1章 ヨハネ福音書の作者
■四福音書と使徒ヨハネ
 ヨハネ福音書の作者を考える場合に、同時にヨハネ共同体の始祖について考察しなければなりません。わたしたちは、まず、ヨハネ共同体の始祖が、使徒ヨハネであるという伝承から検討することにします。四福音書の使徒ヨハネに関する記事を整理してみると、まず「使徒ヨハネの母」から始まります。共観福音書によれば、使徒ヨハネは、使徒ヤコブ(「大ヤコブ」と呼ばれる)の弟で、この兄弟は「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」(マルコ10章35節)です。母は、マタイ福音書の並行記事に「ゼベダイの息子たちの母」(マタイ20章20節)としてでてきます。彼女は、二人の兄弟を伴ってイエスに特別の願いを申し出ています。この「母」は、マタイ福音書では、イエスの十字架の傍らにいた「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、<ゼベダイの子らの母>」(マタイ27章56節)としてもでてきます。そこでは、母の名前は述べられていませんが、これの並行記事であるマルコ福音書に「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、<そしてサロメが>いた」(マルコ15章40節)とありますから、この記事から判断すると、上記の「ゼベダイの子らの母」の名前は「サロメ」であったと推定されます(マルコ16章1節参照)。
 ところが、ヨハネ19章25節では、十字架の傍らにいたのが「イエスの母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア」の4人になっています。この「クロバの妻マリア」がマタイ福音書で言う「ヤコブとヨセフの母」であるとすれば、ヨハネ福音書にある「イエスの母の姉妹」とは、使徒ヨハネの母であるサロメを指すことになりましょう。そうだとすれば、イエスと使徒ヨハネは、母方の従兄弟同士になります。
ヨハネ福音書では、これに続いて、十字架上のイエスが、自分の母を「愛する弟子」に託したとありますが、この愛弟子が使徒ヨハネだとすれば、使徒ヨハネとイエスの母とは、甥と伯母の関係にあたりますから、二人が「母と子」であると言うイエスの言葉が自然に理解できます。ゼベダイの二人の息子は、イエスの内弟子の中でも、ペトロと共に最も中心的な人たちであったことが、マルコ福音書の記事からも分かります(マルコ5章37節)。
 確かに、ヨハネ福音書に使徒ヨハネの名前が一度も表れないのは不思議です。その上、1章35節には「二人の弟子」が洗礼者と共にいて、そのうちの一人がアンデレであることは記されていますが、もう一人の弟子の名は言及されていません。さらに18章15節でも「もう一人の弟子」がペトロと共に大祭司の家に入っています。この「もう一人の弟子」も使徒ヨハネのことではないかと言われています〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。
 ヨハネ福音書では、最後の21章2節に「ゼベダイの子たち」がでてきます。ヨハネ福音書にでてくる「ゼベダイの子たち」は、ここだけですが、「主の愛弟子」が誰であるかについて、ヨハネ福音書は意図的とも思える沈黙を守っています。沈黙は「愛弟子」がゼベダイの子使徒ヨハネであることを示すものでしょうか? 逆にそうではないことを示唆するのでしょうか?現在では両説があり、いずれとも決しがたいようです。しかし、21章7節の「イエスの愛弟子」を同2節の「ゼベダイの子たち」の一人と同一視する説もあり(21章2節の注釈を参照)、愛弟子は、おそらく「ゼベダイの子ヨハネ」であろうと見る説が今でも強いようです〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
