「啓示」について
ヨハネ5章19〜30節(聖書協会共同訳)
ヨハネ会(2022年10月15日)
■啓示の出来事
ヨハネ5章19〜30節から「啓示」について語る前に、この箇所の前提となっている出来事(5章1〜18節)を見ておかなけばなりません。ベトザタの池の辺(ほとり)で38年間病気で苦しむ人にイエス様が「床を取り上げて歩きなさい」と言われると、病人はその通りにできました(5章8〜9節)。これは、イエス様からその人に与えられた「癒(いや)しの啓示」です。だから、この啓示は、イエス様の「御言葉の出来事」です。「人の想い」では理解できない出来事です。
ところが、その出来事が安息日に起こったために、律法を司(つかさど)るユダヤの支配者たちは、イエス様が起こした出来事のゆえに、イエス様を迫害します。イエス様は、彼らに言います。「私の父なる神は、今にいたるまで、ずっと(出来事を)起こしてきている。その通りに、私も出来事を起こす」と。これを聞いた律法の指導者は、そのパワー(原語は「エネルギー」のこと)に感心するどころか、逆にイエス様を殺そうとします。イエス様が、神に向かって「父よ」と呼びかけると、イエス様が言われたとおりのことが「起こった/為された」。しかも、その出来事が安息日だから律法に反する。それだけでなく、イエス様は、自分を神と同じだと「装(よそお)っている/でっち上げている」。だから、彼らはイエス様を迫害し、殺そうとするのです(5章17〜18節)。
こういう一連の出来事と、これにまつわる人々の対応を見て、「なにかが、おかしい」、こう感じ取ることができます。その疑問に応えるのが、続く5章19節からです。マルコ福音書なら、ここで、出来事の描写だけで終わります。ルカ福音書なら、イエス様の「善い」御業を褒(ほ)め称(たた)え、律法違反を唱えるユダヤ人を悪者にします。ところが、ヨハネ福音書は、ここで、皆さんが抱くその疑問に真っ正面から応えてくれるのです。
■啓示の意義
では、その疑問を以下で七つに分けて見ていくことにします。
(1)啓示の超人性
38年間治(なお)らなかった病人が一瞬にして癒(いや)される出来事は、人間には不可能です。神のお働きによるほか、ありえないことです。「私は居る」(「ヤハウェ」の原義「ハーヤー」は、「居る/起こる」こと)(出エジプト記3章14節:聖書協会共同訳による)という主の御名が意味することへの証(あかし)です。
(2)啓示の人間性
イエス様は、自分の「父」(ヘブライ語「アーブ」)なる神によって生じた出来事であると明言します(5章17節)。「お父さん!」(アッバ)と祈るイエス様の姿が、マルコ14章36節では、「アッバ、ホ・パテール」と、アラム語とギリシア語の組み合わせてでてきますが、「お父さん」は、啓示に具(そな)わる人間性を言い表わします。そこでのイエス様は、「あなたはなんでもできます」と呼びかけますから、啓示の超人性が、人間性と祈りの中でつながります。神を「父」と呼ぶのは、ユダヤ教ではまれですから、これはイエス様独特の「呼び方」だと言えます。ちなみに、「父」は、マタイ福音書で57回ほど、マルコ福音書で16回ほど、ルカ福音書で44回ほどですが、ヨハネ福音書では100回以上です。祈りは、神から人への啓示の通路なのです。
(3)啓示と制度
この啓示の出来事は、政治と宗教が一体化した国の法律に違反するという非難を受けます。今の日本なら、政教分離ですから、宗教問題で国から罰せれれることがないはずです。ここでは、啓示をめぐって、政治と宗教とが関係する「政教関与」と、両者の無関係を原則とする「政教分離」とが関係します。宗教と政治の狭間には、政教分離か、政教関与か? という大事で難しい課題が潜んでいます。
現在(2020年10月)、統一教会が問題視されています。その理由は、お金を詐欺まがいのやり方で献金させるからだと言われています。しかし、それなら、統一教会だけでなく、日本には、お金を上手に巻き上げる宗教団体はほかにもあります。統一教会と自民党議員との関係が問題にされる「ほんとうの理由」は、ほかにあります。それは、この宗教団体の信条には、日本を侮辱する内容が含まれているからです。ところが、日韓関係を考慮するからか、「このこと」をはっきり言う人もメディアもあまりいません。イエス様の癒しが安息日違反だと決めつける指導者たちにも、ほかに、ほんとうの理由が潜んでいます(マルコ15章10節を参照)。政教分離は、政教関与を否定するためでなく、「正しい」仕方で関与すること求めるためだからです。
(4)啓示の解き明かし
こうなりますと、イエス様が行なった出来事が、あるいは、イエス様が語った言葉が(言葉現象)、どういう意味を持つのか? これを「解釈して理解する」必要があります。これが啓示の「解き明かし」(釈義)です。これには、「啓示」それ自体を否定することも含まれます。これを行なうのが、知恵の御霊に導かれた私たちの「人知」です。霊知こそ啓示を解き明かす鍵です。
では、その解き明かしについて見ることにします。
(5)啓示の多重性
〔A〕イエス様が行なった癒やしの御業(みわざ)は、国の法に背(そむ)くことでしょうか?
