ「移し替えられて」いるのです。その結果、11章25〜26節でのラザロの生き返りにおいても、イエス様の言う「復活」は、この世にあって、すでに身体に起こる「甦り」を表わしていることになります。マルタの想いは、伝統的なユダヤ教の終末での裁きの信仰になっていますが、イエス様は、そのマルタの終末信仰を否定しているのではありません。終末の時を含みつつも、それを、イエス様の居られる今その場と重ね合わせるのです。イエス様が臨在するその場においては、「未来が現在に含まれる」のです。だから、「今ここで」永遠の命が、すでに始まっているのです。ただし、こうなると、それまでのユダヤ教の言う「この世の生命」と「来たるべき生命」との<同質的な>継続が、ヨハネ福音書においては、自然の命と永遠の命との<質的な違い>として認識されることになります〔ドッド『第四福音書の解釈』〕。だから、「永遠の命」は、この世の身体的な命と共存しながらも、質的に見れば、同じではありません。それは、ニュッサのグレゴリオスが「魂の花婿」と呼んだナザレのイエスを通じて啓示される「愛と喜びと平安」(ガラテヤ5章22節)に輝く永遠の生命のことだからです。
 では、この永遠の命と現在の私たちの身体とは、全く無関係なのでしょうか? 5章24〜25節は、身体的に死んだ者のことではなく、この世で<霊的に死んでいる>状態にある一般の人が、その「霊的な死」の状態から「転移され」、<すでに今この世で>永遠の命によって活かされていることです。だから、ラザロへのイエス様の呼び声は、この世にありながら、霊的な命だけでなく、身体の甦りの命をも同時に与えていることになります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。5章25節の「今がその時」は、終末の到来の時の命を「現在に持つ」ことであり、ヨハネ11章のラザロの生き返りは、終末の時に起こる(体の甦りを含む)出来事への予兆です。だから、イエス様は、現在この世で、すでに終末の働きを行なっていると見るのです〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
 こういう不思議な力は、どこから生じるのでしょうか?「宗教する人類」の原罪を赦す絶対恩寵の働きによって初めて、私たちは「無力無心の」有り様へと導かれます。人は、己の原罪を洞察するほどに、無力無心へと誘われ、その行き着くところから、主イエスの赦しの恩寵から発する<途方もない霊能力>を知るようになります。その力は、ナザレのイエス様の十字架の贖いの働きから生じるものです。「まことの霊能」とは、このような霊性から発出する力です。だから、パウロはこう言いました。「罪の自覚が深まるほどに、そこから恩寵がいっそう湧き出るのです」(ローマ5章20節)。そしてこう言いました。「今生きているのは、実は私ではない。私のこの自然のからだにあって、働いておられるのは、復活してキリストとなられたあのナザレのイエス様なのです。神の御子が、この私の罪のために十字架で御自身を犠牲とされた出来事から発する神の働きが、私に生じているのです」(ガラテヤ2章20節)。
〔絶対恩寵の働き〕
 私は先に、ナザレのイエス様の出来事こそ、新約聖書の福音の源泉だと言いました。しかも、その出来事は、不可避的に「躓きと裁き」をもたらすことも指摘しました。では、その躓きと裁きの裏には何が潜んでいるのでしょうか? 今一度、ヨハネ5章24節とその前後に戻ってみましょう。
 5章22節に、「父なる神はすべての裁きを御子に委ねた」とあります。神の創造した大自然に人が接するとき、大自然は人に何も言いません。人を判断することも裁くこともしません。しかし人のほうはそうではありません。大自然に接して、神を信じる者あり信じない者あり、善を求める者あり、自然に背く者ありで、人の自然への反応は千差万別です。大自然は、何も言わず何もしないのに、自ずとこれに接する人の心を明るみに出し、人それぞれは、自分から判断することによって判断されるのです。
 そのように、「ナザレのイエス様の出来事」それ自体は、これに接するすべての者に、どのような判断でも可能にします。しかし、人それぞれは、それぞれ自分自身の判断(裁き)によって、逆に判断されますから、御子を通して神御自身を啓示する「この出来事」が伝えられる時に躓きが生じるのは避けられません。「神の出来事」を判断し理解することが人には<できない>からです。ところが、だんだんとこの出来事に接するうちに、人は、自分が裁き裁かれるところに赦しが働き、自分が躓くところに救いが顕れる不思議を見出すのです。なぜでしょうか? その不思議な力は、ナザレのイエス様の働きから生じるものです。ところが、そのイエス様は、なんと、「アーメン、アーメン、私は自分からは、何もせず、何もできない。ただ父が行なうそのとおりに行なう」(5章19節)と言うのです。絶対無力の神の御子イエスが、十字架にかかり、人類の罪の赦しのための贖いの犠牲となった。これこそが、ナザレのイエス様の出来事が人類に向けて発信する「ほんとうの意義」であると新約聖書は証しするのです。
