主イエス様にある交わり
第一ヨハネ:1章1節〜10節

【聖句】

 【講話】
  ヨハネ福音書は、「初めに言があった」ではじまります。この「ことば」は「み言」と訳してもいいのですが、この世界の創造の初めから存在しておられて、神のみ元から地上に来られた神のみ子イエス・キリストを指しています。同時にヨハネ福音書は、このイエス・キリストが、十字架におかかりになって、私たちの罪の赦し、すなわち贖いのみ業を成就されて、それから再び天へ戻られたことを証ししています。
  第一ヨハネの手紙は、年代的にヨハネ福音書よりも後に書かれたものですが、同じヨハネの教え、伝承を受け継いでいます。けれども、ヨハネ福音書では「初めに」とありますが、ここでは「初めから」(1節)です。福音書ではイエス様がこの世の初め「に」存在したと語っていますが、ここでは「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの」となっていて、これを「あなたがたにお伝えするよ」とあるのです。ですからここでヨハネが「初めから」と言っているのは、この世界の初めからという意味だけではない。ペトロやヨハネたちの使徒たちから自分たちに伝えられた福音の証しを私たちはしっかりと受け止めて、ほんとうにそのとおりだとわかったので、これをあなたがたにお伝えしますと言っているのです。
  ではその内容はなにか?「命の言」とあります。この「命の言」を初めから聞いていて私たちに伝えますと言うのです。くどいようですが、ヨハネ福音書では、神のみ言は、世の初めから存在していて、地上にお出でになったとあります。これに対して第一ヨハネの手紙では、ヨハネ共同共同体愛が受け止めた命のみ言であるイエス様、これが地上に顕れた。それだけでなく、この命のみ言が今もなお働いている。初めからあった命のみ言が、今もなお働いていて、私たちはこれを受け取って、あなたがたに伝えていく。こういう意味です。だからここで「わたしたちに顕れたこの永遠の命」(2節)とある「わたしたち」というのは、イエス様が天に昇られたその後に生きている「わたしたち」のことです。このわたしたちに永遠の命が顕れたという意味です。
 3節には「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つ」とあります。「交わりに入る」でもいいです。コイノニアに入ることです。今日こうして皆さんが集会に来ておられて、このコイノニアに入る。これが大事です。なぜなら、このことが、命のみ言が今もなお働いていることを証ししているからです。だから、命のみ言が「ある」からわたしたちがそれを聞きに来ることでもありますが、同時に、わたしたちがこうしてここに集められている、このことが、実に不思議なことなんです。これが命の言が働いている証しです。パーティでもやるつもりで集まったのではない。この「コイノニア」の中身は父なる神との交わりに結びついている。み子イエス・キリストとの交わりに結びついているのです。父と子と交わりの三位一体です。ですからこの「交わり」はわたしたちの趣味の会ではありません。「み霊の交わり」です。
  この間の『リバイバル新聞』に、高砂教会の手束牧師が、「コイノニア症候群」ということを書いていました。それは、特に少人数の教会では、うっかりするとただの「仲良し会」になってしまう。閉鎖的になってしまって、それ以上新しい人を受け入れるのを喜ばない。あるいは、新しい人が一生懸命やろうとすると邪魔をする。こういうグループになってしまう傾向がある。注意しないとそうなると書いてありました。わたしたちの集会ではそんなことはないと思いますが、もしこれがただのわたしたちの人間的な親しさになってしまうなら、「コイノニア会」ではない。み霊の働きではないです。
 今ここに働くみ霊にある交わり、これをを突き詰めるとなんでしょう。「御子イエス・キリストとの交わり」です。イエス・キリストというひとりの人格的な存在です。personです。ペルソナです。だからコイノニアとはイエス様との人格的な交わりです。ただの霊的な原理原則ではない。イエス・キリストというひとりのお方のみ霊、わたしたち人間に神を顕してくださるために人間となられてこの地上に来られたイエス様のみ霊と出会う。これがこの集いの意味です。
  だから福音の内容を語るそのことが、イエス様との交わりを形成していくと同時に、わたしたちお互いの交わりを形成していく。こういうことです。討論会ではない。わたしたちがイエス様の人格的なみ霊との出会いについて語り合う、語り合うそのことによって「コイノニア」が生まれるのです。
 私がこうして皆さんに語っているのは、集会の人数を増やすだとか、なにか私の利益になるからではない。自分がイエス様を信じていて嬉しい、み霊にあるよろこび。これが私をして語らせるのです。この喜びを皆さん方と共に分かち合いたいのです。「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」(4節)とあるのがこれです。
  5節に「神は光である」とあります。聖書の中で「神は〜である」とはっきりと定義しているところは少ない。でもヨハネ系の文書にはそれがあります。この手紙の4章8節に「神は愛である」とあり、ヨハネ4章に「神は霊である」ともあります。イエス様については、「私は世の光である」「私は命の光である」と言われています。この6節の光とは「仰ぐ」ものです。人をしてそちらへ「向かわせる」ものです。わたしたちはそちらへ「歩く」から、光は未来を照らすのです。わたしたちが「未来に向かって歩くように仕向ける」のが光の働きです。この光の中を歩くことで、わたしたちが文字通り「一歩一歩」と光の中を歩いて行くことで、私たち自身が光になっていく。すると、わたしたちの内に働く闇の力、「罪」という名の闇の力ですが、おれが少しずつはがされていく。わたしたちがあえて光に身をさらして、光の中を歩んでいくことが、自分の内に潜む闇に克つ方法です。ですから、光も闇も、神の正義も罪も、「歩むこと」、すなわち行動することに結びついています。罪は、わたしたちの「考え」ではない。迷いでも憎しみでもない。光の中を「歩こうとしない」こと、自分自身の罪の中にじっと留まっているだけで「動こうとしない」こと、ここに罪がある。これではほんとうのコイノニア、交わりは生まれてこないのです。なんのために集まっているのかわからないことになります。
  光の中を歩くことによって(7節)、光になること、一歩一歩と罪に克つことです。「信じる」とはそういうことです。だから信仰の「仰ぐ」という字は光を仰ぐことです。これは悟りではない。瞑想でもない。光に向かって行動することが生きることです。ヨハネはここで、わたしたちの罪がどんなに重くても、あえてイエス様のみ霊の光に向かうなら、その罪が赦されると言うのです。歩くことそのことが赦しです。
  み霊の光の内を歩んでいくと、いやでも、自分の欠点や罪が見えてきます。見えてきても、それを自分で隠そうとしない。それでもなお、イエス様の光の中を歩く。だから「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にない」(8節)とヨハネは言うのです。同じことを「自分の罪を告白する」とも言っています。自分の罪を自分から隠さない。自分にへつらわない。あるがままを見つめると、自分の罪を自覚することができる。だから、イエス様のみ霊の光を歩むこととわたしたちの罪を言い表すこととは同じです。罪を自覚する。すると罪に勝てる。そして罪から解放される(9節)。これが、罪赦されることです。こうすることで、わたしたちは交わりを保つことができる。これがみ霊にある交わり、コイノニアのほんとうの姿です。
  最後に大事なこと。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすること」(10節)とあります。ほんとうの神、真実の神とは、人間にその「罪を自覚させてくださる」神です。その人の罪をはっきりと示してくれる神、これがほんとうの神です。罪とはなにか? 罪とは不信仰ですが、罪の根は傲慢です。仏教でもキリスト教でも、人類に与えられている真理をおこなわせる知恵とは、必ず人間の罪を自覚させる力を持っています。真の神と偽りの神との違いがここにあります。人が真理を行うか否かがこれで決まるのです。
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