当時のユダヤの国の「法の精神」は、「モーセ五書」(創世記か申命記まで)に基づいていました。イエス様は、この「モーセの教え」に背く行為を行なったのでしょうか? ところが、イエス様は、逆に、モーセがイエス様の味方であると告げています。その上で、裁判になれば、相手の側こそ「モーセから訴えられる」と告げています(5章15〜17節)。
〔B〕「ベトザタの池」とありますが、実際に行って見れば、立派な「水の神殿」であったことが分かります。だからこそ、大勢の人が癒(いや)しを求めて集まったのです。イエス様の出来事は、その神殿が、無効で「役に立たない」ことを証(あかし)するものでしょうか? それとも、神殿に居たからこそ、イエス様の癒(いや)しに与(あずか)ることができたのでしょうか?そのどちらとも受け取れます。
〔C〕ベトザタの水の神殿には、病気癒(いや)しで有名な、ギリシアのアスクレピオスのカミも祀られていました。そうだとすれば、イエス様の癒(いや)しは、ユダヤ教だけでなく、異教のカミからの功(く)徳(どく)にも与(あずか)ることでしょうか?
〔D〕これが、現在の出来事なら、癒(いや)された人の人体を医学的に徹底的に調査して、癒(いや)しの「物証」を見いだすこともできます。それなら、癒(いや)しは、神の業(わざ)でも啓示でもない。ただの自然現象だとあなたは判断しますか。
ヨハネ5章のベトザタの池は、誕生してから20万年とも言われるホモ・サピエンスが、 長い間の様々な呪(まじな)いや偶像礼拝や自然崇拝を通じて求めてきた人類の願望と、もろもろの宗教が行なってきた祈りと、その両方を貯えた聖なる水の神殿だったのです。
これらのことから、病気癒(いや)しの啓示には、一つだけでなく、いろいろな意味が重ねられてくることが分かります。ここに、一見単純な「啓示」に潜む意味の多重性を読み取ることができます。「判断される」のは、啓示の出来事のほうではなく、これを「解釈する人」のほうです。
(6)啓示の個人性
5章1〜18節には、「イエス」が繰り返し出てきます。これに対して、5章19〜20節では、「(神の)御子」が繰り返され、「人の子」がでてきます。前半の「イエス」から見ると、ここの癒しの啓示は、「イエス」という「一人の個人」と密接に結びついています。「啓示」とは、常に「だれかからの」啓示です。「だれから」の啓示か? これが、啓示の個人性です。啓示の出来事それ自体は、人格性を具(そな)えていませんから、「だれからか」を明らかにしません。このように、啓示の場合は、常に「だれからか?」と、その人格性が問われます。なぜ、そのように、啓示の出(で)所(どころ)、すなわち、その発出者が問われるのでしょうか? それは、啓示とは、その人だけに留まらず、常にその人が所属する共同体と密接に関わるからです。
啓示のこの「共同性」は、後半で、イエス様を「御子」と呼ぶだけでなく、「人の子」(5章27〜28節)という不思議な呼び方で言い表わされます。日本語の「人の子」と比較してみてください。「啓示」に接することで「あなた」(自分)とは何者かが啓示されるのです。
(7)啓示の信憑性
最後に最大の疑問が来ます。その人が語る啓示は、その人の妄想や勝手な思い込みからでているものではなく、ほんとうに「神からのもの」なのか? という疑念です。これは外からは判断できません。「その人」だけが、ほんとかどうかを知っているからです。「自分から」語るのか?それとも「神がその人を通じて」語っておられるのか? これが問われるのです。
「お前は自分を神だと自称している」(5章18節)。ユダヤの支配者のこの批判に対して、イエス様は応えます。「私は自分からは何一つ行なわない。全部、父がなさることをそのまま行なっているだけだよ」と。この答えが、イエスと支配者との問答の始め(5章の19節)と、終わりに来て(5章30節)、対話全体を囲んでいます。
啓示の出来事が、その人からか? それとも、その人を通じて神からか? これを何処(どこ)で判断するのか? 応えは、啓示の出来事へ戻ります。その出来事が、「人に命を与えるか? それとも裁きをもたらすか?」です(5章27節)。これこそ、父なる神が、御子を通じて行なわれる啓示の御業の本質だからです。啓示が、人を生かす「善い」出来事なら、父から出たものです。人を殺す「悪い」出来事なら、イエス様の父からではなく、悪魔からです。
イエス様は善い羊飼いであり、善い羊飼いは、羊に善い命を与えます。羊泥棒、羊強盗は、羊を奪い殺すのです(10章10〜12節)。
その人からの啓示が、ほんものかどうかは、その人が告げる啓示の出来事が、自分を善く生かすか、殺すか、で判断できます。ところが、これを判断するためには、その人からの啓示を「信じる」ことでしか分かりません。ヨハネ福音書には、名詞形の「信仰」は、一度もでてきません。ところが、動詞の「信じる」は100回近くでてきます。「信じる」とは動くことです。動こうとするなら、「恐れず、怖がらず、神を信じ、イエスを信じる」ことです(ヨハネ14章1節)。
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