コイノニア会の聖餐とエクレシア神秘信仰
コイノニア京都集会(2019年12月21日)
 私がここで聖餐を執り行なうのは、これが最後になると予想したのですが、牧田さんから、従来どおり私がやれと言われています。
 2019年11月25日に、東京ドームで、5万人が集まって、「教皇のミサ」が執り行なわれました。新聞は集まった人数のことばかり注目していますが、オープンの車に乗って、群衆に手を振りながらミサを祝福する教皇の姿は、人数だけでなく、そこに集まったアジアの各国の人たちが、共に教皇のミサを受けるという、性別、国別、身分別を問わない一体感が演出されていました。
 この12月21日のコイノニア会のクリスマスの聖餐は、わずか数名が、時を同じくしながら、場所は離ればなれで行なわれています。しかも、ここには教皇も牧師もいません。その代わり、御復活のナザレのイエス様の御霊の御臨在への信仰があります。わたしたちのこの聖餐は、二つの特徴を具えています。
(1)イエス様を真ん中にして、ネットの参加者も含めて全員が、自由で対等な関係で知り合うという「コイノニア」の形です。
(2)全員が一つ所に集まって牧師さんから聖餐を受けるのなら、これは教会堂で行なう「教会の聖餐」になります。しかし、空間的にこれだけ離れていますと、会堂での聖餐ではなく、場所に左右されない、主イエスの御霊の普遍の御臨在がなければなりません。

 だから、これから行なわれるのは、新約聖書の言う「エクレシアのコイノニア」を象徴する聖餐です。わたしたちを一致させる御霊の働きを表わす聖餐です。

「一人の主、唯一の信仰(聖餐も含む)、
一つのバプテスマ、
すべてのものの父である神に捧げるもの。
神は、すべての上に、すべてを通じて、
すべてのうちに居られる方だからです」
      (エフェソ4章5〜6節)

とあるのがこれです。「キリストはエクレシアの頭。彼は、からだ(エクレシア)の救い主」とあるとおりです(エフェソ5章23節)。
 わたしたちが今執り行う聖餐は、時を同じくしながら場所に制限されないという特長を具えています。この点で、会堂の聖餐とも、教皇の聖餐とも、共通しながら異なりますから、既存の「教会」とは少し異なる「エクレシア」です。それは、「目に見えない普遍の御霊にあるエクレシア」を指しています。これを「エクレシア神秘信仰」と言います。だから、今ここでは、世界規模のマクロの「神秘のエクレシア」が、わずか数名によって、そのミクロ(最小単位)の姿を見せているのです。これがコイノニア会の「エクレシア」であり、コイノニア会の聖餐の特徴です。こういう「エクレシアのコイノニア」の有り様は、コロサイ人への手紙にもパウロ書簡にも部分的に語られていますが、エフェソ人への手紙では、これが明確に表われています。
  今年はいろいろなことがありました。ここで、わたしたちは、自己過信からイエスを批判したユダのように裏切ることなく、他の弟子より自分が上だとペトロのようにうぬぼれて、イエス様からの否認を予告されることがないように自戒しつつ聖餐をいただかなければなりません。自分の想い、自分の理論では想像もつかない不思議な御霊の赦しと愛と、そこから湧き起こる力を体験してください。そこから、分裂ではなく一致を求める愛が授与されるからです人には難しいです。しかし、「人にはできないことを宇宙創造の神は実現し成就してくださったのです」(マルコ10章27節)。このことを証しするのがイエス・キリストの御復活の出来事です。この出来事から、今日の聖餐のほんとうの意味が与えられます。イエス様の御復活こそ、わたしたちへの慰めと恩寵の源であり、わたしたちの理想への希望だからです。これから頂くパンと葡萄酒が表わすのは、ご復活から降るイエス様の御霊の御臨在にほかなりません。大事なのは、そこに啓(ひら)けるのがイエス様の十字架の罪の赦しであり、その赦しから発する不思議な「愛と力と知恵の御霊」のお働きです。罪業深きがゆえに、なおいっそう強く働く赦しの御霊のお働きです。「ただあるがまま少しも飾らず」 "just as I am without one plea" (賛美歌271 )です。人間の罪業を梃子(てこ)にして、これを逆転させる赦しの恩寵の御霊です。これがあって初めて、互いが赦し合う交わり(コイノニア)が啓けます。自由の中に一致が生まれます。これが、ここで行なわれているコイノニア会の聖餐の意義です。 
 今年は、分裂の危機に見舞われましたが、皆さんのご協力のおかげで、不思議にこういう形で乗り切ることができました。どうか、過去の体験を活かして、「コイノニアの一致」を守る心を新たにしてこの聖餐をいただいてください。
             
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