一向宗共同体
         (2025年8月8日)
【出典】本郷和人(かずと)『宗教の日本史』扶桑社新書(158〜161頁)
 
 鎌倉時代に、日本の天台・真言の国家鎮守仏教は、「南無阿弥陀仏」を呪文として唱えることで救われるという法然と親鸞の教えによって、各地の(八幡)神社などと習合することで、村落共同体に取り込まれていった。 地主たちを中心とする一向宗の村落共同体は、領主の支配に束縛されることが少なく、比較的自由な自治権が認められていた。そこには、上からの支配が弱いからこそ、逆に、共同体内部では、厳しく細やかな規律が求められ、「盗み」でさえ処刑されるという「自律」の厳しさが働いていた。複数の地主たちによる横のつながりで結ばれた村落共同体では、例えば、「紀伊国」(きいのくに)の場合のように、高野山が、戦国大名に代わるものとして振る舞っていた(桃山時代には、堺のように自由都市として、利休の茶道などを生む出す)。
  その支配原理は、武家社会の支配原理とは異なるものであったから、一向宗は、まず、部落の指導者たちを念仏による門徒衆に引き込むことから始めた。村の長(おさ)が、「南無阿弥陀仏」を唱え始めると、村全体が「南無阿弥陀仏」を唱え始めた。僧侶たちも、一向宗の女性を妻にめとるなど、地域の生活に溶け込もうとした。一向宗共同体は、豊かすぎず貧しくもない中間の地域で力を得て広がっている。一向宗共同体は、一律ではなく、地域ごとに独立して、それぞれが独自の村落共同体を形成していた。安土城に大きな石を置いて、「これを自分だと思って拝め」と命令した信長は、「己を神格化する」政治権力者として、一向宗のこのような(宗教的)権威を徹底的に弾圧し、延暦寺を潰そうと焼き払った。一向宗共同体の事態は、キリスト教では、イエス・キリストの御霊の働きによる「自律」の掟に支えられることで、たとえば、中小企業のような中間層の間に、「信仰共同体」を形成するための指針となる。
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