 このように、主の愛弟子は、ゼベダイの子使徒ヨハネである可能性を含んでいます。また、この愛弟子によって、ヨハネ福音書からヨハネ黙示録にいたるヨハネ系文書が書かれたとする説も提示されています〔Hengel. The Johannine Question. 130-32.〕。しかし、現在では、使徒とは別人だと見る説も無視できません。2000年以降の最近の傾向としては、それまでの聖書本文への過激な批判に基づく否定説が後退して、逆に古代からの聖書の「外的な」伝承が重視されるようになり、これに伴ってヨハネ福音書とヨハネ書簡とヨハネ黙示録をイエスの愛弟子一人の著作に帰して、しかもそれが、使徒ヨハネ、あるいはこれに近い人物だという説が再提起されているのです〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
■愛弟子と古代の伝承
〔エイレナイオス〕
 次にヨハネ福音書にでてくる「イエスの愛しておられた弟子」に関する記事を見ることにします。ヨハネ福音書には、「イエスの愛弟子」として語られる弟子がいます(13章23節/19章26節/21章20節)。
 この愛弟子に関する古代教会からの伝承を見ると、まずエイレナイオス(130?〜200年頃)は、「主の弟子で、またその胸によりかかったヨハネもアジアのエフェソにいた時、福音書を公にした」と証言しています〔エイレナイオス『異端反駁』3巻1の1。小林稔訳〕。ここで「公にした」とあるのは「与えた」ともとれますが、「書いた」とはなっていないのが注目されます。だから、この証言によれば、この愛弟子ヨハネが、だれかに口述させたと推定することもできます〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。エイレナイオスがここで言う「主の胸に寄りかかったヨハネ」が使徒ヨハネのことであるのは、同じ「主の愛弟子」について、「この<使徒>は・・・・・彼が神のみ言と認める我らの主イエス・キリストについて、・・・・・」〔エイレナイオス『異端反駁』1巻9の2〕と述べていることから明らかです。だからエイレナイオスによれば、「イエスの愛する弟子」とあるのは使徒ヨハネのことになります。
〔エウセビオス〕
 古代の教会史家であるエウセビオス(260年?〜339年?)は、エイレナイオスの証言を引用して、以下のように述べています〔エウセビオス『教会史』V巻23〜24〕。「イエスの愛した使徒であり福音伝道者だったヨハネが、アジアでまだ生きており、そこの教会の監督であった。」彼はさらに、エイレナイオスの証言として、「使徒たちの真の証言として、使徒ヨハネは、パウロが教会の基礎を置いたエフェソにトラヤヌス帝(在位98〜117年)の時代までとどまっていた」とも述べています。
 エウセビオスは、さらに、アレクサンドリアのクレメンス(150?〜215年?)の証言を提示して、「使徒ヨハネは、ドミティアヌス帝(在位81〜96年)の死後に、パトモス島への追放からエフェソに戻って監督を立てるなど、教会の指導に当たった」とも述べています。
 なお、エウセビオスは、ヨハネ福音書のことを「天の王国の知識(グノーシス)を全世界に伝えた」と述べて、その上で、「ヨハネは、文書に書かれていない使信を常に用いたと言われる」と述べ、さらに、「第一ヨハネの手紙は、議論の余地なく使徒のものとされているが、第二と第三の手紙は否定されていること、黙示録とヨハネ福音書の二つの文書が、異なる著者によるかどうかについては意見が分かれている」と伝えています〔エウセビオス前掲書V巻24〕。
〔ポリュカルポス〕
 初代教父たちの伝承をもう少し追ってみます。エイレナイオスは、主の愛弟子ヨハネの弟子であったポリュカルポスの弟子で、177年に今のフランスのリヨンの監督になりました。エイレナイオスは、友人フロリヌスに宛てた手紙の中で、自分は、使徒ヨハネの弟子であった小アジアのスミルナの監督ポリュカルポス(69?〜155年?)にしばしば会ったと述べていて、その際に、ポリュカルポスが、使徒ヨハネや他の使徒たちから主について聞いたことをエイレナイオスに語ったとも述べています。ポリュカルポスが、使徒ヨハネについて語ったこと、またエイレナイオスがポリュカルポスから聞いたとするこの証言は、この福音書の成立に関する重要な伝承とみなされています。さまざまな批判にもかかわらず、現在にいたっても、これらのエイレナイオスの証言は、根本的には否定されていないと見るべきでしょう。ただし、エイレナイオスは、後述するように、エフェソに二人のヨハネがいたことは知りません。彼はまた、福音書も第一ヨハネの手紙とヨハネ黙示録も、使徒ヨハネが書いたと見なしていたようです〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。
