個人の自由と現代
                         横浜聖霊キリスト教会
                       (2019年11月10日)
■個人の自由の崩壊
  パトリック・デニーン(米政治学者:1964年。米ノートルダム大学教授)は、現代の個人の自由も人権も民主主義も、今や崩壊の危機に瀕していると指摘しています(『朝日新聞』2019年9月19日号)。「個人」とは、「私(わたくし)」(プライベート)と「公(おおやけ)」(パブリック)の両方を含む人間存在のことです。「公(おおやけ)
」の共同体は、「私人」の自由を制限することによって成り立ちます。現代は、「私人の自由を強調」することで、インターネットの普及にもかかわらず、共同体の中にいるはずの「個人」が「孤人」になっている。こういうことが世界的な現象になっています。「公(おおやけ)」による「私人」への制限が、「国家権力」によるのか、「宗教的権威」によるのか、「伝統と文化」によるのか、これによって「個人」とその「自由」の内容が異なってくることに注意してください。国家主義か(中国)、民族の伝統文化主義か(イギリス)、特定の宗教主導か(アラブ)です。アメリカの場合は、「公」がほとんど「私(わたくし)」に近く、税制も、銃規制も性道徳も麻薬も移民受け容れでも、様々な点で共同体が崩壊する様相を呈しています。
■戦後日本の「公」
 戦後の日本には、三つの「公」がありました。一つは、主権在民の憲法で、国民一人一人の人権を重んじる平和憲法が保証する「公」で、これは、「市民社会の公」と呼ばれました。もう一つは、共産党という政党が主導する「人民」による「社会」が保証する「社会主義的な公」です。さらにもう一つ、戦後の日本を実質的に支配してきた「公」があります。それは「会社」という経済的な「公」です。大企業同士が提携する「企業社会」こそが「公」であり、これは「資本主義的な公」です。憲法と社会主義と大企業による資本主義、これに対して、現在の自民党は、神道を背景にした「国家主義」の「公」を再興させようとしていますから、何と全部で四つの「公」が今の日本人の「個人」とかかわっています。これが令和の「世間」の実態です。 わたしたちは、日本人の「個人」をどのように方向づければいいのでしょうか?
ちなみに、このように、「私」をX軸とし、「公」をY軸として、「個人」の立ち位置を推し量る方法を「知の座標」(intellectual frame of reference)と言います。世界的な現象として、現代の若い人たちは、この「知の座標」を見出すことができないのです。
■理想の個性
 ここで西田哲学による「個人」について語らせていただきます。西田幾多郎の『善の研究』第3編第9章:善(活動説)には、「善とは理想の実現」だとあり、その「理想は要するに自己其の者の性質より起こる」とあります。これが「自らに由る」こと、すなわち「自由」の意味です。「善とは自己の発展完成self-realizationである」〔西田前掲書〕とありますから、西田によれば「人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善」であり、「人間が人間の本性を現じた時は美の頂点に達する」ことになります〔西田前掲書〕。
  「自由」には、苦しみ悩み「からの自由」(free from...)と、理想を追求する自由(free to...)のふたとおりがあり、表裏一体です。実は、このほかに、現代では「できるのにしない自由」(free not to...)が加わります。理想の「個人の自由」とは、「しなくてもいい自由」のことではなく、スポーツの選手のように、何かに没頭する(できる)「する自由」のことなのです。教会へ「行かない」自由は、教会へ自ら進んで「行く」自由のためにどうしても必要だからです。ただし、一つだけ、「する」と「しない」二つの自由の関係が逆になる場合があります。それは、「離婚」の場合です。「離婚する」自由は、二人が心を合わせて「離婚しない」ために努力する自由のためにどうしても必要だからです。このように、個人の自由とは、自己の理想を目指してどこまでも歩む「自由」のことです。