命の種
第一ヨハネ:3章6節〜15節
【聖句】

【講話】
  まず8節から入ります。「罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです」とあります。ここで「初めから」とあるのは「根元的に」とか「本質的に」という意味です。ですからこれは人間の原罪のことです。人間は誰でも恐ろしい悪魔の子となる性質を宿しているという意味です。だからと言って、必ずしも悪魔の言うとおりにおこなうという意味ではありません。性質を宿していることと、その性質が実際の行為となって現れることとは別ですから注意してください。ヨハネはこれに続けて、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」と言っているのはこのためです。人間に潜む悪魔の種そのものを滅ぼすことはできません。人がこの地上に生きている限りは、人間の悪い性質を殺そうとすればその人間を殺すことになるからです。ですけれども、悪魔の「働きを無力にする」(これが原語の意味)ことはできるのです。
 人間には癌になる性質が宿っています。だからといってその性質それ自体をなくそうとすれば、人間を殺さなければならない。癌の細胞と健康な細胞とはそれくらい似ているのです。でも、性質はぜんぜん違います。正反対です。でも、癌ができないように注意することはできます。あるいは、癌ができても、それを除去する、あるいは放射線などで「無力にする・滅ぼす」ことはできます。同じように、神の子イエス様がわたしたちに顕れたのは、わたしたちの内に潜む悪魔の性質が「働かない」ようにするためです。
 ではどうしてそんなことができるのか(9節)? 「神から生まれた者には、神の種がこの人の内にいつもあるからです」とあります。神のみ子イエス様を通じてわたしたちに「神の子」の性質が与えられます。「子」というのは、「その父と同じ性質を持つ」という意味です。だから「アブラハムの子」というのは、アブラハムの信仰と同じ信仰を抱いている人のことです。血筋のことではありません。アブラハムは「ユダヤ人」だから、「ユダヤ人」のことだと思ってはいけません。
 「神の子の種」と言うのは、だからわたしたちには神のみ子イエス様の性質が「宿っている」(これが原語)ということです。これはもう皆さんはおわかりのとおり、イエス様のみ霊を指しています。でも、ヨハネはここで「種」と言っています。ここでイエス様の種蒔きのたとえ話を思い出してください。そこでイエス様が「種」と言われたのは神のお言葉のことです。聖書のお言葉が種です。神様は、今でもこうして世界中にいろいろな方法で、お言葉の種を蒔き続けておられる。ある種は育って実を結ぶけれども、ある種は悪魔によって食べられてしまう。どうか食べられないように、心の深いところへお言葉の種を埋めてください。それが、イエス様のみ霊の命を宿す種ですから。そこからみ霊の命が芽生えてくるのです。
 でも、特にヨハネがここで「種」と言うとき、もう一つ大事な意味がこめられています。これも皆さんご存じの「創世記」の1章にある「種類にしたがって実を結ぶ」草木の種です。神様は、「種」によって、植物も獣も、そして人間も生まれて増えるようにされたとあります。「創世記」の「種」は、ですから「創造の種」です。命を造り出す力を宿す種です。ヨハネがここで「種」というのは、この意味です。
 癌細胞ができると体内にある健康な細胞が、これと闘って細胞を殺します。こうして命を造り出す。「造り出す」ことが悪を「殺す」ことになる。逆に発がん物質というのは、癌を生じさせる働きをするのではありません。癌と闘う健康な細胞を殺したり、だめにする働きをする物質(タバコのように)のことです。癌と闘う細胞が働かなくなると癌を抑えることができなくなるのです。そうすると人間に体に潜む癌の傾向が現れます。
 イエス様のくださる「神の種」は、わたしたちの内に働く悪の種と闘う力をそなえています。わたしたちに潜む悪の性質それ自体はなくならない。あるいは、それが時々現れて、悪いおこないをさせます。前の時に読んだとおり、「自分には罪がない」と言う人は偽り者です。悪をおこなったことがないと言うのも嘘です。しかし、イエス様のくださる種には、この悪い性質と闘って、これを抑えて、逆に命を造り出す性質が宿っているのです。 
 ここで「造り出す」というのは、常に常に、働き続けているということです。「いつもある」という訳はやや弱いです。「常に働き続けている」という意味です。わたしたちの肉体は、10年でほぼ全部の細胞が入れ替わる。古い細胞が死んで、いつもいつも新しく造り出されているのです。
  ここでヨハネは、「互いに愛し合う」ようにと、わたしたちに裏と表から同じことを勧めています。今まででわかったように、わたしたちには「悪魔の子」となる可能性と「神の子」となる可能性があります(10節)。神の子か悪魔の子か、命か死か、愛か憎しみかです。そのどちらになるかを決めるのはなんでしょうね。ちょっと読むと、ヨハネはここで、わたしたちにふたつの性質が「存在している」のだと述べているだけのようにとれます。でも、それは違います。「初めからの教え」とあります。ヨハネはここで、「教えている」のです。もっと正確に言うと、わたしたちに「伝えている・わからせようと」(これが原語)しているのです。イエス様の種には「互いに愛し合う」力が宿っているんですよとね。このことをしっかりとわかってほしいのです。(ここでヨハネが教えていることは、パウロが「律法から解放されてキリストのみ霊の法則に生きる」と述べていることと相呼応します。)