〔パピアス〕
 次にパピアスの証言を聞いてみましょう。パピアス(70?〜146年?)は、小アジアにあるフルギア地方のヒエラポリス(現在のパムッカレ)の監督で、エイレナイオスに先立つ人でした。彼は使徒の弟子たちから、使徒たちについての言行を直接聴聞して、これらを集めて『主の言葉の解明集成』を著わしました(130年頃)。再びエウセビオスの引用からパピアスの証言を聞いて見ます。パピアスは、「わたしは長老たちに従った者に会えばいつでも、長老たちの言葉を調べたものである」と述べてから、アンデレ、ぺトロ、フィリポ、トマス、ヤコブ、<ヨハネ>、マタイがどのように語ったかを調べたと述べています。ところが彼(パピアス)は、これに続けて、「それ以外の主の弟子」であるアリスティオンや<長老ヨハネ>もどのように語っているかを調べたとも述べているのです〔エウセビオス『教会史』3巻39〕〔エウセビオス『教会史』秦剛平訳(1)〕。
 この証言によれば、パピアスは二人のヨハネを知っていたことになります。パピアスは、自分が直接聞いた人たちのことを「長老たちにしたがった人たち」と言っています。ここで彼が「長老たち」と言うのは、彼の生きていた年代からするならば、使徒時代の次の世代にあたる長老たちへの呼び名のことではなく、彼が言う「長老たち」とは、明らかに使徒たちをも含めていると考えられます。パピアスは、使徒ヨハネのことをも「長老」という呼び方をしているのです。ところが、彼はまた、自分が直接に話しを聞くことができた人たちのことをも「長老たち」(=使徒の弟子たち)と呼んでいます。彼が成人したのは、85〜90年頃と思われますから、もしもだれか使徒が生きていたとすれば、使徒ヨハネ以外にはいないと考えられます。確かではありませんが、パピアスは、使徒ヨハネに出会ったのかもしれません。
 この点について、エウセビオスは、エイレナイオスからのパピアスに関する証言について述べています。エウセビオスは、「パピアスには『主のロギア(託宣)の解釈』という題名の5巻の諸作が現存している」〔エウセビオス『教会史』3巻39〕と述べてから、エウセビオスは、パピアスの著作第4巻から(?)、パピアスについてのエイレナイオスの言葉〔エイレナイオス『異端反駁』5巻33章の4節〕を引用しています。エイレナイオスはその箇所で、次のような主旨の証言をしています。「パピアスは、自分がヨハネ(のこと/言葉?)を聞いたと、また自分はポリュカルポスの仲間であると、彼(パピアス)の著作第4巻で証言している。パピアスはさらに、これらのことは、信者たちに対して確かだと加えている。」〔エウセビオス『教会史』3巻39〕
 エイレナイオスは、パピアスが「ヨハネから聞いた」と述べていますが、この「ヨハネ」とは、使徒ヨハネのことであると思っていたようです。なるほど、パピアスは、この使徒に出会っていたのかもしれません。しかし、エウセビオスは、この点について注意深く、ここでパピアスの言う「ヨハネ」とは、使徒ヨハネの弟子のほうを意味していると考えています。このように、エウセビオスは、パピアスの言う「長老ヨハネ」とは、使徒ヨハネか、あるいは長老ヨハネか、そのどちらかを区別して考えていて、これはおそらく正しいでしょう。
〔ポリュクラテス〕
 ポリュクラテスは、190年頃のエフェソの監督でした。彼がローマの監督ウィクトルに宛てた手紙の一部が残っています。それは東西教会の復活節の論争に関するものです。エウセビオスは、この時のポリュクラテスの言葉を引用していて、その中でポリュクラテスは、ヨハネ、ポリュカルポス、トラセアスサガリスなどが、復活節遵守の規範となることを述べて、その際に、ヨハネのことを「主の胸によりかかったヨハネ」と呼び、彼が主の「愛する弟子」であったと証言しています。さらにポリュクラテスは、使徒ヨハネのことを「彼は胸当てをつけた祭司であり、殉教者[これは証人とも訳せる]、教師でした。彼もエフェソに眠っています」と述べています〔エウセビオス『教会史』5巻24〕〔エウセビオス『教会史』(2)秦剛平訳〕。この「教師」という呼び方は、このヨハネが使徒であることと矛盾するものではないでしょう。