「自己実現」とは、現代では、自分の願望を叶えることを意味しますが、もとの意味は全く異なるもので、西田の言う「自己実現」は「円満なる発達を遂げる」ことです。若松英輔(えいすけ)氏(東京工業大教授)は、ここで西田が言う「円満」とは「完全」と同じ意味だと解説しています〔若松英輔『善の研究』NHKテキスト(2019年)61頁〕。それは「知と愛、内なる叡智と自他を超えた愛の顕現」〔若松前掲書〕を目指すことです。これは、私(私市)の言う意味の「霊的個性」に近いです。西田は、この「自己完成」こそ、アウグスティヌスやデカルトが「根本に立ち返って考えた」真理であると述べています〔西田『善の研究』第3編第9章〕。ところで、西田が言う「自己」を道元は「仏性」と呼び、仏法によって開花させられた仏性を生きることが、道元にとって最高の「善」でした〔若松前掲書63頁〕。ただし、親鸞の『歎異抄』で説かれているひたすら念仏を唱えることで、仏の大慈悲に抱かれる自己のほうが、わたしの言う霊的個性に近いです。
■無私なる個人
 佐伯惠思氏は、このような西田の「自己」について、今こそ西洋と異なる「日本独自の」思想を打ち出さなければならないと述べて〔『朝日新聞』2016年6月3日号:佐伯啓思(けいし)〕、彼は次のように言います。人は「私(わたくし)」を「無」にし、「私」を空しくすることで初めて「本もの」(西田の言う「真実」)へ接近できる。その「真(まこと)の自己」は、言葉では把握できない。このためには、「自我」や「私」にとらわれていてはだめで、「無私」にならなければならないと氏は言います。ところが、佐伯氏は、こういう「無私の個人」は、「我(われ)」という確固たる「主体」を前提に、その「主体」が世界や自然を客観的に記述し、さらにそれを操作して変化させようという西洋の思想と対極にあると言うのです〔佐伯前掲書〕。
 けれども、先に指摘したように、今や、こういう「無私の個人」こそ、西田が指摘するように、日本だけでなく、世界中から求められている「自己」の有り様なのです。今、アメリカで若者に人気のあるジョージタウン大学のサム・ポトリッキオは、「これからの世界で、リーダーシップを採るのは日本である」と言います。日本の若者の大きな和を創り出す「大和(やまと)の心」こそ、世界を導くリーダーシップにふさわしいと見ているようです。しかし、彼は、日本では「そのために必要な自信と意欲を持つ若者が少なすぎる」とも言うのです〔『ニューズウィーク』34(2019年6月号)〕。
■イエス様という「個人」
 イエス様は一人の「個人」です。イエス様はご自分のことを「人の子」と呼びましたが、これは、「私(わたくし)」一人のことだけではなく、神の国共同体の交わりにある「公(おおやけ)」の人でもあることを指します。イエス様は、こういう「個人」を人類に啓示されたのです。これが、新約聖書が証しする「イエス様」です。なぜ、それが2千年も前の遠いパレスチナの人なのか?人間は誰でも、どこかの国に何時か生まれますから、当たり前です。そうでなければ「人間」ではなくて、ゼウスやアマテラスのような神話の人物になります。ナザレのイエス様は、これだけでも人が信じられないほどの躓きになりますが、このイエス様が、こともあろうに最も屈辱的な十字架刑に処せられたのですから、これを聞いた人が、「ナザレのイエス様」に躓くのは当然です。
 イエス様のこの十字架が、人間の罪業を赦し浄めるための犠牲の十字架であること、十字架には、このような祭儀的な意義がこめられていることを明確に証ししたのは使徒パウロです。パウロは、これを「未だ人類が見たこと聞いたこともない出来事」だと言い、その上で、イエス様の十字架の出来事は、人間の知恵ではとうてい信じることができないことであって、ただただ、神から授与される「神の知恵」によらなければ、人にはとうてい信じられないと明言しています(第一コリント1章18〜25節)。