 「知る」という言葉はヨハネにとってとても大切です。わたしたちは「わかった?」と聞かれますと、「はい」と答えます。そうすると「わかったら、そうしなさい」と言われます。神様のお言葉を聞いて、イエス様の種を宿して、その働きを信じる。わたしたちの内にこの世でおこなわれる罪の力が働きかけてきても、あえてイエス様の罪の赦し力を信じるんです。聖書のお言葉がわたしたちに告げてくださっていることを信じる。信じるとはこれに聞き従うことです。あえてそちらのほうを「選びとる」ことです。でもどうすればそんなことができるのか? 祈ることです。祈りが大事になってきます。(ここでヨハネが「知る」と言っているのはパウロの「信じる」に当たります。)
  12節にはカインの例がでてきます。なぜカインは弟アベルを殺したのでしょう? それは彼が、悪のほうに「所属した」からです。彼は悪のほうに自分の身を委ねて、その悪に「支配されて」しまった。その結果殺人を実行したのです。こういうときに、人間は弱いです。ここまでいかなくても、わたしたちはカインのようになって、罪を犯すことがあります。しかし、イエス様の種を宿すことは、この「悪魔の業を滅ぼす」ことです。そんな時に、もう一つの命の力が「生まれて」くる、「造り出されて」くるんです。信じるというのは、現に存在しているから信じるのではない。聖書のお言葉を信じるというのは、生みだし造り出す力が来ることです。わたしたちには、そういう力が具わっているのですよとヨハネは教えています。
 たとえ自分の内に憎しみやねたみやそのほかいろいろは悪の力が働いても、それを克服していく力がイエス様から与えられています。その時わたしたちには、「死から命へ移る」(14節)ということが起こります。自分が死んでいるから人を殺す。自分が活かされていれば人も活かす。これが人間です。それをやらないで、あえて悪の働きの中から出ようとしない。これがここで言う「死の内に留まる」ことです。 わたしたちはイエス様の種によって、愛し合うことができるんです。悪に「負けない」んです。「イエス様を信じる者は、この世に働く悪に勝つ」(5章)と言うのもこの意味です。(ここでヨハネが「兄弟を憎む」ことを悪魔の業と述べて禁じているところは、パウロが「貪るな」を例にあげて、これを律法として守ろうとすればするほど、自分の内に「貪り」が生じると嘆いている部分と相通じています。人は自分の力で「憎しみ」をなくすことはできません。→1章8〜10節を参照。)
人間の肉体には、自然の定めによって、死ぬという機能が組み込まれています。自然は、この働きによって、人口が増えすぎないように調節しているのでしょう。ですから、人は生まれたときから死に向かって歩んでいる。生きることと死ぬこととは裏表です。こういう自然死が、日本人の死の考え方を支配しているようです。ところが、聖書の「死」はちょっと違う。もちろん自然な死もあるけれども、「死」は罪の結果である。あってはならないと言う考え方をします。ヨハネがここで「死から命へ移った」と言うときの「死」がこの意味です。(ここでのヨハネの言う「生」と「死」とは、パウロの「霊」と「肉」とに相通じるところがあります。)
 産業大学に勤めていたときに、ハーヴァード大学出のユダヤ人の友人がいました。彼は、アメリカが日本に原爆を落としたことについて、もし私が日本人なら絶対にアメリカを赦さないと言っていました。日本人は、地震で死ぬのも火事で死ぬのも、噴火で死ぬのも、戦争で死ぬのも、いじめで死ぬのも皆同じことだとあきらめているところがあります。ところが、地震で死ぬのと殺されるのとでは全く違うと考えるのです。人間の悪によるカインの罪は徹底的にその責任を追及するんです。これが、罪の結果としての「死」、ヨハネの言う「死」の意味です。人が人を殺すのは悪魔的な死の力が働いていますから、これは自然死ではない。人間が病気やそのほかの不可抗力で肉体の命が失われるのとは違った意味での「死の力」が存在しているのです。
  これに続けてヨハネは言います。「すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」(15節)。闇の力、死の力、憎しみの力、悪魔的な力、これが働いているのがこの「世」です。ヨハネは「世」という言葉をこういう意味で遣っています。ところが、イエス様が顕れてくださったのは、このような悪魔の業を滅ぼしてくださるためです。イエス様はわたしたちの罪の赦しのためにご自分の命をもって贖いのみ業を成就してくださった。これが神からの「愛」であり、恵みです。ここに神のわたしたちへの愛が示されています。すばらしいです。でもこれがどんなにすばらしいかがわかるためには、この愛を「信じる」ことがなければなりません。それは「信じる愛」です。「ただ信じる」です。
  わたしたちは、いろんなことをむやみに信じてはいけません。けれども、このイエス様を通して顕れた神の愛です、これはただ信じる、これしかないんです。「信じる」という人間の行為は、こういうときに大事です。どうか皆さんも、「疑う者」にならないで「信じる者」になってください。そうすれば、これがどんなに大きな恵みであり喜びであるかがわかります。イエス様の贖いによる罪の赦し、これを信じることができるというのは、大きな喜びです。それは命ですから。
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