 ただし、エイレナイオスもポリュクラテスも、エフェソに二人のヨハネがいたことを示唆してはいません。もっとも、このことは、二人いなかったことを意味するのでもないでしょう。ポリュクラテスはヨハネを「殉教者/証人」と呼んでいますが、ここでの「殉教者」という言い方は、「イエスの福音を伝える証人」という意味です。ところが、この「証人」は、ギリシア語で「殉教者」をも意味するために、誤って使徒ヨハネが殉教したという伝承が生まれるもとになったようです〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。
〔アレクサンドリアのディオニュシオス〕
 アレクサンドリアのディオニュシオス(190?〜264年?)は、オリゲネスの弟子であり、アレクサンドリアの監督でした。彼が250年に二人のヨハネを区別しました。彼はこれを、現代の学者のように、福音書とヨハネ黙示録の文体の違いから判断したようです。しかし、これの証拠として彼は、エフェソにはヨハネの名前を帯びる二つの記念墓碑があると述べているのが注目されます。このことは、パピアスが示唆するように二人のヨハネがいたことを示すことになるからです。先に述べたように、アレクサンドリアのクレメンス(190?〜200年?)は、使徒ヨハネが、暴君の死んだ後にパトモスから戻ったと述べていて、これだと、ヨハネ福音書とヨハネ黙示録は同じ使徒ヨハネの作であることになります。
〔トレドの聖書〕
 トレドの聖書(10世紀)のラテン語序文には、「使徒ヨハネは主が最も愛した者で、アジアの主教の要請によって、ケリントスとその他の異端、とくに、キリストがマリアから生まれる以前には存在しなかったとするエビオン派に対して、この福音書を書いた」とあります。これより早いトレタヌス写本にも、「アジアの監督の要請によって」とあり、これに続けて「この福音書は、ヨハネ黙示録の後に書かれ、ヨハネがまだ生前に、アジアの諸教会に与えられた」とあり、さらに「ヨハネの弟子であるヒエラポリスのパピアスが、ヨハネの口述を筆記してこの福音書を書いた」とあります。これは、老使徒ヨハネがその弟子に口述で筆記させたとする最古の伝承です〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。
〔以後の伝承〕
 使徒ヨハネの口述をパピアスが筆記したことは否定されていますが、5世紀の使徒言行録には、パピアスとプロコロスとの混同があります。ヨハネの弟子プロコロスが、パトモス島で、ヨハネがエフェソに戻って亡くなる以前に、ヨハネ福音書の口述を筆記したとあります。この伝承どおりの事実ではないにせよ、ここにも、福音書がヨハネの手ではなく、弟子に筆記されたとあるのは注目すべきです。ほかにも「ヨハネの名で」出されたとする伝承があります。トレタヌス写本もエイレナイオスと同様に、福音書の出所が使徒ヨハネだとするとともに、「与えた」のは使徒であり、書いたのは別の手であるかもしれないと述べています。
 以上が、ヨハネ福音書の著者に関する古代からの主な伝承です。これらの伝承によれば、ヨハネ福音書の「作者」は、たとえその弟子に口述させたとしても、実質的には、ゼベダイの子である使徒ヨハネであり、彼がイエスの愛弟子であったことになります。現在でもヨハネ福音書の著者として、またそれが書かれた場所として、新約聖書にはこれを裏付ける証言がないものの、概(おおむ)ね、これらの教父たちの伝承を受け入れている学者が少なくありません。
 現在トルコのセルチュクに隣接して、古代エフェソの遺跡の近くに聖ヨハネ教会堂の遺跡があり、そこに使徒ヨハネと他の弟子たちが眠ると伝えられる地下墓室があります。アメリカのヨハネ福音書研究で著名なレイモンド・ブラウンは、現存するこの墓が3世紀までさかのぼることを指摘した上で、ポリュクラテスの証言に基づいて、エイレナイオスたちの伝承を否定するに足る根拠がないと指摘しています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。彼は、ヨハネ共同体の始祖として、使徒ヨハネがエフェソに住んでいたこと、またヨハネ福音書の成立がゼベダイの子である使徒ヨハネにさかのぼることを認めています〔前掲書XCII〕(ただしこれについて次項を参照)。
