2021年クリスマス集会
         
エクレシアと個人
   (12月25日午後1時より SNS)
第一部 聖餐と祈り
○賛美歌98番
○司会者の祈り
聖書朗読:マルコ14章22〜24節
講話 エクレシア個人
賛美歌 111番
パンへの祈り
ぶどう酒への祈り
全員による祈り
賛美歌 109番
 
第二部 全員の感話
○賛美歌106番 <感話の途中で>
○終わりの賛美 112番
○来年の集会。その他。
参加者から閉会の祈り。→小坂さん。
 
エクレシアと個人
 ただ今、お読みしたとおり、聖餐は、イエス様のお体とお命が、イエス様に従う一人一人に宿ることを証しするものです。これが、福音の真髄だからです。
 しかし、 カトリック教会の聖餐では、イエス様の代わりを教皇が勤めます。だから、それぞれの信者は、教会の聖職者から御聖体を戴くことで、教皇を頂点とするカトリック教会に所属していると告げられます。そこに個人は存在しません。全員が、教皇を頂く「教会」に属するからです。だから、世界中を結ぶ驚くべき一致が生じます。
 ところが、コイノニア会では、御覧の通り、一人一人が、聖餐を個人として戴きます。聖餐は、御復活のイエス様が、聖霊となって、弟子たちの間に御臨在されること、その上で、イエス様の霊体と命が、エクレシアのメンバー個人に宿ること、このことを証しするものです。もしも、弟子たちの中に、イエス様を宿さない人が居れば、彼は、イエス様とのエクレシアの交わりに入れません。だから、聖餐によるエクレシアの一致は、個人が、どこまで、その「まこと」を尽くしてイエス様を信じているかどうかにかかっています。
 カトリック教会では、一致はありますが、そこで個人が活かされているかどうかは、これも御聖体を頂く個人が、どこまで「まこと」を尽くして、イエス様とつながっているかにかかっています。エクレシアと個人、どちらも大事です。どちらも、イエス様と個人との「まこと」の結びつきがなければ成り立ちません。三位一体の神の不思議がここにあります。
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