西田哲学とキリスト教
引用と覚え書き
(2019年7月18日)
 これは、西田哲学とキリスト教についての、私なりの引用と覚え書きである。以下の西田幾多郎の論文からの引用は、すべて『西田哲学選集』第三巻:宗教哲学論集:上田閑照監修:灯影社(2001年)からである。
■京都学派の今日的意義
「戦後は、京都学派の「戦争協力」への批判のみが、ずっとなされてきた。しかし、京都学派は、日中事変が「植民地戦争」になってはいけないと繰り返し発言していた。それにもかかわらず、太平洋戦争中の「協力」が、「体制内反体制」の協力だったことは知られていなかった。・・・・・世界史をヨーロッパ中心の普遍史として捉えず、各文化圏がすなわち世界的な歴史の集積であるとする京都学派の見方は、今日のグローバリズムに処する上での原理的な洞察を提示するであろう。」
      〔大橋良介『京都学派と日本海軍』〕
「戦後の日本では、西田幾多郎や田辺元のように、東洋と西洋を統合し、新しい独自の哲学体系を打ち立てようという気概が失われた。梅原猛によると、戦後の愚かな社会で、哲学者たちは、文献学中心に、西洋哲学の解説・紹介という、タコつぼ的な仕事に自らを限定してきた。現実社会の問題に発言することもほとんどなくなった。「生きるべきか、死ぬべきかを問うのが哲学のはずだ。人間とは何か、世界とは何かを真剣に、かつ深く思索し、人類はこうあるべきだという自らの考えを示す姿勢が大切なのである。西田にはそれがあった。」
     〔「京都学派の未来」『朝日新聞』(2003年2月15日号)〕
■西田哲学とキリスト教
 西田幾多郎は、少なくともウィリアム・ジェイムズが「説明」しようとした「心霊的な出来事」を真正面から見据えて、これを解き明かそうとしている。西田の「論証」が成功しているかどうかはわたしには判断できないが、彼がこの問題を説明しようとしていることは間違いない。しかも、論文「場所的論理と宗教的世界観」に見る西田の「説明」は、わたしには、ほかのどのような神学的、心理学的、社会学的な説明よりも、癒しの問題や異言の問題やその他の聖霊体験をよく「説明」してくれると思う。西田において「心霊の事実」としての「実在とか実在の世界と言う時には、そこには心とか霊が身体と物質と一体であること、つまり、両者が不可分離に存していると考えられている」。わたしは、いまだかつて、西田哲学以上の解説や説明を日本の内外の聖書注解や日本や外国からの伝道者たちの口から聞いたことがない。聖書の言葉それ自体を信じることによって、異言や癒しが現実に生じることを伝えたり証しする伝道者たちは多く、わたしもそのような体験をしたり神癒が実際に生じるのをしばしば見てきた。現在でも、我が国の内外の伝道者や牧師たちによって、異言や神癒やその他の聖霊体験が行なわれている。だが、そのような聖霊の出来事をだれひとり納得のいく言葉で「説明」してくれる人に出会ったことがない。
 これは日本に限らず、欧米を見渡してもいないのではないか。西田のこの論文は、まさにそのことをわたしにしてくれる。「我とは、絶対無の場で成立する存在である。そこでは、我が、人間の内在の根底において、聖霊論的特長を帯びる」〔上田閑照『私とは何か』〕のである。鈴木大拙は、西田幾多郎に「超越的内在」よりも「内在的超越」を基本とするように勧めた。「内在的超越」とは、「我々の自己は個人的意志の突端において絶対者に対する」という場の視野であり、それは、「自己否定的に神を見る」方向のことである。「内在即超越、超越即内在、絶対矛盾」という自己同一において自己というものはある」〔「場所的論理と宗教的世界観」〕とは、このことである。
「単に超越的に自己満足的なる神は真の神ではなかろう。一面にまたどこまでもケノシス的でもなければならない。どこまでも超越的なるとともにどこまでも内在的、どこまでも内在的なるとともにどこまでも超越的なる神こそ、真に弁証法的なる神であろう。真の絶対ということができる。神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神に本質的なものでなければならない。」
      〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「父なる神を超越の極とすれば、聖霊は内在の極である。絶対的に超越的な神が、絶対的に内在的であり、創造された世界において、神が、絶対的自己否定的に内在し、世界の中で、逆対応的に遍く神に出会う意味が含まれる。このような神との出会いの経験を『自己否定において神を見る』〔「場所的論理と宗教的世界観」〕方向に徹底して、これに客観的表現を与えることが聖霊神学の課題である。」 
     〔小野寺功著『大地の神学:聖霊論』行路社(1992年)〕
