私の敗戦体験
コイノニア京都集会
(2020年7月25日
 私は、長年、福音を語るとき、得体の知れない忿怒の念がこみ上げてくることがしばしばありました。今でも、時々あります。何か、得体の知れない憤(いきどお)りのようなものが、こみ上げてきて、抑えることがでできないのです。自分で、どうすることもできませんが、最近、だんだんとその正体が分かってきました。
 それは、私の敗戦の時の体験にあります。昭和20年8月15日、私は、当時まだ満で14歳でした。太平洋戦争が始まったのは小学校2年生の時で、敗戦は旧制の中学1年の時です。継母は熱心な仏教徒だったので、私は、毎朝仏壇の前でお経を読まされました。そして、家の前のポプラ並木で、大声で、軍人勅諭を朗唱しました。だから、敗戦を挟んで、それまでの6年間は、仏教と教育勅語と軍人勅諭を唱え、忠君愛国の模範として楠木正成(くすのきまさしげ)の銅像を仰ぎ、ご真影の天皇陛下と皇后陛下を信じていました。私と6歳しか違わない哲良(あきよし)叔父さんは、北海道の美幌から、台湾沖のアメリカ海軍を攻撃するために出ていき、そのまま帰りませんでした。それは特攻と同じで、彼はまだ19歳でした。出ていくその前に、家族全員で叔父さんに会いに行きましたが、「死にたくない」と漏らしていたその姿が目に浮かびます。
 ところが、昭和20年8月15日から、これらがすべて一転しました。敗戦後の6年の間は、マッカーサーの指令の下にあって、中学と高校では、熱心に英語を学び、アメリカの民主主義を信じるようこ教えられました。だから、中学の1年を堺にして、それまでの6年と、それ以後の6年とで、昨日の敵は今日の先生、昨日の先生は今日の悪者になったのです。大人にはそれなりの対処の仕方があったでしょう。小さい子供は何にも知らずに通り抜けることができたでしょう。しかし、中学1年の歳では、これは大転換と言うより大屈折、大屈辱でした。「涙滂沱(ぼうだ)として滴(したた)る。」敗戦の感想文を書かされた時、私はこう書いたのを今でも覚えています。少年ながらと言うより、少年だからこそ、悔しかったのです。
 それよりもっと悔しかったのは、原節子の「私が青春に悔いなし」を見て、戦前と戦中の軍国主義の間違いを悟らされたり、あの悲惨なインパール作戦で、日本の兵隊たちが、白骨街道で、なんとも悲惨な姿で叫びながら死んでいく有様を映画で見た時です。この時のショックは今でも忘れられません。それまで「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の私が兵は」と歌っていたのが、1日にして裏切られて、実際はこんな有様だったのかと、何とも情けなく、惨めで、悔しいやら悲しいやらで、これが私の大きなトラウマ(心の傷)になったのです。もっともこのことは、後になってだんだん分かってきましたが。
 敗戦から6年経って、高校から京大に行きました。その年に、天皇陛下が、全国を巡回しておられて、京都大学を訪問されました。私たち学生は、大学の正門の前で、天皇陛下の車を挟むように列を作って、「天皇、帰れ!」などと叫んでいました。共産党の指導者が、大学の近くで、大きな車の上からメッセージを語り、学生が大勢集まって聞いていたのを覚えています。
 大学1年の2月頃でした。大学の食堂で晩ご飯を食べてから、下宿に帰ろうと吉田山の麓の神楽坂の近くへ来たときに、赤い十字架のポスターが目に飛び込んできました。フィンランドの宣教師さんたちの集会案内でした。キリスト教とはどういうものか知りたいと思って、集会場に行きました。フィンランドの宣教師さんが、英語で通訳を通して話をしていました。簡単な英語なので、私はその英語を聞いていましたが、どんな話か覚えていません。実は、私は、買ったのかもらったのか忘れましたが、小さなポケット版の新約聖書を持っていました。話を聞いた後で、神楽坂の下宿に戻り、その新約聖書を開きました。すると、「初めに言あり、言は神と共にあり、言は神なりき」が、目に飛び込んできたのです。何か、雷に打たれたような体験でした。
