ヨハネ福音書の「真理」
      学友との研究会で (2021年2月3日)
      ヨハネ会(2021年10月16日)
 
■「真理」の三つの働き
  ヨハネ福音書の「真理」(アレーセイア)は、「働きかける」霊的な真理という特性を具えています。こういう真理は、神学的な理論でも哲学的な観念でもなく、「現実の生活において働く」出来事のことを指しています〔私市『改訂版ヨハネ福音書講話と注釈』(上巻)419頁/(下巻)1284頁/同1370頁〕。この「真理」の働きの具体的な有り様について、次の三つを指摘します。
(1)「真理」(アレーセイア)は、これの形容詞(アレーセース)と副詞(アレーソース)と共に、日本語では「ほんとう」が適切です。「神はほんとうにおられる」「聖霊はほんとうに働く」「あなたの言うことはほんとうだ」「ほんとうのことを言えば」などがこれです。「ほんとのことを言う」は、包み隠さず本心を言うことも含みます。真心から本心を語る。これが大事な特徴の一つです。ヨハネ1章47節で、ナタナエルへのイエス様からのお言葉「あなたはほんとうに/のイスラエル人。偽りがない」がこれです。ヨハネ福音書独特の「アーメン、アーメン、私は言う」は、内容だけでなく「本心から」から語ることです。この特徴が重要なのは、マルコ12章14節(マタイとルカの当該箇所)で、「カイザルに税金を納めるべきか?」と問われた時、イエス様のことを「あなたは真実に語り、真理に基づいて人にはばからず教える」とあるのに通じているからです。共観福音書で「真理」が扱われるのは、この箇所だけですが、ヨハネ福音書は、共観福音書が伝えるこの「真理」を受け継いでいるのです。
(2)ヨハネ福音書の「真理」の本質的な有り様は、ヨハネ14章6節の「私は道であり、真理であり、命である」に尽きます。真理とは「イエス様」その人のことだからです。それ以上でも以下でもありません。ここは「エゴー・エイミ(わたしは今も居る)。このことが、人の道であり、人の命そのものであり、人のまことであること」を意味します。だから、ヨハネ福音書では、地上のイエス様と復活のイエス・キリストとが重なり合っています。 ヨハネ福音書は、今も、わたしたちに、このことを発し続けているのす。
 ところが、地上に居られたイエス様と御復活のイエス・キリストのこの二重性が、その解釈をめぐって、ヨハネ共同体を分裂させる原因になります。このために、第一ヨハネ4章1節〜2節では、「真理」が三度繰り返されて、「イエス・キリストが肉体を具えた人間としてこの世へ来たこと」を否定する者は「反キリスト」だと言うのです。しかも、これが、第一ヨハネ2章20〜23節では、「真理を知る」「真理から出る」ことが、「油注がれること」であり、「御子を告白する者は御父を持つ」とあって、ここに、後の三位一体の原型が提示されています。この長老は、ヨハネ14章26節の「父が私の名によって遣わす聖霊」こそが「真理の霊」(同17節)であることを受け継いでいるのですが、この26節は、ニカイア会議(325年)において、三位一体の教義の形成に大事な働きをしました。
(3)ヨハネ8章32節には、「イエスに留まる者は真理を知る。真理はあなたたちを自由にする」とあり、ここで「自由」が四回繰り返されます。アブラハムの子孫とはだれか?をめぐるこの論争は、パウロを受け継いでいます。
 以上の3点から、ヨハネ福音書の「真理」は、パウロの「真理」と共観福音書の「真理」を受け継いで、これをイエス・キリストの在世中と復活以後との二重時間において統合させているのが分かります。ヨハネの手紙は、その統合された真理が、「ナザレのイエス様」と結びつくことを再確認した上で、「三位一体の神」へ向けてこの真理を発展させるのです。新約聖書の「真理」から三位一体の真理にいたるまでの全過程に、ヨハネ福音書の「真理」が大事な役割を果たしているのが見えてきます。ちなみに、三位一体の神こそ、キリスト教の「真理」を表しており、第一ヨハネの手紙の「神は愛である」が、この「真理」に対応していることを銘記してください。