■現代のヨハネ福音書の著者観
 しかしながら、古代の伝承は、20世紀初頭の頃からの文献批評によって厳しい批判にさらされることになりました。この結果、現在では、ヨハネ福音書に出てくる「イエスの愛する弟子」がゼベダイの子である使徒ヨハネと同一人物であることに懐疑的な学者が少なくありません。
 例えば、ヨハネ福音書の研究を代表するレイモンド・ブラウンは、そのヨハネ福音書注解においては、ヨハネ福音書の作者が使徒ヨハネであることを認めていますが、1979年の『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷』では、2世紀では、福音書の起源を十二使徒に帰する傾向があったことを理由に、従来の使徒説を撤回しています〔ブラウン『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷』〕。この時期(1970〜90年)は、文献批評のもっとも盛んな時代でしたから、ブラウンもこれに応じざるをえなかったのでしょう。しかし、後述するように、現在では、福音書の命名起源を作意的に十二使徒に求める説にも反論がなされています。
 岩波訳ヨハネ福音書の解説では、「現在では多くの人々が古い伝統の主張を史実とは認めない」と述べた上で、その理由として、
(1)ガリラヤの漁師であったヨハネがこのような文体の文書や思想の持ち主とは考えられないこと。
(2)2世紀には、新約の文書を十二使徒と結びつける傾向があったこと。
(3)ヨハネ福音書には資料が用いられていること。
(4)一人の人物が書いたと見るのは難しいことなど、四つの理由をあげています〔『ヨハネ文書』新約聖書V、岩波書店(1995年)解説141〜42頁〕。
 ただし、この見解は、ヨハネ福音書を1個人の作品と言うより、ヨハネ共同体全体から産まれた作品と見て、最初の著者が遺したものにさらに手が加えられたと見る「増補改訂仮説」をとっていますから、ヨハネ福音書の成立それ自体に関して言えば、教父以来の伝承説と必ずしも矛盾するわけではありません。
 ここにあげられている四つの疑問点については、21世紀の現在、次のような反論が出されています。
(1)については、福音書の「著者」が使徒ヨハネ自身であると主張するのではなく、その弟子(たち)が、師の説話やその他の資料をもとに編集・執筆したと見ることができます。さらに、ゼベダイの子ヨハネは、漁師であっただけでなく同時に祭司でもあった可能性がありますから、「無学なガリラヤの漁師」という見方は適切でありません〔教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー『ナザレのイエス』星野泰彦訳(春秋社)〕。
(2)については、使徒ヨハネの証言に基づくものであれば、「ヨハネ」の名がつけられるのは当然です。2世紀には、使徒の名をつける傾向があったから、ヨハネ福音書も、同様に使徒の名前を「かぶせた」に「違いない」という判定の仕方は、最近では見直されています。当時のヘレニズム世界では、福音書のような「公(おおやけ)」の文書の場合、たとえ著者自身が、現代の著者がするように自作であることを明言していなくても、その文書の出所がどこか、あるいは誰か、ということが、著者よりもむしろ読者/受け手によって明確にされ、文書の信憑性と権威が問われていたことが分かってきたからです。四福音書ともに、一貫して同じ名前で呼ばれていて、それ以外の名で呼ばれたことがないのもこれを裏付けています〔コリンズ『マルコ福音書』〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
(3)ヨハネ福音書に資料が用いられていることについては、共観福音書と「源を共有する」伝承や資料がヨハネ福音書に入り込んでいると見られています。ヨハネ福音書では、伝えられた伝承の扱い方が独自であることと、共観福音書とその源において共通する伝承を有していることとは、決して矛盾しません。
