イエス様「復活」のヴィンディケイション

         (2022年5月4日)

vindicateの定義

 英語の動詞 "vindicate"(ヴィンディケイト)には、まだ適切な日本語の訳がないようです。『ランダムハウス英和辞典には、「(人・事柄・行為を)正当化する」「汚名を晴らす」「名誉を回復する」とありますが、そこには、Concise Oxford Dictionary の定義をほとんどそのまま訳してあります。以下に、Oxford English Dictionary の "vindicate"から、いくつかの例をあげます。

【(正義のために)報復する】

「ハムレットは、その父の死を殺人者に報復した。」

 「彼らは神の大義のために報復すべきだ。」

"they should vindicate God's cause"(1655)

「神の助けを借りて、彼に加えられた諸害悪に報復しようと決意して」

resolving by God's assistance to vindicate his Wrongs”.(1660)

【(証拠や論証によって)正当性を与えて支持する】

おお、神よ。何らかの方法で、この人の名誉を回復し、彼の大義を明らかにし給わんことを

 ”O God would find out some way to vindicate his own honour, and clear his cause.”(1651)

その邪悪な裁判官と邪悪な王は、互いに非難を投げつけ合って、自分を正当化しようと企んだ

”The wicked judge and the wicked king attempted to vindicate themselves by throwing the blame on each other."(1840)

 上記の定義に基づくなら、イエス・キリストの「復活がヴィンディケイトする」事態とは、以下のようになります。

 生前のイエスがメシアかどうかをめぐって、

(1)イエスの言動を「正当化する」。

(2)イエスに向けられた汚名を「晴らし」、名誉を「回復する」。

(3)イエスの真実を「立証する」。

(4)イエスの教えを「擁護し守る」。

■イエス様復活の真の意義

 上の定義によれば、祭司長たち、学者たち、ファリサイ派が、イエスを十字架刑に処したのは、(1)生前のイエスの言動を「不義・不当とした」、(2)イエスの人柄を「不道徳」だとして、彼を「罪人」として断罪した、(3)イエスの信仰と教えを「虚偽・謬(あやま)り」だと見なした、(4)イエスの教えを「禁止し、これを罰する」ことを目的としたことになります。

 以上の四つが、イエスの十字架刑への目的であり、「イエス様復活の出来事は、ペトロたちとエルサレム側との間の正義か不義かをめぐる立場をそのまま逆転させた」ところに、その真義を見出すことができます。しかし、それだけでは、十分でありません。以上の理由は、どれも、イエスの十字架の意義について、イエスの「被害」のほうだけに目を向けていて、イエスへの「加害者側の罪」が見落とされているからです。イエスへの「加害者側の罪」も、十字架からの復活が立証する重要な意義であることを確認しなければなりません。ヴィンディケイションは、原告と被告の間の「有罪か無罪」かの問題ではありません。どちらが正義で、どちらが不義か?「正義と不義」をめぐって、どちら側も原告であり、両方共が被告になり得るからです。

復活がもたらした事

 イエス様の復活がもたらした結果として、以下の三つをあげなければなりません。

(1)イエス様の十字架からの復活を見聞きした者たちは、イエス様復活の出来事を断固として否定して、己の正しさを頑なに主張するか、あるいは逆に、イエス様を十字架刑に処したことを深く恥じ入り、自分の断罪行為を悔い改めて、神の御前に罪の赦しを乞うか、このどちらかを選ぶよう迫られることです。ピラトが改心したという伝承やイエス様の十字架刑に手を貸したローマ兵が、後で悔い改めてクリスチャンになったという伝承は、この消息を表わしています。だから、イエス様の十字架と復活のヴィンディケイションがもたらす「罪の赦し」は、決して「安易な気休め」ではありません。イエス様の十字架と復活に込められた神御自身によるヴィンディケイションの意義は、使徒言行録2章22節〜28節に最も良く言い表されています。
 
十字架と復活が、加害者側の「罪への深い自覚」「悔い改め」呼び起こすこと、これに伴う「罪の赦し」は、十字架と復活の出来事が啓示する最も肝要なところですが、日本人には理解しがたいところがあり、「単なる安易な赦免」だと誤解される恐れがあります。使徒言行録2章22〜24節/同37〜39節のペトロの説教は、イエス様の復活が、こういう「ヴィンディケイション」の出来事であることを的確に言い表わしています。

(2)イエス様は、その生前に、エルサレムへ向かう旅の途中で、エルサレムでの自分の受難と復活について、弟子たちに度度語っていました(マルコ8章31〜32節/同9章31〜32節/同10章33〜34節/同12章7〜8節/同14章7〜8節/同14章27〜28節)。しかし、ペトロを始め弟子たちには、何のことか、よく分かりませんでした。ペトロを始め、弟子たちは、イエス様の十字架から、その復活に出会うまでの期間、どんなにか悔しく辛い思いをしたことでしょう。イエス様の十字架刑で、自分たちが、「神の御前に不義であった」ことが、神によって実証された。エルサレムの支配者たちや住民からそのように見なされたからです。どうしてイエスは、自分たちをこんな目に逢わせるのか?こうペトロは、イエス様を恨んだのではないでしょうか。復活後に、イエス様はペトロに「あなたは私を愛するか?」と三度も尋ねられたからです(ヨハネ21章15〜17節)
(3)ところが、イエス様復活の出来事は、ペトロたちとエルサレムの支配者たちとの「正義か不義か」をめぐる立場を逆転させました。正義はペトロたちに、不義はエルサレム側にあることが、神によって実証されたからです。ペトロは、「この事」を彼らに証ししなければなりません(使徒言行録2章22〜24節)だから、ペトロたちは、どうしても、ガリラヤから、勇気をふるって、再びエルサレムへ戻らなければなりませんでした。その結果、彼らに聖霊が降り、生前にイエス様を信じ、イエス様に従った者たちに神とキリストから注がれる御霊の力が与えられます。主の復活と聖霊降臨は、彼らを迫害と危害から護る防御となり、聖徒たちへの保護として働くことが、弟子たちに啓示されました。ペトロとヨハネが、議会で取り調べを受けた後で釈放された時に(使徒言行録4章13〜21節)、集会の仲間たちが捧げた祈りは、この事を表わしています(同4章24〜31節。これは詩編2篇からでています)。

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