正教の夕拝に出て

         (2025年6月28日)

 今日、思い立って、京都市内の真ん中にある聖ハリスト教会の夕拝に出席した。
何の制限もなく、靴を脱いで中に入ると、正面が一面、数々の聖像画で飾られ、
ろうそくが立ち並び、窓ガラスの美しい立派な聖堂に出た。
 夕拝の典礼は、5時から6時半頃まで、1時間半にも及ぶ。
その間、祈りと讃美の朗唱と歌声に包まれ、何もせず、ただ黙ってその祈りと歌声に身を任せていると、 自然と異言が出てきた。
 3~4世紀の東ローマ帝国以来、1500年も続く正教の典礼とは、
かくも立派なものかと感じ入る。
歌と祈りの声に合わせて、「イエス様、お守りください。
キリストよ、お導きください」と心に唱え続ける。
ただそれだけで、主の万能のお守りと、
キリストの導きに与ることが出来るのだから、
こんな有り難いことはない。
出席者が、私一人なのが、いかにも、もったいなく、そのことだけが気になった。
語られ謡われる内容は、分からなくても、その声と祈りだけで、
十分に霊性に与れるのが、典礼の有り難さである。
 こんな立派な聖堂と、こんな立派な典礼とに、何一つ要求されずに、
黙って参加できるとは、なんともったいないことか!
ただ、ただ、そのことだけが気になった。
                   
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