(4)この見解とは全く逆に、ヨハネ福音書が一人の人物によって統一的に執筆されていると見るほうが、その内容からもよりふさわしいとする見解も有力です。例えばヘンゲルは、ヨハネ福音書からヨハネ黙示録までが、「長老ヨハネ」によるという仮説を提示しています〔Martin Hengel, The Johannine Question. SCM Press (1989).124.〕。ヘンゲルによれば、「長老ヨハネ」は、ユダヤのパレスチナの出身で、おそらくエルサレムの貴族階級の出です。パピアスが出会って「主の弟子」と呼んでいる人物は、この長老ヨハネのことであり、この長老ヨハネは、紀元100年頃に亡くなったと思われます。彼は若くしてエルサレムでイエスに出会い、イエスに深く共鳴しました。彼は、キリストをほんとうに知るためには、復活後に遣わされるパラクレートスと呼ばれる御霊の賜が必要であることを悟りました。「主の愛する弟子」とは、この長老のことです。
 この長老ヨハネは、「主の愛する弟子」という言い方によって、おそらく、自分よりもむしろゼベダイの子ヨハネ(使徒ヨハネ)のほうを示唆しようとしたようです(このためヨハネ福音書では「ゼベダイの子ヨハネ」の存在が意図的にぼかされています)。なぜなら、長老ヨハネにとって、使徒ヨハネこそ、ペトロと対照される理想の「イエスの弟子」だったからです。長老ヨハネの後継者たちは、ヨハネ福音書に登場する「主の愛する弟子」という謎めいた人物像に、自分たちの師(長老ヨハネ)の姿を刻み込んだのです。だから、ヘンゲルによれば、この「長老」は、イエスの十二弟子には含まれてはいません。しかし、彼は実在した人物であり、同時にヨハネ共同体の始祖であり、ヨハネ福音書の真の著者だとされています〔Hengel, The Johannine Question. 131〜132.〕。
 また、ラツィンガー(教皇ベネディクト16世)は、「主の愛する弟子」が、ゼベダイの子ヨハネ(使徒ヨハネ)の息子ではなかったかと推定しています〔ラツィンガー前掲書〕。ラツィンガーの説は、エイレナイオス以来の伝承とヘンゲル説との両方を併せ持つと言えましょう。
 このように、古代からの伝承によって、愛弟子と使徒ヨハネが同一人物である可能性は、いぜん否定されていません。この弟子が、ヨハネ1章35〜40節にアンデレと並んででてくる人物であること、彼が洗礼者の弟子であったこと、しかもイエスと近しい関係にあったのは間違いないからです。ただし、その弟子が、ゼベダイの子ヨハネであるという確証はありません。伝承は、使徒ヨハネが、ヨハネ福音書の「著者」であったと伝えていますが、現在の学説では、使徒ヨハネがこの福音書の「著者」であることだけでなく、「イエスの愛する弟子」自体が、使徒ヨハネと同一人物であることさえも疑問視するのです。(1)ヨハネ福音書の著者は使徒ヨハネなのか?(2)ヨハネ福音書にでてくるイエスの愛弟子は、使徒ヨハネなのか? 伝承と現在の学説は、この二つの点で必ずしも一致していません。
(1)の点について言えば、古来の伝承は、ヨハネ福音書が使徒ヨハネによって「書かれた」と言っているわけではありません。ただ、その内容に関して、これが使徒にさかのぼる可能性を示しているのです。使徒が口述し、それを弟子の長老ヨハネが書き留めたというのがおそらく正しいでしょう。古代においては、「著者」の概念が現在とは全く異なるから、イエスの愛弟子がヨハネ福音書の伝承内容に深く関わっているという意味であれば、古代の伝承を否定する根拠はないと言えます。
(2)の点について言えば、愛弟子が、はたして使徒ヨハネであるかどうかについては確認できません。ヨハネ福音書の本文それ自体は、肯定と否定との<どちらの説>をも可能にするからです。したがってわたしたちは、この福音書の伝承の源となった人物を伝承に従って「ヨハネ」とだけ呼ぶか、あるいは同じヨハネ系文書に出てくる「長老ヨハネ」と区別する意味で、ヨハネ共同体の「始祖ヨハネ」と呼ぶのが適切でしょう。しかし、主の愛弟子が始祖と同一人物であり、しかも使徒ヨハネであるという古来の伝承は、現代の様々な推定や想定にもかかわらず、「確実とは言えないまでも、より確かに近い」と言えましょう。
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