「自然」について
                   (2020年8月6日)
■神の自然と人
 すべての「始まり(アルケー)」において、「生じる」という神の創造の働きがある。したがって、「生じたものすべて」(ギリシア語「タ・パンタ」)には、創造の神が宿っている。神が創造した「自然」(natura)は、そのあるがままで「正しい」状態にあった。「自然」(natura)は、「不自然/反自然」を前提としているが、その「不自然/反自然」をも「自然化する」機能を有している。これが、自然と人との関わりを生じさせる重要な動因となる。この段階では、創造主(Creator)と「被造物」(creatures)との間に対立関係は存在しない。このことの意味は大きい。なぜなら、創造主の神の本性(natura)から今の「自然」が「生まれた/生え出た」(創世記1章11〜12節の「青く生える」を参照)ことを意味するからである。
■堕罪以前の「ホモ(人)」
 人(homo)も神(deus)の本性(natura)から生まれたものであり、人を囲む自然(natura)と関わるように定められている。「神の自然」を宿して創造された人は、神の前で無垢の状態にあったから、そのあるがままで自然と「正しくかかわる」技能(ars)を有していた。神が創造した楽園では、人と、人を囲む自然と、その両者が関わり合う技能とがすべて「正しい」関係にあった。
 神の「本性」(nature)を宿す「自然な人」のことを神学的な意味で「アダム」と呼ぶが、それを「ホモ・サピエンス」(英知の人)という人類学の用語で表わすこともできるだろう。しかし、ホモ・サピエンスでは、人の「堕罪」の本質を的確に定義することが難しい。堕罪の要因があまりにも多様な理解を呼び込むからである。ホモ・サピエンスには、必ずしも人と神との関わりが前提されていないからである。そこで私は、神学的な用語としての「アダム」を受けながら、人類学のホモ・サピエンスに対応させる意味で「ホモ・レリギオースゥス」(宗教する人)という言い方を導入したい。
 創世記2章7節には、神が造ったアダム(人)に神の息(靈)を吹き込むと「人は生きる者」になったとある。これだと、神と人との「霊的な」つながりが見えてくる。しかし、人が神に向かって犯した「罪」の意味するところを洞察するには、まだ漠然としすぎているように思う。神によって造られた人のことを「神を信じる人」「神と交わる人」「純真無垢な人」などと言い表わすこともできるが、これを、「ホモ・サピエンス」という人類学の用語と対応させて、「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)と名付けることで、堕罪の本質が幾分明確に見えるのではないかと思う。なお、「ホモ・スピリトゥス」(霊の人)という言い方もあるが、これは、新約聖書において、イエス・キリストの恩寵の御霊にある「霊の人」のことであるから、堕罪以前の人にこれを適用するのは適切とは言えない。
  神が造った者として神と共にある堕罪以前の人(アダム)のことを「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)という人類学的な呼び方をするなら、神が造った自然(natura)と正しく関わる「宗教する人」(homo religiosus)の智慧のことを「サピエンティア」(sapientia)と呼ぶことができる。その上で、宗教する人が自然と関わる具体的な「技法/技術」を「アルス」(ars)と呼ぶことができる。神の本性(natura)を宿すことで、神への絶対の信頼に生かされていた「宗教する人(アダム)」は、己に授かる知性(sapientia)が編み出す技法(ars)を通して、自己と自然(natura)との「正しい」関わりを保つことができた。
■人の堕罪
 ところが、この宗教する人の知性におごりが生じたために、神と宗教する人との間の信頼関係に亀裂が走ることになり、このために、神と人と自然との三位一体が対立する関係へ転じることになった。すなわち、神の前で自然と関わる宗教する人の「正しい」人の有り様の中に、神と自然とに対する罪「ペカートゥム」(peccatum)が入り込んだのである。その結果、「正しい人」は、「己を正しく見せかけようとする人」へ変貌する羽目に陥ることになる。堕罪の結果、人は、自然(natura)と「正しく関わる」技能(ars)を見失い、人は自然を「支配しようとする」動機を持つようになった。
