ヨハネ福音書:
       「人の子」と「パラクレートス」
            (2024年3月16日)
 
 私を愛しているなら、あなたがたは、
 私の戒めを守るよう仕向けられる。
 なぜなら、私が父に願い
 もう一人の助け主(パラクレートス)を
 あなたがたに遣わして、永遠に
 共に臨在するよう求めるからである。
 それは真理の御霊であるから
 この世は、これに与ろうとはせず
 これを見ようともしないから
 これの臨在を悟ることがない。
(ヨハネ14章16〜17節)
 
 共観福音書では、聖霊は、イエスの誕生において宿る(マタイ1章18節他)、イエスの洗礼の際に降る(マルコ1章8節/同10節)、聖霊に逆らう罪は赦されない(マタイ12章31〜32節他)、語るべき言葉を聖霊が語ってくださる(マルコ13章11節)。このようなお方です。
 
  ところが、ヨハネ福音書には、「聖霊」という言葉が一度も出てきません。その代わりに、「パラクレートス」(ヨハネ14章16〜17節)がでてきます。パラクレートスが出てくるのは14章以後です。それまでに出てくるのが「人の子」です。ヨハネ福音書では、「人の子」から「パラクレートス」へ移行します。
 共観福音書が描く「人の子」には、二重性が具わっています。それは、「個人でもあり、共同体をも指す」(これは、ダニエル書7章13節の「人の子」を受け継いでいます)、「今、存在すると同時に、将来(雲に乗って)顕現する」「神性を発揮する方であり、しかも人間性を具えている」という二重性です。
 これに対して、ヨハネ福音書が語る「人の子」は、次のような特徴を具えています。
(1)父の神と、子のイエスと、子を宿す人との「交わり」の近さを伝える。
   例えば、ヨハネ1章51節の「天が啓けて、人の子が、神と人との間を自由に上り下りする」というヤコブの観た「はしご」の役割のように。
(2)「人の子」は、地上に居るナザレのイエス個人を指す(6章53節)。
(3)「人の子」は、将来ではなく、現在この世に人と共に臨在する(9章37節)。
 ヨハネ福音書では、パラクレートスが「風」と「水」にたとえられます(ヨハネ3章5節/同8節/同4章10節/同7章38〜39節)。
「風」は、すなわち「霊風無心」をもたらします。
「水」は、すなわち命を生じさせます。
だから、パラクレートスは、
(1)ナザレのイエスの御名によって降ります。
(2)将来ではなく、現在、私たちと共に臨在します。
(3)復活したイエスを「もう一人の」イエスとして、私たちに体験させます。
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