  神は、どうしてこんな不可解な「躓きの十字架」の出来事を人類に啓示されたのでしょうか? それは、イエス様を通じて啓示される「神」とは、人間の知能や能力では絶対に理解できない「出来事を実現なさる方」だからです。神の「言(こと)」は神の「事(こと)」です。神によるイエス様の十字架の出来事は、人が、その知能や能力は言うに及ばず、人のいわゆる「宗教的信念」でもとうてい達することができないことを悟り、己の無力と無知に目覚めるためです(パウロが言う「人間が行なう律法の業によらない信仰」とはこの意味です)。それは、「あなたがたの信仰が、人間の知恵から発するものではないことを悟り、ひたすら<神からの働きかけ>から生じていると知るためです」(第一コリント2章5節)。こういう働きかけこそ、十字架の死から復活されたイエス・キリストの「聖霊」のお働きです。この時に生じるのが、異言であり、癒やしであり、その他もろもろの霊能現象です。だから人は、聖霊のお働きを通して、己の賢さや己の宗教心や己の霊能などが、いっさい無力であることを悟り無心にされることによって初めて、イエス様の父なる神を知る、あるいは神に「知られる」者となるのです。このことを忘れると、せっかくの霊能がおかしな方へ向かって、他者への批判や分裂を引き起こすことになります。
■愛光無心
  ヨハネ福音書が証しするとおり(ヨハネ8章)、イエス様の時代のユダヤ人たち、とりわけ、最も優れた「宗教する人」であるはずのユダヤ教の指導者たちさえも、イエス様に躓きました。ただし、これは二千年前のことだけではありません。令和の日本のクリスチャンたち、と言うよりも、世界中のキリスト教会のクリスチャンたちにも、イエス様の十字架のまことの意義を悟って、イエス様の御霊のお働きを受け入れて己が無にされ、自己流の信仰心や知恵や、超能力の霊能などにうぬぼれることなく、謙虚にされることが求められています。「今、自分の身体にあって生きているのは、自分ではなくて、イエス・キリストとなられたあの<ナザレのイエス様>である」(ガラテヤ2章20節)ことを悟ることです。自我が取り除かれて、ただ「イエス様に出会う」その時に初めて、イエス様の愛と喜びと平安がその人に啓示されます(ガラテヤ5章22節)。
 今、わたしたちに与えられているのは、2000年前にパレスチナを歩まれた方と寸分違わない正真正銘の「ナザレのイエス様」のパラクレートスです。このイエス様が、個人に宿るときに、その「自我」は解消されて、「無私の人」にさせられるその時こそ、イエス様のエクレシアのメンバーとしてふさわしいその人の「個性」が発揮されます。クリスチャン同士の霊交(コイノニア)はここからしか啓けません。「霊風無心」「愛光無心」です。人と人とが出会うところに生じる「まことの交わり」とは、こういうものです。ヨハネ福音書もパウロ書簡も、西田幾多郎の『善の研究』も、このような「個性の自由」が霊現する出来事を伝えようとしているのです(西田幾多郎『善の研究』第三篇十二章)〔若松英輔『善の研究:西田幾多郎』NHKテキスト65〜66頁〕。
■福音的な「個人」 
  イエス様の御霊にある自由と一致が成り立つためには、イエス様の新しい戒めである「互いに愛し合う」ことが必須です。この愛は、個人個人が、自分に啓示されるイエス様に自己信託して、イエス様からの愛を受けることで始まります。あのニュッサのグレゴリオスが、「魂の花婿」と呼んだイエス・キリストの愛に輝く永遠の生命が、その人の個性となって働き始めるのです。このようにして、人間の人格に具わる「真善美」が具現することになります。これがまことの「個人の自由」の成就です。実は、これこそが、キリスト教であれ、仏教であれ、儒教であれ、イスラム教であれ、ヒンズー教であれ、あらゆる宗教のあらゆる宗派宗団に求められている現代の理想なのです。人一人の十全な個性の発揮、これを実現する宗教がまことの宗教であり、これをもたらさない宗教は偽りです。
 ここにいる皆さんは、それぞれの仕方で、福祉のお仕事に携わっておられる方です。「己を無にして謙虚にされ、互いに仕え合う」こと、これが福祉に携わる人の一番大事な心得であることを身を以て知っておられる方々です。だから、皆さんは、今、世界中で求められている人間の最も大事な有り様、「互いに愛し合い仕え合う個人」を追求し、これを達成しようと努力していることになります。横浜聖霊キリスト教会には、このように大きくて大事な使命が課せられているのです。
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