日本の政教分離
(2022年4月13日)
■アメリカの「政教分離」
17世紀のイングランドのピューリタン革命は、ほんらい、カトリックの教会制度から独立した英国国教会をさらに「浄化する」(purify)ことを目指すものでした。「ピューリタン」(清教徒)と呼ばれる人たちは、この目的を果たすために、国家の制度から宗教制度を分離しました。ここで大切なのは、ピューリタンが真に目指したことは、単なる宗教制度の国家権力からの分離独立ではなく、国家や教会の制度に束縛されない「個人の信仰の自由」を確立するためであったことです。ピューリタンのこの信仰が、アメリカ大陸に渡って、アメリカの政治制度を形成する基盤となります。アメリカにおける政治と教会制度との分離(政教分離)は、こういう歴史的な過程を経て成り立っています。
したがって、アメリカの政教分離は、ほんらい、キリスト教徒が、政治権力によって、「個人の信仰の自由」を犯されることがないための政策です。キリスト教への信仰の自由を保証された個人が、それぞれの選択に応じて議員を選出する。この過程を経ることで初めて、「議会制民主主義」として国政が成り立つからです。アメリカは、「祭政一致」の宗教国家ではありませんが、個人の信仰を制度化した「信仰国家」だと言えます。だから、これは、正確に言えば、「政治」と「宗教(信仰)」の分離ではありません。リンカーンの”the government of the people, by the people, for the people”が意味するのは、この事態を指しています。
■日本の「政教分離」
翻(ひるがえ)って、日本では、「政教分離」それ自体は、明治の憲法でも認められていました。日本の場合、「政教分離」は、「宗教」と「国政」との分離という意味合いが強かったと言えます。このために、明治憲法下の日本では、神社や皇室への参拝は「宗教でない」というおかしな理屈が唱えられました。1945年の敗戦後に成立した憲法によって初めて、現在の「政教分離」が国是とされましたが、「政治と宗教の分離」という性格は、基本的に変わらなかったと言えます。だから、日本では、「政教分離」は、「個人の信仰の自由」というよりも、仏教・キリスト教・神道などの「宗教」が国政から分離することだと受け取られています。「信仰の自由」は、「(国政からの)宗教の自由」を指しているのです。
こういう事態は、日本では、ほんらい「個人」の存在意識が希薄であったことが、その理由としてあげられます。日本では、「自由な信仰の主体」であるべき「個人」が育っていなかったからです。「宗教の自由」は、「宗教からの自由」をも意味しますから、「政教分離」は、国家機関と公立の学校から、宗教を「排除する」ことを目指すものと理解されました。その結果、日本では、現在にいたるまで、欧米の国々とはいささか異なって、「無宗教」の政治と「無宗教」の教育が行なわれてきたのです。
日本では、憲法が定める「(個人の)信仰の自由」とは、宗教団体の自由のことです。その上で、国政と教育を「宗教それ自体から切り離す」ことを国是としています。したがって、戦後の日本のキリスト教界は、このような「政教分離」に乗っ取って、政治と国家の行政に「関わらない」ことを旨(むね)として、「教会の運営」を行なっています。それにもかかわらず、旧安倍政権は、神道の日本会議と日蓮宗系の創価学会を母胎とする公明党によって支えられていたのです。「個人なき宗団・宗教」と国政との不即不離のこの状態は、人間が、何らかの意味で「宗教する存在」である以上、避けられないからです。
靖国神社参拝は、「私人」としてであって「政治家」としてではない。こういう外国では「笑い話」が、日本の国内では通用するのです。
■政教分離と政教補完
「政教分離」は、「個人」としての人間、とりわけ、人が「宗教する存在」であることを思えば、これの実現に限界があることが見えてきます。確かなのは、政治権力は、その国の「政治と人」とに不可避的に深く関わっていることです。政治的な「権力」即「魔力」ではありませんが、権力が<魔性を帯びる>のは良く知られています。しかし、権力をその魔性から遠ざけようとする試みこそ、「民主主義」の働きなのです。民主主義(デモクラシー)は、権力の魔性化を防ぐ「最善とは言えないまでも唯一の手段」"Not the best, but the only way"だからです。
「民主主義」(デモクラシー)が、「民衆主義」(デモクレイジー)に陥りやすいのも確かです。だから、キリスト教会は、権力に「近づかない」のが最善だという理屈もよく分かります。だからと言って、「政教分離」をいいことに、キリスト教会もその信仰も、権力に「かかわらない」ことが、ほんとうに「正しい」のでしょうか?これが今問われています。権力<からの自由>が保証されているのなら、その「自由」は、権力に<関わる自由>も保証しなければなりません(そうでなければ自由でない)。
「宗教する存在」として、人同士が結束することを「志を同じくする」と言います。この言い方は、国家同士でも通用しますから、「志を同じくする」とは、国家同士が、その究極の価値観(宗教的信念)を同じくすることを意味します。ウクライナとロシアの戦争では、日本は、欧米と「志を同じく」しています。しかし、中国は、欧米諸国と必ずしも「志を同じく」していません。イスラエルもインドもイスラム諸国(例えばトルコ)も、欧米と「志を同じく」していません。ウクライナ問題では、政治だけでなく宗教的な価値観に基づく国家の国是と、国家の武力行使と、この両者の関わりが、にわかに、厳しい現実味を帯びて認識されるようになりました。
ここへ来て初めて「(個人の)信仰の自由」と、「(宗教団体である)キリスト教会」と、「(武力の行使を含む)政治権力」との有り様が、「信仰と国家と」の関わり方として問われてきたのです。だから、ここで問われるべきは、キリストの教会は、政治権力とかかわるべきか、かかわるべきでないか?ではありません。問われるべきは、むしろ、キリストの教会が、国と政治に関わるとすれば、<どのような仕方で>関わるべきなのか?ということです。
現在、筆者(私市)が、「天の玉座と地の臨在」で追求しているのが、この課題です。この問いこそ、ダニエル書が提示している課題です。ダニエル書は、新バビロニアの王ネブカドネツァルの政治権力に対処したり、セレウコス朝のアンティオコス4世の圧制と闘ったりするイスラエルの民の有り様を描いています。ダニエル書7章では、人の子姿が、天の玉座から降り、その地上への臨在によって、地上の王権という獣たちと闘い、聖なる民を救う働きが語られています。ダニエル書を受け継いでいるのが、ヨハネ黙示録です。ヨハネ黙示録では、小羊とその民(キリスト教会)が、ローマ帝国の王権とどのように関わるべきかが、小羊の民による働きかけとして語られています。イエス・キリストの父と御子と聖霊との三位一体の神は、<その時々の状況に対応して>あらゆる仕方で、個人の信仰の自由を保証し、教会の信仰を導いてくださいます。これが、十字架のイエス様から降る「恩寵」の働きです。
*この文書は、2022年4月13日に、京都大学の信友たちの研究会で発表したものです。
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