間もなく、妻久子が主に召されてから三年目の追想の日(2021年1月9日)が訪れようとしている。私が、市川久子と結婚したのは1956年5月20日のことで、当時、私が一緒に伝道していたフィンランド宣教師ユッカ・ロッカ師の司式のもとで、師が設立し牧会していた大津の福音教会においてであった。一方、久子は、フィンランドの女性のペルタリ宣教師と開拓伝道を始めた矢先のことであった。ふたりは同年の生まれで、私は1932年(昭和7年)6月17日生まれで、久子は、同年11月11日の生まれで、母方が三代続いた京女(きょうおんな)である。私がキリスト教の信仰に入ったのは、大学1年のことで、当時19歳だったが、久子は、それよりも早く、16〜17歳の時に、京都の日本キリスト教団の四条教会に通い、そこで滴礼の洗礼を受けていた。
二人が結婚したのは、彼女が、私の生涯の信仰の友である市川喜一さんの妹であったことが、一つの契機であったのは間違いない。しかし、結婚を決意したのは、祈っているときに、主から示しを受けたからである。言わば、一切を主にお委ねしての結婚であった。そんなわけで、式をあげてから間もなく、フィンランドのカルナ先生に頼まれて、私は、アメリカの著名な伝道者であるT・L・オズボーンご夫妻の通訳のために、一週間ほど名古屋に出かけることになった。新婚旅行もないままに、一週間離れて暮らすことになったのである。それでも、ほぼ一年後には、長男の和宏が生まれて、オズボーン夫妻が、再度来日したときには、万代兄の伝道の地である四国の松山へ三人でオズボーン夫妻の通訳のために出かけ、その折りに、生まれたばかりの和宏に先生から按手の祈りをしていただいた。
彼女に異言体験が与えられたのは、神戸の御影で開かれたアッセンブリー教団の新年聖会においてであったと記憶している。
私たちの伝道者としての生活は波乱に満ちていた。私は、自身の伝道に行き詰まって、ついに伝道者・牧師として挫折し、高校の教師になった。そんなわけで、京都の郊外にある現在の住所に落ち着くまで、神戸と京都と大津の間を転々とした。それでも、彼女は、何にも言わず、だまって私についてきた。京都に居(きょ)を定めてから、宣教師さんから離れて、無教会系の小池辰雄師のもとで教えを受けるようになり、私たちコイノニア会の集会は、月に一度の交わりを自宅で続けることになった。
この頃、アメリカの若い人たちが、「体験留学」ということで、入れ替わり京都を訪れた。わたしたちの家でも、幾人ものアメリカ人が、順番に幾日も滞在したが、彼女は、3人の子供を抱えながらも、快く彼らの食事と身の回りの世話をして喜ばれた。生活が落ち着いて、子供たちの手がかからなくなってから、彼女は、南宋画の師について絵を始めたり、英会話のカセットを買って英会話の練習をしたり、書道を習ったり、京都のアララギの会に入って短歌を学んだりしていたが、最後まで続いたのは日本画で、「下手な絵だ」と言いながら描き続けていた。京都には日本画の展示会が多かったから、晩年には、友人と画廊を訪れるのが楽しみだったようである。
私は、自分の信仰生活を常に反省することで、学びと祈りによって、
御霊にある成長を追求するタイプであったから、集会のメンバーをも含めて、自分の信仰をだれも理解してくれない、という思いに駆られることがあった。だが、そんな時でも、不思議に、彼女は、共に集会に通い、共に祈り、私の信仰から離れることなく、信仰の一致によって、私を支え続けてくれた。何時の頃からか忘れたが、日曜日の朝には、必ず二人で祈りを共にした。すると、二人の心と霊が、不思議に一つにされて、自分たちが今ひとつにされていることを実感するのであった。久子の祈りは、静かで、訥々(とうとつ)としたところがあって、決して大声を出すことはなかったが、不思議なことに、聴いているうちに、何とも言えぬ安らかな想いに包まれた。これは、集会のだれもが口にしていたことである。妻の祈りが、コイノニア会の祈りを支えていると言う者もいた。おそらく彼女の祈りには、「ほんとうのまこと」がこもっているからであろう。
六畳の座敷が手狭になってからは、集会は、長らく烏丸御池のビルの会場を月ごとに借りて行なっていたが、その後は、市内の京都私学会館の一室であった。集会は少人数で、土曜の午後から行なった。一つには、教会へ通う人たちも参加できるためであり、また、和歌山県のほうや、四国から来る人もあり、時には九州から来る場合もあり、ある人は、なんと群馬県から京都へ月ごとに通っていた。
子育ても済んだ頃から、彼女は、聖書本文や聖書の注釈書や聖書事典などから、自分の心に残る箇所を筆写することを始めた。びっしりと筆写したノートや紙束が、今でも遺っている。集会の度に全員がする感話の際に、彼女が、自分の知識を口にすることはほとんどなかったが、それでも、うかがい知れない深い思いを言葉少なに語るのを全員がじっと聞いていたのを想い出す。不思議なことに、それらしい様子が見えない時に、自分の死期が近いことを主に示されて、「思い返せば、私の人生は、結婚してよかったと思う」と言って、「有り難うございました」と頭を下げた時には、言葉もなくただ彼女を見ていたが、今これを思い返して、少し心が慰められるのを覚える。
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