ヨハネ6章からの御言葉
       (ヨハネ会2023年6月17日)
▼はじめに
 ようやく、年2回の「ヨハネ福音書を思いっきり自慢できる会がめぐってきました。嬉しいです。自慢するのは、ヨハネ福音書以外は聖書の文書でもいいわけですから、この会に出なくても一向に差し支えありません。また、何時この会を辞めても、一向に差し支えありません。こういう自由があるから、今日は思いっきり自慢できます。今回は6章からですから、どうぞ6章を思う存分お語りください。よろしくお願いします。
■6章の鍵になる箇所 
  ヨハネ福音書を信じる会にとって、6章は特別な章です。この章を信じることが、即ヨハネ福音書を信じることだ。こう言ってもいいほどの箇所だからです。鍵となる箇所は、
(1)「嵐の風と<エゴーエイミ>」(6章18/20節)。湖水は、大きな風が吹いて、目覚め騒いだ。まるで、リバイバルをもたらす台風のようです。すると、イエスが弟子たちに顕われて、「エゴーエイミ・怖がるな」と言われます。イエスが彼らの船に乗ると直ちに嵐は鎮まります。
(2)「天から下る永遠の命のパン」(同27/33節)。無くなる食事のためでなく、何時までも残る/保つ命を与える食べもののために、一所懸命になりなさい。
(3)「人の子をただ信じる」(同6章29/53節)。神から遣わされた方(者)をただ信じる。これが、神業(かみわざ)です。信じることで初めて真理が理解できます。
(4)6章全体の締めくくりです。霊言有理即無理(同6章つ66/68節)。
   (1)はマルコ福音書。(2)はルカ福音書。(3 )はパウロ。(4)は、ヨハネ福音書特有のアイロニーです。そこで、(4)について語ります。
■去る者と残る者
  「この人の言うことには我慢できない。」もしこれをイエスに向かって言えば、イエスから答えが返るはずです。だから、ここは、イエスに向かってではなく、互いに、こそこそ言い合ったのでしょう。大勢(おおぜい)の弟子たちは、なんにも言わず、イエスに背を向けて「黙って」立ち去りました。イエスは、「残った」弟子たちに問いかけます。「あなたたちも、立ち去ろうとするのか?」すると、ペトロが、残りの弟子たち(11人?)を代表して答えます。「主よ。(あなたから離れて)いったいどこへ行くのですか? 永遠の命の事(言)は、あなたに実在します」。
    反対と批判なら、誰でも何時でもできます。けれども、反対や批判からは、「それなら、自分はどうすればいいのか?」と問いかけても、答えは何にも出てきません。だから、ペトロは言いました。「私たちは、ただイエス様を信じて従い続ける。これ以外に、なにをするというのですか?」「あなたに従って歩む」よりほかに、私たちには道がないのです。」
    何にもしないのは、何にも信じないことです。「信じる」(ヨハネ福音書は動詞形だけ)は、行動を起こして「する」ことです。生きて「生活する」ことです。だから、ペトロは、「あなたに従って歩むよりほかに、私たちには生き続ける道がない」と言ったのです。だから、もう、あっちへ行っては立ち去り、こっちへ行ってはたち去りするのを止めてください。立ち去る自由があるのは、逆に、立ち去ることなく、一つところにどこまでも「居続ける」「留まる」(ギリシア語「メノー」)ことを「促し励ます」ためです(離婚する自由は、離婚を促すためでなく、結婚を護るよう促すためです)。そうすれば、イエス様に「愛され」ます。あっちへうろうろ、こっちへうろうろすれば、あなたは、切り取られて火で焼かれます。「留まる」ためにはどうすれば良いのか? あなたを導いてくださるイエス様を「ただ信じる」ことです。これを「神のまこと」から出た「人のまこと」と言います。
■ただ信じる者
   問われてくるのは、ただひとつ、あなたはイエス様を「神の子」と信じるか?です。 イエス様という「神が人になった」お方を、私たち人間が「理解する」ことなど、できるはずもありません。イエス様の「霊の御言葉」が「我慢ならない」のは当たり前です。だから、たとえ理解できなくても、イエス様を「とにかくただ」信じる。ほかに「どこにも行き場がない」からです。そうすれば理解できるようになります。「神」を「理解する」には、「ただ信じる」しかありません。人間の宗教(信仰)は、どれも相対的です。だから、人の「自由」は自分の不自由、互いに「相対立」(あいたいりつ)する争いが起こります。イエス様を「絶対に」信じることで、「相対」から「絶対」へ移ります。相対者同士は、「相対立し合い」ますが、神の御子イエス様の絶対は、その「赦しと愛」の働きゆえに「相対立」(あいたいりつ)しません。相対は絶対に支えられて初めて、対立し合うことを防ぐことができるからです。
   「あなたは私を信じるか?」ヨハネ福音書を読むと、この問いかけが、どこまでも深く、あなたの心に問われてきます。厳しくもあり、優しくもあります。ヨハネ6章66〜69節は、何処までもイエス様を信じて初めて、真理が明らかになり、真(まこと)の救いが成就すると証しするのです。「私こそ、真(まこと)の命を与えるまことの道」(ヨハネ14章6節)だからです。「神のまこと」が「人のまこと」になるのです。ヨハネ福音書は、私たちに、「イエス様を信じる」とは、どういうことかを、ごまかさず、はっきり教えてくれます。
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