(4)ヨハネ福音書の「真理」で、どうしても見逃すことができないのが、6章55節の「わたしの肉はまことの食べ物。私の血はまことの飲み物」です。ヨハネ福音書独特のこの「まこと」は、4章14節の「いつまでも渇かない水」「その人の中で湧き上がる泉」に始まります。「いつまでもなくならない」は、「永遠」に結びつきます。しかし、それは、ギリシア的な「イディア」が意味する抽象的な「永遠性」のことではありません。「いつまでも、いつまでもなくならない働き」のことです。これが、「エルサレムでもゲリジムでもないところで行なわれる霊とまこと(アレーセイア)の礼拝」(4章23節)の真意です。ヨハネ福音書の「まこと」が祭儀(サクラメント)と関連するとすれば、この箇所でしょう(6章55節も聖餐を示唆します)。だから、この「いつまでもなくならない」は、6章35節の「何時までも飢えることがない命のパン」になります。
■いつまでも続く「真理」
 ヨハネ福音書で繰り返し出てくる「真理」と「永遠の命」とが、どちらも共観福音書では、ほぼ一回だけなのは偶然でしょうか? 「永遠の命」も、共観福音書では、 一度だけで、「永遠の命を受け継ぐために、どうすればいいでしょうか?」とあるところです(マルコ10章17節とマタイとルカの当該箇所)。注意したいのは、ここマルコ10章17〜18節で繰り返される「善い先生」「善いもの(アガトス)」「善い神」の「善い」です。ここでは、「まこと/永遠」が「善いもの」と結びつきます。「まこと」が「善い」と結びつくのは、ヨハネ福音書では10章11節の「善い羊飼い」であり、同33節の「私が行なう善い業」です。ここのギリシア語は「カロス」(善い/美しい)で、「アガトス」でありません。現在のギリシア語で、「今日は」(カレーメラ)は、「カラ・ヘーメラ」のことです。これは「麗しい日」ではなく「善い日」のことです。ヨハネ15章1節の「まこと(アレーシノス)の葡萄の樹」も「善い」の意味です。ヨハネ福音書では、このように、「善」と「真理」が重なります。このように「善と悪」、「真理と偽り」とが重なり合うのです。だから、「「<悪>を行なう者は光を憎む。しかし、<真理>を行なう者は光の下へ来る」とあるのです(3章20〜21節)。
 ヨハネ福音書の「アレーセース」は、日本語の「まこと」に相当すると言えましょう。「これぞまことの・・・・・」と言うのは、「ほんもの」「とても善い」「すばらしい」の意味を含みますから、日本語の「まこと」がぴったりです。文語訳の「まことに、まことに汝等に告ぐ」を想い出します。そうだとすれば、冒頭で指摘した「ほんとう」のことを言ったり行なったりする人こそ、「まこと」の人です。「ほんとう」に始まり、「まこと」で終わる。神の「ほんとうのまこと」こそ、ヨハネ福音書の「真理」(アレーセイア)が指していることです。では、その「まこと」とは、何でしょうか? 1章14節に「恩寵(カリス)とまこと(アレーセイア)に満ちあふれる受肉」とあります。人の罪を赦す十字架の「恩寵」と、神の御言葉が人と成ったイエス・キリストの「受肉」の出来事恩寵と受肉、この二つです。これが、神の「まこと」です。この「まこと」は、次の歌をも想い出させます。
「目に見えぬ神の心に通うこそ、人の心のまことなりけれ」(明治天皇の尚憲皇太后)。
このエッセイは、学友同士の研究会で、市川喜一さんの「ヨハネ福音書の真理」について私が述べたものを手直ししました。
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