「カトリックの宗教哲学者であった吉満義彦が常に強調していたように、キリスト教はその本質において『超越的内在』の立場をとり、その究極の原理は、天の、あるいは聖書の、教会の啓示を伝える論理として三位一体論に帰着するものをもっている。これに反して、西田哲学は、大乗仏教の自覚につながるものとして、『内在的超越』を原理とし、論理的には、絶対矛盾的自己同一の構造をもち、絶対無の場所が究極の根拠である。これまで日本の多くの思想家は、この両者を相対立し相排斥する方向でのみ思索することに腐心してきた。しかし西田自身は、自らの立場を堅持しつつも、事実に忠実な鋭敏な真理感覚から、晩年ついに自己の立場を『場所的論理的神学』と呼ぶにいたり、絶対矛盾的自己同一の論理をキリスト教的三位一体の論理と結びつけて論ずるまでに接近している。」
       〔小野寺功『大地の神学:聖霊論』行路社(1992年)〕。
「西洋、東洋を問わず事柄として現代のわれわれにとって、これまでの三位一体論、あるいは聖霊論が、理解困難であり、思想として不明瞭であり、不徹底ではないかという問題がある。西欧的二元論を霊の場としての無の思想において超えようとする試みがなされなければならない。そのような、いわば土着化の課題として「無の場」としての聖霊論がある。しかし、それだけでなく、三位一体の中に絶対無即絶対有の全一性が確保されることにより、キリスト教的認識は東洋的性格をも抱擁して一段と深まりをみせ、東西の出会いに決定的に貢献することになるはずである。三にして一というような、我々の分析的思惟からは首肯しがたい事態を、根拠付け、納得せしめるのは、「絶対無」の場所的論理なのである。」
〔小野寺功『聖霊の神学』「三位一体の無と西田哲学と聖霊」『日本の神学』43号書評をも参照〕。
■主語に対する述語的な「我」
 通常わたしたちは、全宇宙という広大無辺の「主体」のほうに目を向けるのであるが、これを逆にして、「わたし」という一点から宇宙を見るならば、言い換えると世界の歴史に存在する「わたし」という存在を自分の意識の中から洞察するならば、全世界/宇宙に存在するあらゆる要素が統合されて、世界がこの自己という一点に焦点を造りだしていることが洞察される。言わば自分という存在は、全宇宙の場所的で時間的なひとつの焦点であり、世界が主体/主語であり、自己はこれに従属する述語である。西田はこれを逆にして、自己という述語の立場から世界という主語との関わりを観るのである。したがって、その述語は、その主語に潜む無限の固有性のひとつとして、それ自体の固有性を発揮することになる。このようにして述語は、無限の可能性を秘めた主体/主語それ自身の固有性によって規定されつつ、同時に逆に主語を規定していく。このようにして、時間的空間的に限定された述語である「わたし」は、時間的にも空間的にも限定されないキリストの霊法を指し示す指標となる。西田の言う「記号的」とは、この意味であろう。「故に宗教的教義は、何処までも象徴的でなければならない。而してそれは我々の歴史的生命の直接的な自己表現であるのである。その限り、象徴が宗教的意義を有するのである」〔「場所的論理と宗教的世界観」〕。
 「一体、物があるということは如何なる義であるか。アリストテレスは主語となって述語とならないもの、即ち個物を真の実在といった。ライブニッツ的にいえば、それは主語において無限の述語を含むと言うことであろう。・・・・・我々の自己とは、先ず自己自身の述語となるものでなければならない、否、自己自身について述語するものでなければならない、自己自身を表現するもの即ち自覚するものでなければならない。」
     〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「全体的一と個物的多との矛盾的自己同一的なる歴史的世界は、何処までも自己表現的である。何処までも自己否定的に、記号的にまでも、自己自身を表現する。述語面的である。斯く記号的自己表現的世界、すなわち判断的に自己自身を限定する世界においては、その自己肯定的に自己自身を限定し行く方向が、主語的と考えられ、これに反し、その自己否定的に自己自身を表現する方向が、述語的と考えられる。主語的なるものからいえば、述語的なるものは従属的と考えられる。述語的なるものは、それ自身によって独立的なるものでなく、単に主語的なるものについていわれるものと考えられる。・・・・・しかし斯く自己否定的に自己自身を表現し自己肯定的に自己自身を形成する、矛盾的自己同一的世界は、全体的一の自己否定的多として空間的、個物的多の自己否定的一として時間的である(時間と空間とは、固(もと)、独立の形式ではなく、場所的自己限定の両方向に過ぎない)。而して作られたものから作るものへと、場所が場所自身を限定する、形が形自身を形成するのである。」
       〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「我々の自己は、単に物質の如く、空間的に働く所にあるのでもない、また単に非空間的にすなわち時間的に、いわゆる精神的に、意識作用的に働く所にあるのでもない。どこまでも時間空間の矛盾的自己同一に、絶対現在の自己限定として創造的に働く所にあるのである。いわゆる時間空間の矛盾的自己同一に、絶対現在の自己限定として創造的に働く所に在るのである。」
      〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「絶対矛盾的自己同一としての絶対現在的世界は、どこまでも自己の中に自己を映す。自己の中に自己焦点を有つ。かかる動的焦点を中軸として、どこまでも自己自身を形成して行く。ここに父なる神と子と聖霊との三位一体的関係を見ることができる。」
     〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
 西田は、このように、主語から述語への働きかけを逆にして、述語から主語への働きかけ、あるいは主語によって与えられる固有の主体性によって、今度は述語が主語に働きかけるという関係を読み取っている。「我々の意識的自己の自覚的世界というのは、自己の中に世界の一焦点を含み、自己自身を限定する一つの世界として、歴史的世界の一つの自己表現面ということができる。・・・・・判断作用的立場からいえば、何処までも自己の中に主語的自己限定を含む述語面的有である。アリストテレスの何処までも主語となって述語とならない主語的有に対して、何処までも述語となって主語とならない述語的有ということができる」〔「場所的論理と宗教的世界観」〕。
 主体と客体あるいは主観と客観の関係を主語と述語の関係として把握する仕方は、彼の言う「場所的論理」の認識の仕方にある。ウィリアム・ジェイムズは、エディンバラ大学で、キリスト信者の間で生じる病気の癒しに注目して、そのような現象がなぜ生じるのかについて説明しようと試みた。それは、当時の神学が説明できないことだったからである。「当時」のというよりは、現在でも同じである。現代の神学は、なぜ癒しが起きるのか、なぜ異言や預言のような現象が生じるのかを神学的に説明してくれない。異言や預言や癒しを完全に無視するか、あるいはそのような現象がありえることをかろうじて認めてはいても、これらの「事実」についての「論理」は愚か「説明」さえもない。というよりも説明「できない」のである。だから、祈るとなぜ病気が治るのかを今の神学は問題としてとりあげることができないし、その気もない。少なくとも西田幾多郎の思想は、こういう問題と真剣に取り組むための足がかりを与えてくれることをわたしは直覚するのである。
■相対と絶対
「私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、すなわち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰り返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もしも然(しか)らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。どこまでも与えられたものは作られたものとして、すなわち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。」
     〔「絶対矛盾的自己同一」(1939年)〕
「我々の自己は神の絶対的自己否定の肯定として成立する、それが真の創造ということである。真の絶対者は単に自己の対(つい)を絶するものではない。それならば単に絶対否定的なるもの、逆に相対的なるものたるを免れない。真の絶対者とは、自己自身に於いて、絶対の自己否定に面するものでなければならない。自己自身の中に絶対否定を包むものでなければならない。」
     〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「如何なる意味において、絶対が真の絶対であるのか。絶対は、無に対することによって、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによって絶対の有であるのである。・・・・・単なる無は、自己に対するものでもない。自己に対するものは、自己を否定するものでなければならない。自己を否定するものは、何らかの意味において自己と根を同じくするものでなければならない。全然自己と無関係なるものは、自己を否定するともいわれないのである。・・・・・自己の外に自己を否定するもの、自己の対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。」
     〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「相対的なるものが、絶対的なるものに対するということが、死である。我々の自己が神に対(たい)する時に、死である。イザヤが神を見た時、『禍なるかな、我滅びなん、我は穢れたる唇のものにて、穢れたる民の真中に住むものなるに、我眼は万軍の主なる王を見たればなり』といっている。相対的なるものが絶対者に<対する>とはいえない。また相対に<対する>絶対は絶対ではない。それ自身また相対者である。相対的存在が絶対者に<対する>という時、そこに死がなければならない。それは無となることでなければならない。」
     〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「絶対矛盾的自己同一的世界は、自己否定的に、どこまでも自己に於いて自己を表現すると共に、否定の否定として自己肯定的に、どこまでも自己に於いて自己自身を形成する、すなわち創造的である。」
     〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「故に私の場所的有として絶対矛盾的自己同一的世界というのは、流出的世界でもない、単に生産的世界でもない。また私を曲解する人の言う如き知的直観の世界ではない。どこまでも個の働く世界である。作られたものから作るものへと、人格的自己の世界である。」     〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
「自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無となるということでなければならない。自己が絶対的無とならざるかぎり、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むとはいわれない。・・・・・故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此の如き意味において、絶対矛盾的自己同一でなければならない。我々が神というものを理論的に表現する時、斯くいうのほかにない。」
     〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
 絶対性とはそれ自体の中に自己否定を含むものでなければならない。自己否定を含まないものは、ことごとく相対的である。それゆえに、相対性は絶対性によって「死ななければならない」。これこそ、聖書の言葉を正しく開示する鍵である。自己否定とは、空間的だけではなく、時間的な相のもとに動くことを意味する。わたしにとっては、自己の体験を的確に「説明」してくれるかどうかが大事なのであって、論証の仕方やその論証の根拠を哲学的な観点から分析したり、その論理が的確かどうかを判断することではない。西田哲学においては、主語の絶対性は、超在すると同時にその絶対性を自己否定するものとして述語の内に内在する。「創造者としての神あって創造物としての世界あり、逆に創造物としての世界あって神があると考える」〔「場所的論理と宗教的世界観」〕のである。
 このように考えることは、「神を絶対的超越と考えるバルトなどの考えに悖るかもしれない」と西田は言う。しかし「絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ」のである。だから述語に内在する絶対性は、今度は逆に主語を規定するものとして創造的に自己を表現する。キリストの霊性の絶対性は、もろもろの相対的な固有性が、その固有性を成り立たせているキリストへと、さらにその上の神へと、逆に規定していく働きをすることになるのであろう。ルネサンスのネオプラトニズムの思想家フィチーノにあっては、神霊が人間の魂の内へと流出し浸透するが、それはまた神へ向かって逆流/還流するという関係が成り立つ。フィチーノのこの思想が、キリスト教化したプラトニズムなのか、それともプラントン的なキリスト教なのかということがしばしば論じられるが、キリスト教と西田幾多郎の思想との関係にもこういう問題点が指摘されるのかもしれない。
 少なくとも、パウロのテキストから、と言うより新約聖書のテキストからは、このような逆流あるいは還流は露わにはならない。おそらくこの辺りに、西田哲学とキリストの御霊との重要な接点が潜んでいるのであろう。ともあれ、わたしには西田の思想が、いわゆる狭義の哲学ではなく、人間存在のみならず自然界の現象をも射程に収めた「説明」を与えてくれると思われる。「かかる世界は、主観的世界ではない。私が『物理の世界』において論じた如く、物理的世界と考えられるものが、既に絶対矛盾的自己同一的たる歴史的世界の一面として考えられねばならないのである」〔「場所的論理と宗教的世界観」〕。
■宗教する人
「神と人間との対立は、どこまでも逆対応的である。故に我々の宗教心というのは、我々の自己から起こるものではなくして、神または仏の呼び声である。・・・・・アウグスティヌスは、『告白』の初めに、『汝は我々を汝に向けて作り給い、我々の心は汝の中に休らうまで安んじない』と言う。」
       〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
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