神は愛である
第一ヨハネ:4章7〜19節
【聖句】


【講話】
  7節に、互いに愛し合いなさいと呼びかけがなされています。これはもちろん命令ではなくて、イエス様の導きによって私たちが自然とそうなるんだよと響いてきます。このことは、この前お話ししたことですね。ですからこれに続いて、ヨハネは「愛は神から出る」と言っているのです。同じことなんだけれども、ヨハネは「神から生まれてくる」「神を知っている」とも言っています。
  同じことを8節では裏から言っていますね。愛することのない者は、神を知らない。神は愛するとね。人間は、自分が愛されていることを知らなければ、人を愛することができないんです。神様が自分を愛してくれていることを知って、初めて人に対する愛がわいてくるんですね。
  9節ではそのような神の愛が、どのようにして私たちの内に顕されるかを示しています。それは神様が「独り子」をこの世に贈ってくださったからです。独り子というのはイエス・キリストのことですね。でも「この世に」とあるのに注意してください。神様が独り子を贈ってくださったのは、「心の正しい人」、あるいは「教会へ行っている人」のためだとは言っていないんです。神様を全く知らない人、神様を抜きにして生きている人、つまり私たち自身や私たちの周りの人たちのことです。現実にこの世の中で生活している人たちのことなんです。そういう人たちのところへ神様はみ子を送り込んでくださった。そうしてイエス様によって、私たちが生きていくことができるようにしてくださった。こういう意味です。ここで「生きる」というのは、死んでいたのに生き返ったという意味もありますが、同時に私たちがこの世の中にあって生きていく、現実の中で生活していくという意味も込められています。
  つまり神様は、イエス・キリストを送り込まれて、私たちに愛を顕すことで、私たちのうちに現実の生活を通じて、愛を具体的に顕してくださる。ですからこれは10節にあるように、私たちが神を愛したのではないのですね。そうではなくて、神様が先に私たちを愛してくださったのですね。十字架においてイエス様がご自分の尊い命の血を流すという犠牲を払って、私たちの罪の赦しのために死んでくださった。このことによって私たちの内にイエス様の聖霊が宿る。これが罪の赦し、罪の贖いの意味なんです。
  11節に、このような神様の愛を私たちが受け入れることによって、私たちが、自分自身利己的な者であり罪深い者でありながら、初めて自分の周囲にいる人たちに、幾ばくかでも愛の言葉を語り、愛の業を実行していくことができるんだとあります。神様は、このようにして、私たちでも互いに愛を実行できるようにしてくださった。これが「私たちもお互いに愛し合うべきである」とある意味です。
  ところが、神様、神様と言っても、いったいその神様はどこにいるんですか? とまあ、こういう質問が出るわけです。そこで12節です。「いまだかつて神を見たものはいない」とありますね。ヨハネ福音書の1章18節に、「神を見た者はいない。ただ父の懐にいます独り子だけが神を顕してくださった」とあります。これは、私たちには神様は見えないけれども、このイエス様を通じて、私たちは初めて、神様の愛を知ることができるということです。聖書は、見えない神様が、イエス様を通じて私たちに顕れてくださったと教えています。ところがここでヨハネは、もう一歩進めて、私たちがお互いに愛し合うなら、それは、イエス様が私たちの内に働いていてくださる証拠なんだと言っているのです。私たちがイエス様に出会うことと私たちが人を愛することとは、本当はひとつなんですね。
  13節では、神様が、私たちにご自分のみ霊を宿らせてくださったとあります。このことで、神様が私たちの内に宿ってくださることがわかるんです。これがみ霊の交わり、コイノニアの始まりです。イエス様の十字架の贖いによって、私たちの罪が赦されるという深いみ霊の愛が、私たちに示されるのです。これが私たちに与えられたイエス様のみ霊の働きです。イエス様の愛に接して、初めて私たちのうちに神様の霊が宿っていることがわかるんです。自分ではないんだ、自分の力でやっているんではないんだ、み霊の働きなんだ、このことがわかるんです。こうして神様が私たちの内に宿っていてくださることをはっきりと知るんです。イエス様が自分の内に働いておられることがわかるんです。
  こうすることによって、自分のようなものでも、イエス様のみ霊の愛によって、現実のこの世の中でも何とか人々を愛していくことができる。このことが、父なる神様が私たちを通じてこの世の人々に愛を証する方法です。イエス様が救い主としてこの世に来られたんだよということが、初めて自分にも人々にも見えてくる。こうして、神様の愛を証することができるんです〔14節〕。
  15節に「告白する」とあるのは、「同じことを言う」という意味です。同じことを言うとは、何と同じことを言うのかと言えば、それを神様がお語りになることと同じ事という意味です。では神様と同じことというはなんのことかと言えば、それは神様のお言葉と同じことという意味です。では神様のお言葉とは何か? それは聖書のお言葉です。聖書が神様のお言葉なんですね。ですから私たちは、聖書を告白するのです。聖書と同じことを言うのです。では聖書のお言葉はなんと言っているのでしょうか。イエス様の父なる神が、その独り子であるイエス・キリストを現実の世の中にお遣わしになって、私たちの罪の赦しを成就してくださった。そしてみ霊となって私たちに宿ってくださっていることです。「神がその人のうちに宿り、その人もまた神にいる」ということです。
  これが、神様が私たちに対して抱く愛を知って信じている〔16節〕ということなんです。どうぞ皆さん、イエス様があなたを愛していること、イエス様に現れた神様の愛を堅く信じてください。自分の内にそうでないという声がどんなに聞こえてきても、どうか堅く信じてください。自分の声、自分の考えよりも神様のお言葉を大切にしてください。お言葉に耳を傾けてください。そうすればあなたは変わるんです。あなたの心が変わるんです。神のお言葉はみ霊を通じて働くんです。
  そうすれば17節にあるように、イエス様の愛が、私たちのうちに成就されて、私たちは確信もって立つこができます。この世の中での私たちの有り様はイエス様の有り様なんです。
  だから愛には恐れがない〔18節〕。イエス様のみ霊にある神の愛が、私たちの内に成就されると、み霊の愛は恐れを追い出してくれます。皆さんどうぞ分かってください。どんなにいろいろなことがあっても、神様のほうが先に私たちを愛してくださったのですから〔19節〕。私たちの人間的な愛や気まぐれな感情では、とてもこの世の中はやっていけません。私たちの愛情なんて変わりやすいです。でも神様は愛です。でも私たちの愛は神ではないんですよ。どうぞこのことを忘れないでください。もちろん様々な人間の愛情は大切です。でもこの順序を逆にしてはいけません。人間の愛情には恐れが伴います。「懲らしめ」が伴うのです。私たちは、恐れを伴う愛から、恐れを伴わない愛へ向かってイエス様を求めて歩みましょう。
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