はしがき
 私がヨハネ福音書を文面通りに受け入れて、これを物語風に書き著わし始めたのは、個人誌の季刊『光露』22号(1972年晩秋)からで、これがひとまず完結したのが『光露』51号(1980年冬)においてです。その後、季刊の会誌『コイノニア』創刊号(1993年春)から、「ヨハネ福音書講話」と題して、やや本格的な講解を始め、これが『コイノニア』41号(2003年春)から、「ヨハネ福音書講話と注釈」になり、これが終わったのが『コイノニア』82号(2013年夏)においてです。その後、もう一度最初から読み直して、コイノニア会のホームページで掲載する形式に統一して書き改め、2015年12月にようやく完結しました。
 この講話と注釈は、一般の読者を対象とするもので、学術的な研究書ではありません。だから、文中に引用文献を出す際に頁を省略しました。また、ホームページでの検索を考えて、全体の章を通し番号とし、巻末の手製の簡易索引も、ネットで検索するために、頁ではなく、関連する見出しの章番号と該当する項目名で検索できるようにしてあります。完全なものではありませんが、手軽な検索として利用してくだされば幸いです。
 講話と注釈の本文には、現在カトリックとプロテスタント共同で使われている新共同訳を用いました。読者が直接聖書に接しながら読むのに便利であろうと思うからです。ただし、新共同訳と私の解釈とが異なる場合、あるいは原語や原文の意味が、訳だけでは十分に伝わらないと思われる場合は、その都度注釈をつけました。
 ここで一つどうしてもお断わりしておきたいことがあります。それは私の敬語の使い方についてです。私は、ヨハネ福音書の場合でも共観福音書の場合でも、「講話」の部分では「イエス様」を使い、「注釈」では「イエス」を用いています。注釈の場合はともかく、講話のほうでは、イエス様の御霊の御臨在を仰ぎ、これを拝してこれに生きようとすると「イエス様」を用いることになります。ところが、敬語を一貫させると、どことなくイエス様と自分との間に「距離感」ができてしまうのです。「敬して拝せず」という距離感ではなく、私の場合は「敬して拝する」のですが、御霊の御臨在にあっては、「敬して近づかず」ではなく「敬して近づく」ところに生じる交わりをなによりも大事にしたいのです。ところが、敬語を一貫させると彼我の間に距離感ができて、どうもしっくりこないのです。だから、「(イエス様は)〜しておられる」「(イエス様は)〜と言われる」と書いておきながら、後で読み返して、「〜する」「〜と言う」のようにわざわざ敬語をはずすことがよくあるのです。ヘブライの神観を受け継ぎ、これを発展させた三位一体の神の場合、神と人との関わりの最大の特徴は、その超越性(敬語で表わす)と同時にその近親性にあるのですが、これが日本語の敬語とどうつながるのか、私にはまだ分かっていないのでしょう。はなはだ一貫性に欠ける敬語の使い方だと自分でも思うのですが、私の力不足で、どうにもなりません。お詫びとも弁解ともつかない言い訳ですが、どうかお赦しください。
 この講話と注釈は、現在の学問的な成果をも採り入れていますが、できるだけヨハネ福音書が伝えようとしている通りのイエス様を信じている、あるいは信じようと願う人たちのためのものです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20章31節)。これがこの福音書の著者の願いであり、同時に、これを講話・注釈する筆者の願いです。ヨハネ福音書をこのように読みたいと志す方々に、この著作を献げます。
 なお、今回、改訂版を出すにあたり、聖書の引用箇所の誤記や入力ミスなどを訂正するだけでなく、全体にわたって、文意の不明瞭な箇所を書き改めたり、過剰と思われる箇所を削除したりしました。ただし、これで「遺漏なし」としません。聖書の注解の仕事は、どこまで行っても「赦されて、罪人の書く主の言葉」ですから。
2019年 8月1日         著者
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