救済史と人類史
(2019年4月23日)
   聖書によれば、神のご計画によって、人類は、その終末において、イエス・キリストの再臨に際して、個々の人が「霊の体」を具えた「霊の人」に変容するか、それとも神の怒りの火で焼かれて心身共に滅び去るか、「恩寵」か「裁き」か、そのどちらかを受けることになるとあります。これを人類の「救済史」と言います。これに対して、考古学や文化人類学などの科学的な視野から見る「人類史」があります。救済史と人類史は、相互に関連しています。両者の関係を否定する人たちもいますが、その人たちは、関係を否定するのではなく、そもそも、救済史そのものが存在することを信じないで否定するのです。しかし、どんなに否定しても、現実に救済史を信じている人たちが20億以上も存在していて、その数は、減るどころか増え続けています。人類は、「言葉を語る人」、「食べる人」、「学ぶ人」などと同じように、その本性において「宗教する人」だからです。
   救済史は、人類が、死んで「この世」から「あの世」へ移った後で起こることだから、この世の人類史と直接関係が無い。こう思う人がいるかもしれません。ところが、聖書の神は、三位一体ですから、人類を創造された父なる神と、かつて地上に居られた人である神の御子ナザレのイエス様と、父と御子を通じて今の時にも私たちに働きかけておられる聖霊と、三~一体です。三つのペルソナが、互いのペルソナの交わりにおいて一つになるというこういう神の有り様を「三間一和」と言います。三位一体で三間一和の交わりにある聖霊は、「現在この世に居る」私たちの知性や心霊だけでなく、異言や病気癒しなどの様々な身体的な働きかけを通じて、神の御臨在を人々に証ししておられます。だから、救済史は人類史と関係ないどころか、救済史を抜きにして、ほんとうの人類史を語ることができません。ホモ・サピエンスとしての人類の宗教と人類史との関わりについて、京都大学学長の山極寿一氏と同志社大学神学部教授の小原克博氏との対談があります〔山極寿一/小原克博『人類の起源、宗教の誕生:ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』平凡社新書913(2019年)〕。わたしたちは、救済史を人類史と関連づけることによって初めて、人類のもろもろの宗教が、どのように進化してきたかをみることができます。そこから、キリスト教とほかの宗教との正しいつながりが見えてくると思います。人類史は、猿人から原人へ、原人から旧人へ、旧人から現在のホモ・サピエンスへと、700万年とも言われる長い年月の進化の過程を想い起こさせます。福音的なホモ・スピリトゥスが、人類の進化となんらかの関係があるのかもしれませんが、この点は、進化の具体的な出来事がまだよく分かっていないので、なんとも言えません。進化思想は、かつてのナチスのように、人種の優生思想に道を開く恐れがありますが、「神の御手による進化」は、目下、人類が行なっている科学技術や医学的な技術による「人工的な人体への進化技術」と比較対照することができます。神の御手にある霊の人の進化は、むしろ、AIの進歩に伴い、人間の人体それ自体を変容させることで、人類の進化を図る知能的な奢りへの戒めとなり、警告となるものです。「霊人」は、決して他者を犠牲にしたり、他の生物を犠牲にしたりしません。救済史的に見るなら、これから、アジアにおいて、新たなイエス・キリストの福音が啓示される時代が始まると期待されます。私たち日本人は、今、こういう大事な岐路に立たされています。終末の到来までに「福音が全世界に宣べ伝えられる」とありますから、これからは、アジアのキリスト教の時代が始まろうとしているのです。東アジアのキリスト教は、知力と霊的な素質を具えた日本の民から始まる。私はこのような信仰を抱いています。
                       時事告刻へ