 いったい何が起こったのでしょうか?「父を離れては、なにもできないのであって、父なる神に従うなら、すべてのことができるのであります。私たちが『自分からは何もすることができない』と言うとき、神において、すべてができるのであります。全能のなんでもおできになる神が、『できない』神になったのです。何と驚くべきことではないでしょうか。まるで何でもできる天才が、『できない』劣等生になったようです。『その完全な自己放棄こそが、彼(神の御子イエス)をゆるぎなく、無限に豊かで、永遠に生きる人格とする』のであります」〔蓮見和男『ヨハネによる福音書』〕。
 こういう事態は、人の躓きと裁きをも克服する「神の恩寵」の働きから生じること、しかもそれが、ナザレのイエス様の十字架の出来事を通じて人類に啓示されたことを新約聖書は証ししています。それは、人間の不義を通じて神の義が啓示され、人間の罪を通じて神の赦しが啓示され、人間の無力を通じて神から人間に与えられる力が啓示され、人間の肉の体を通して、人間に神から授与される霊のからだが啓示されることです。イエス様の十字架に出逢うことで生じる人間の自己否定こそ、最大の自己肯定へ逆転する神の赦しの絶対恩寵の働きです。このような言い方は論理にこだわる人の誤解を招きますが、人には、その罪性を知る時にしか赦しは見えません。弱さを知る時にしか自分の強さが発見できません。肉のからだにすぎないことを悟る時にしか、霊の体は顕れないのです。このような<逆転する赦しの恩寵>の光の下に、「宗教する人」のあらゆる宗教が照らし出されること、これこそが、ナザレのイエス様から発する十字架の恩寵の働きです。人間の罪を逆転させる赦しの絶対恩寵こそ、多様の中の一致を支える柱なのです。 
 神の「絶対恩寵」は、その人に関わる出来事を通じて、人知れず、人に悟られることなく密かに進行し、その時が来ると、人は自分に起こっていた一連の出来事を回顧して、そこに驚くべき神の恩寵を見出すのです。こういう恩寵は、御霊を通じて彼、彼女に啓示されるものです。己の罪性、己のいたらなさ、己の失敗などの出来事を乗り越え、あらゆる苦難を克服して、なおも働き続けるのが神の絶対恩寵です。このことが彼/彼女に啓示される時、人は、「御栄光神にあれ!」と、ただひれ伏してこれを拝し賛美します。だから、絶対恩寵とは、神御自身のことにほかなりません(ヨハネ1章18節/ローマ11章33〜35節)。
【「霊の人」の時代】
 このように、「霊の人」ホモ・スピリトゥスには、イエス様を受け入れたその時から、イエス様の霊性と同じ聖霊の働きが始まると考えられます。キリスト教徒が「新生」と呼ぶのはこのことです。従来のホモ・サピエンスから新たなホモ・スピリトゥスへ「転移する」ことで「生まれ変わる」からです。わたしたちは、救済史を人類史と関連づけることによって初めて、人類のもろもろの宗教が、どのように進化してきたかをみることができます。そこから、キリスト教とほかの宗教との正しいつながりが見えてくると思います。人類史は、猿人から原人へ、原人から旧人へ、旧人から現在のホモ・サピエンスへと、700万年とも言われる長い年月の進化の過程を想い起こさせます。福音的なホモ・スピリトゥスが、人類の進化となんらかの関係があるのかもしれません。進化思想は、かつてのナチスのように、人種の優生思想に陥る恐れがありますが、「神の御手による進化」は、目下、人類が行なっている科学技術や医学的な技術による「人工的な人体への進化技術」と比較対照することができます。神の御手にある霊の人の進化は、むしろ、AIの進歩に伴い、人間の人体それ自体を変容させることで、人類の進化を図る知能的な奢りへの戒めとなり、警告となるものです。「霊人」は、決して他者を犠牲にしたり、他の生物を犠牲にしたりしません。
 神による人類の「救済史」と自然による人類の「進化の歴史」を同一視することはできません。けれども、二千年前のナザレのイエス様の出来事を機に、ホモ・レリギオースゥス(宗教する人類)の素質を具えたホモ・サピエンス(英知の人)に、何か大きな変革が生じたと考えざるをえません。宗教的な救済史と自然科学的な人類史は、相互に関連し合うからです。現在、ホモ・サピエンスは、地球全体を覆い尽くすほどの繁栄の絶頂にありますが、あえて予測するなら、過去のホモ科同様に、何十万年か後には絶滅を免れえないでしょう。しかし、神は、すでに新たなホモ・スピリトゥスを創造しつつあるのではないか。そんな気がします。終末がいつどんな形で訪れるのか知るよしもありませんが、聖書が伝える「新天新地」とは、ホモ・サピエンスの時代が過ぎ去り、ホモ・スピリトゥスの時代が始まる時、新たな「霊の人」の目に映る宇宙の姿のことかもしれません。
〔召天と人格の復活〕
 最期に、先の【A】の項で見たように、新約聖書で預言されている「終末における人類の体のよみがえり」について考察しなければなりません。【A】では、人の霊魂と身体とを分けることで、救われた霊魂は直ちに天国へ、遺された身体は終末での甦りへと、空間的、時間的に区別されています。この二つを併せて初めて完全な「復活」が成就します。
