記憶にございません!
               (2019年11月16日)
  今日、映画「記憶にございません!」を見てきました。中井貴一が演じる総理は、何事もあいまいで、「総理、あれをあれしてもいいですか?」「結構です。善処してください」というような、忖度、忖度で事が進む政治の中で、何かあれば、「記憶にございません」を連発する。こうして、あったこともなかったことになり、言ったことも言わなかったことになり、何でもやりたい放題の無責任な政治で、支持率最低の状態にある。ある日、誰かに石を投げられて頭を打ち、記憶を失うと、突然、眠っていた自分の本心が率直に顔と言葉に出るようになる。彼は「まともな」正常の人に変わってしまう。すると、彼の取り巻きだけでなく、政界全体が混乱に陥ります。総理が、「本心をそのまま正直に口にする」からです! その結果、政治が正常なルールを取り戻し、国民からの支持も上がるという次第で、風刺の効いた面白い、それでいて、結構真面目な映画でした。
  2011年3月に発生した福島の原発への津波事故について、東京電力の社長清水正孝は、想定される津波が15メートルを超えると聞いたのは、2011年6~7月のことだと証言しました。しかし、津波が15メートルを超えるという 予想は、2008年7月31日に、すでに常務の武藤栄から提示されていました。ところが、原子力設備管理部門の山下和彦知は、2007年の柏崎原発の時の地震の津波を超えることがないという予想をたてて、せっかくの15メートル予想は採択されませんでした。しかし、15メートルを超える津波予測は、2008年2月の段階でも、2009年9月の段階でも、二度にわたり、清水社長出席の会議で論じられていました。そのことを突きつけられた社長は、「覚えがない」を押し通して、福島原発の安全確保のこの最高責任者は、結局不起訴になりました〔『朝日新聞』2019年11月12日/15日号〕。こうして未曾有の大事故の責任者は、誰一人罰せられず、誰一人責任を取らなかったのです。
 「責任」とは、予想するしないにかかわらず、起こった「出来事」に対して採るものです。だから、古代の王は、民に災害が起こると、下ろされたり、殺されたりしました。起こった出来事にどう対処したか?予想するしないにかかわらず、国の責任者には、災害の出来事への対処の仕方に対して説明を求められるからです。一般の人が、車の運転を誤って人を死なせたら、過失致死で起訴されて、必ず責任を問われて、何らかの罰を受け、場合によっては刑務所に入れられます。小さな過失なら責任を問われるのに、大きな過失は「記憶にない」と言えば責任を採らなくてもいいのなら、国が滅びるという<予想もしない大きな>悲惨な出来事には、だれ一人責任を採らなくてもいいことになりましょう。こういう指導者に引き回される民と国の未来は、極めて危ういと言うべきです。旧約聖書の預言者たちが、時の政権を厳しく批判し、民に警告したのは、まさにこういう事態のことです。
                     
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