 それから私は、北白川のフィンランドの宣教師の教会に通い始めました。そして学んだこと、それは、イエス・キリストが私たちの罪の赦しのために十字架におかかりなって贖いの業を成し遂げてくださったことです。「天皇陛下のために死ね」と言われてきたのに、イエス様は、なんと私のために死んでくださったのです。それまで「死ね」と言われてきた日本人に、イエス様は、自分の命を犠牲にして「永遠の命を生きなさい」と言われるのです。日本の兵隊が、最後まで降伏することを許されずに、恨みを飲んで殺されていったのに、どうしてアメリカの兵隊は、大いばりで降伏して、生きて帰ることが出来るのか?私は、この謎がやっと解けたのです。私は思いました。「自分は絶対に自殺しない日本人になろう」と。そして、今抱えている自分の問題を全部イエス様にお委ねして、「ただひたすらイエス様を信じる」、このことだけに徹しようと決めたのです。
 それからも、私の内に、あの敗戦の時の悔しさがこみ上げてきます。けれども、そのたびに、それもこれも全部を、ただ「イエス様を信じる」、この一事にかけようと決心したのです。私が、異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたのは、その次の年の大学2年の正月でした。このようにして、私は日本人としての悔しさも、ジャングルで飢え死にしたり、米軍の火炎放射器で焼き殺されていった兵隊さんたちの深い恨みも、何もかも全部を、イエス様が救ってくれる。イエス様が解決してくれる。こう信じて歩むことに決めたのです。
 私は、この信仰によって、戦後の日本を生きてくることが出来ました。それでも、今なお、何かの拍子に、訳の分からない不思議な恨みが、過去の日本から湧き起こってきて私を動かそうとするのです。私には、自衛隊の人たちの前で切腹した三島由紀夫の気持ちがなんとなく分かります。それより、もっと気になっているのは、川端康成の自殺です。あんなに美しい日本と日本人を描きながら、ノーベル賞までもらったのに、なぜ自殺しなければならなかったのでしょう。「自分は絶対に自殺する日本人になるまい」と心に決めた私ですが、それでも、あの作家のことが気になります。現在でも、日本の若者は、どうして簡単に自殺するのでしょう。
 イエス様は、私の信仰に応えて、一歩一歩ですが、戦中・戦後の日本人に救いの道を開いてくださっています。私の歩みはまだ終わっていませんが、最近は、人のすべての罪を赦してくださるイエス様の恩恵のおかげで、私たち日本人も、日本の国も、皇室も、そのあるがままの姿で護られている。こういう確信が与えられるようになりました。
 現在、世界中の中央銀行が、金融の緩和策を打ち出しています。ところが、金融緩和策は、日本が、世界に先駆けて(?)、すでに長年実践してきたことです。原爆を最初に浴びた国、老人の国、個人主義のアメリカと国家主義の中国との間に挟まれた国、大企業と中小企業の両方を併せ持つことで世界のトップに立つ国、これらいろいろな面において、現在の日本は、世界のトップに立たされています。「立たされている」というのは、これらの課題は、世界のだれもが「答えの出せない」問題だからです。「どうなるか分からない」ことで、現在の日本は、世界のトップに立たされているのです。こういう日本で、私たちは、イエス様とその御言葉を「ただ信じて」歩むのですのです。時々、不安や恐れに襲われます。でも、大丈夫です。イエス様は私たちの国を必ず護ってくださいます。
 私たち日本人が、イエス様の十字架の贖いによって罪赦され、恩寵の御霊の御臨在にあって心安らかになるならば、恨みを飲んで死んでいった幾百万の人たちの魂も浮かばれます。日本の平和がイエス様によって護られるなら、戦争の犠牲にされて、祖国の平和を祈り求めて死んでいった人たちも安心立命できます。大丈夫です。イエス様は、私たちも日本の民も、日本の皇室も、あるがままそのままの姿で護ってくださいます。だから安心して、イエス様に委ねてください。こういうことが言えるのは、私たちがとことんイエス様を信じてきたからです。これが、私たちクリスチャンが、日本の国に果たすべき使命(mission)なのです。理屈は要らない。あのアブラハムに言われた主の御言葉、「彼はただ主を信じた。主は、そのことで、彼を義と認めてくださった」(創世記15章6節)とあるのはこういうことです。
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