 では、その「復活」は、どのような様態なのでしょう? 私は、聖書に証しされているナザレのイエス様の復活のことしか、想い描くことができません。具体的には、ヨハネ20章14〜17節でのマグダラのマリアへの顕現であり、同19〜23節の弟子たちへの顕現、同26〜28節のトマスへの顕現、ヨハネ21章4〜14節でのガリラヤ湖畔での顕現です。これに、ルカ24章13〜31節のエマオ途上の二人の弟子への顕現を加えてもいいでしょう。さらに、山上でのイエス様の変貌の記事にも目を止める必要があります。エノクとエリヤは、生きている時のそのままの姿で「天にあげられ」ました。このエリヤが、山上の変貌においてイエス様と共に居たとあるのは、偶然ではありません。『第一エノク書』は、イエス様の誕生の前後にわたる長期間の諸文書から成り立っていますが、現在でもエチオピアのキリスト教では正典とされています。
 四福音書の復活顕現を見るとき、イエス様の霊魂と体が分離した復活の様態を想い描くことが、私にはどうしてもできません。そこで証しされているのは、その人が誰であるかを判別できる「姿形(すがたかたち)」であり、その姿形が「イエス固有の人格」を顕していることです。新約聖書は、私たちもまた、イエス様と<同じ>復活の様態へと「変容(メタモルフェー)する」と証言しています。これが、私の想い描くことのできる「復活」の様態です。
 では、それはいったい<何時>起こるのでしょう?ヨハネ福音書で言えば、マグダラのマリアへの顕現はイエス様の在世中の姿であり、弟子たちへの聖霊授与の顕現は昇天以後の姿であり、ガリラヤ湖畔での顕現は、昇天から終末の再臨の間の期間のイエス様の復活様態のことになるのでしょうか? ルカは、イエス様が昇天したと「同じ姿で」終末にも再臨する(使徒言行録1章11節 )と伝えています。復活様態に時間差がないのは、イエス様だからであり、私たち人間には霊魂の昇天と体の復活の間に時間差があるのでしょうか?しかし、ナザレのイエス様は、神の霊性を有しながらも、私たちと「同じ人間」になられたのです!私たちはここで、「終末と時間」という難しい問題に直面します。「終末」は宗教的な「時」を意味し、「時間」は物理的な概念ですから、ここでは、救済史の「霊の人」と人類史的な「自然の人」とが出逢うことになります。宗教と自然科学の両方を橋渡しするのは哲学しかありません。幸い、私たちには、こういう「心霊の事実」を扱った西田哲学があります。
「我々の自己は、単に物質の如く、空間的に働く所にあるのでもない、また単に非空間的にすなわち時間的に、いわゆる精神的に、意識作用的に働く所にあるのでもない。どこまでも時間空間の矛盾的自己同一に、絶対現在の自己限定として創造的に働く所にあるのである。いわゆる時間空間の矛盾的自己同一に、絶対現在の自己限定として創造的に働く所に在るのである。」〔「場所的論理と宗教的世界観」(1946年)〕〔西田幾多郎『西田哲学選集』第三巻:宗教哲学論集:上田閑照監修:灯影社(2001年)〕
 現在の物理学では、わたしたちが通常考えている「空間」概念は、もはや通用しないことが知られています。わたしたちが見たり考えたりしている空間も時間も、宇宙の実態とは異なる「映像」に過ぎません。マイケル・ヘラーは、物理学者であり、哲学者であり、カトリックの司祭ですが、彼は、「遠く離れた所に存在すると見える二つの粒子は、空間を超える非局所性の世界で動き回っているために、そこでは、時間も空間も問題にはならない」と述べています〔ジョージ・マッサー著/吉田三知世訳『宇宙の果てまで離れていても、つながっている:量子の非局所性から「空間のない最新宇宙蔵」へ』インターシフト(2019年)268頁〕。そもそも、ビッグバンによる時空を具えた宇宙の誕生そのものが、空間も時間も存在しない「神のいるところ?」から出現したものであり、そこでは、生命が存在しない宇宙から生命が誕生したのと同じような空間創造への転移が生じたのだというのです〔前掲書310〜11頁〕。
 これを私なりに分かりやすく言えば、現在の私たちがいただく聖餐は、イエス様が過去に最期の晩餐の席で弟子たちに授与されたイエス様の「体と命(血)」でありながら、私たちは、これを「現在の出来事」として受け取ります。だからこそ、聖餐のパンとぶどう酒を通じて、現在の私たちの体と心霊が、復活して現臨するイエス様の霊性に与ることができるのです。しかも、この聖餐は、私たちが「終わりの日に復活する」時をも顕します(ヨハネ6章54節)。だから、聖餐の時間にあっては、過去(最後の晩餐)と未来(終末の再臨)とが、現在(聖餐を受ける私たち)において、一つになります。西田哲学では、宗教的な時と自然科学の時間との区別がしかも、ありません。そもそも「時間」とは、過去も未来も、「現在の場」として実在するものだからです。私たちは、この意味での「現在」を生きながら、<同時に>過去と未来を生きていることになります。ところで、「過去・現在・未来一如」のこのような聖餐の場は、量子物理学で言う「素粒子」の世界にも通じるところがあるのでしょうか?