 人の堕罪がもたらした結果として、神と、人と、人を取り巻く自然環境とは、相互に対立関係に入ることになり、自然は、「人の手で作ったものと対立する」ものになったのである。人が自然を支配しようとして編み出す人の技術(ars)は、人の意思を超える機能を帯び始める。「自然」に内在する不自然/反自然性を「自然化する」技術(ars)は、人の意思を超えて「自動的に」自然化を行なう事態を招くことになったからである。いわゆる「ギリシア的な自然観」がもたらした結果がこれである。この過程が、ユバル・ハラリが指摘する「ホモ属のサピエンス種がホモ属のデウス種」となる事態を招くことになる。「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)から、皮肉をこめて「神の種族」(デウス種)が現われるという事態になったのである。
 神の「自然」にあって神の前に立つ人(アダム)を「宗教する人」と呼ぶなら、問題の本質には、「宗教する人」の「宗教」(レリギオー)(religio)とはなにか?という問いがある。この問いは、人を囲む自然(ナートゥーラ)(natura)とは何か? そして、人が自然と関わるために、人の「知恵」(サピエンティア)(sapientia)が編み出す技能(ars)とはなにか? という問いと不可避的に重なり合うことになる。鍵は、宗教する人の犯した「罪」(ペカートゥム)(peccatum)とはなにか?という問いの中にあるように思う。
■イエス・キリストにある救い
  イエス・キリストの出来事は、「神であり人である」という二つの「本性」(natura)を有する一人の人イエスを啓示した。キリスト教の「神」は、「タ・パンタ(自然)」という「多」であり、イエスは一人の「ペルソナ」という「一」である。したがって、「聖霊」は、「イエスの御霊」として「タ・パンタ」と「ペルソナ」との「二つの本性」(natura)を兼ね具えているから「一即多」である。これが、三位一体の神概念であり、「聖霊」を宿す人のことを「霊の人」(homo spiritus)と呼ぶ。
 イエス・キリストの出来事を通じて、再び、神と人と自然との対立関係が解消される道が啓示されることになった。このイエス・キリストの出来事が人に「生じる」のは、「自然に(natural)」働く神から出る。宇宙の万象に働く大自然の力(natural power)は、三位一体の神から生じる恩恵にほかならない。こうして、現在の人と自然の全体「タ・パンタ」は、神の「恩恵」(グラーティア)(gratia)に支えられていることになる。だから、ギリシア的な思考に基づく現在の自然科学をも含めて、そのあるがままの現実をそのままの状態で「自然」として受け入れることができる。問題は、「罪の人」からいまだ「霊の人」(homo spiritus)として完成にいたらない「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)が、自然の「反自然性」とどのように「正しく」かかわる技術(ars)を見いだすのか?というところにある。人のうぬぼれから出た「擬似的な」パワーによらず、三位一体の神からの無私無欲の霊能にこそ、まことの「サピエンティア」が宿る。
  イギリスの詩人ジョン・ドライデン(John Dryden)(1631年〜1700年)は、その詩「雄鶏と狐」(Cock and Fox. 452.)で、「技能は誤ることがありえるが、自然は誤ることがありえない」"Art may err, but nature cannot miss." と洞察している。ここで言う"art"とは、人が開発した「技能・技術」のことであり、"nature" とは、神の「自然・本性」を表わすと見ることができよう。環境問題でも、核兵器でも、人工知能でも、今の世界を脅かすコロナ問題でも、人の技能は、これを過信することなく、謙虚になって、神の本性を無傷で宿すナザレのイエスの御霊に導かれることが求められている。このことを指し示す言葉として受け止めたい。
 
このエッセイは、私たち信友たちとの談話会で水垣氏が発表した「キリスト教の自然神学」にヒントを得て、これを私なりに応用したものである。その際、水垣氏が用いたギリシア語「フュシス」をラテン語「ナートゥーラ」に、ギリシア語「テクネー」をラテン語の「アルス」に言い替えた。
                   
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