 ダンテの『神曲』では、人が死ぬと、ある者は地獄へ、ある者は天国へ、ある者はその中間の煉獄(ここは、この世での人の霊性のことか)へと千差万別に分かれます。しかも、地獄では、その人のその時の霊性のままで刑罰を受けながら終末を待っています。言い換えると、過去、現在、未来にわたる人類は、個人の死のその時に、その人の霊性が、その人固有の姿形を帯びた様態として「永遠に」確定されるのです。ある者はその場からイエス・キリストと共に居る天国へ直結し、ある者は終末の裁きの場に直結します。個人の死から終末の全人類の甦りまでに介在している「時間的な違い」は、肉体の死後の時空を超える世界のことですから、この世にいるわたしたちが思い描くことが難しいようです。
 ヨハネ黙示録の場合を考えてみましょう。新約聖書には、終末は何時起こるのか誰にも分からないとあります。だから終末は、今日(2019年4月4日)の夕方にも起こるかもしれません。そうなれば、ヨハネ黙示録に書かれてあるすべての出来事は、今日の夕方までに<すでに起こっていた>ことが啓示されるのです。黙示録の出来事を〔A〕のように図式化して説明することもできます。それは、天文学者が、ある惑星か星座の運行を予測して、これを図式的に言い表わすことができるのと同様です。
 2019年4月に、太陽系のある天の川銀河から5万9000光年離れた所にあるM87という銀河の中心に存在するブラック・ホールの映像が世界中に公開されました。この観測は、2017年4月5日から10日間、アメリカを中心に6箇所の望遠鏡で同時にとらえた電波を解析して得たもので、2018年10月に、ハーバード大学で、観測に携わった学者たち(日本人を含む)によって、最終の映像へと構成されました。この天文学者たちの映像は、およそ5万7千年も<以前の>過去の光を<現在に>おいて観測したものです。しかも、今は故人となったアインシュタインは、ブラック・ホールの存在を既に予告していました。彼は、現在私たちが見ている映像を<その時>すでに見ていたのです。ここの科学者たちのように、人は、永遠の過去から永遠の未来にいたるまでを<常に現在において>体験しているのです。ブラック・ホールの現象では、<時間も空間も>歪んでいると言います。
 だから、現在の私に言えることは、かつてのナザレのイエス様の霊性が、罪人である私の現在に絶対恩寵として宿り、この私の場で形成されるイエス・キリストにある私の霊性は、私の身体がこの世から無くなっても、そのまま永遠に変わることがなく、終末にいたるということです。終末が来るのは、今日か明日か長い将来のことか知るよしもありませんが、そのような頭の中での想念ではなく、「霊の人」の実体験としては、過去から未来への全人類は、それぞれ人が死を迎えるその「時の場」で、その人固有の「姿形を具えた人格体」が永遠に定まり、終末の裁きに面することになるのではないでしょうか。この場合、天国への空間移動と終末への時間移動が、どこまで実体験できるのか?今のこの世にいる私たちがこれを見分けるのは、本質的に不可能でしょう。
 私の「霊の人」と「永遠の命」との関係は、基本的には「三位一体の~観」に根ざすもので、古風で人を躓かせる要因を具えています。しかし、人への躓きと裁きを逆転させる「絶対恩寵」こそ、ナザレのイエス様の出来事であるというのが、私の信条です。私は、「ホモ・スピリトゥス」を神の救済史と人類の歴史的な進化と、その両方にまたがる意味で用いています。この両方を同一視することはできませんが、ホモ・スピリトゥスが、今後どのような展開を見せるにせよ、この二つの領域が相互に関わり合うことになるとしか、私には言うことができません。したがって、私の聖書解釈は、旧約聖書と旧新約中間期でのメシア預言と復活信仰の成就という視野から新約聖書を読み解こうとするものです。
                      時事告刻へ