2章 ヨハネ福音書の成立
■ヨハネ福音書の資料
ヨハネ福音書が、共観福音書と同じ伝承(口伝)の流れを汲んでいるのは間違いないでしょう。それ以外に、この福音書とマルコ福音書あるいはルカ福音書との共通性を説明することができないからです。ただしヨハネ福音書は、共観福音書の間で起こったように、相互の伝承に直接影響されることがなく、比較的独立した状況の下で成立したと考えられます。ヨハネ福音書を構成する資料として、ロゴス賛歌の原型、しるし物語、説話資料、受難物語、復活物語などの諸伝承が想定されています。ただし、これらの伝承すべてが、同じ頃に文書として成立していたわけではありません。だが、諸伝承が、ヨハネ福音書の形成過程において変容され統合されたのは間違いないでしょう。ヨハネ福音書に限らず、共観福音書の間でも、伝承の相互関係は、従来考えられていたよりは、はるかに複雑で、しかも流動性に富んでいたことが、最近ますます認識されるようになりました。 筆者(私市)は、ヨハネ福音書の成立の背後に、口伝あるいは文書による複数の伝承が存在していたと考えますが、同時に、それらの諸伝承は、必ずしも固定したものではなく、かなりの流動と変容を経ていると見ています。しかし、たとえ「しるし資料」なるものが現実に存在していなかったとしても、口伝の段階でそのようなしるし物語伝承が存在していないならば、それによって成立したヨハネ福音書の内容から、しるし資料説が「可能になる」ことはありえないでしょう。だから、そのような読み方が「できる」ことは、福音書成立までの伝承の段階で、そのような「しるし」伝承が含まれていた、こう考えるべきです。
■しるし資料
ヨハネ福音書にでてくる「しるし」が証しするイエスのメシア像は、七つの「しるし」を軸に構成されています。それらは、カナのぶどう酒(2章)、役人の息子の癒し(4章)、足萎えの人の癒し(5章)、五千人へのパンと魚の供食(6章)、水上歩行(6章)、盲人の癒し(9章)、ラザロのよみがえり(11章)です。ここでは大漁の奇跡(21章)は後からの追加として一応除外しますが、これも本来のしるし資料に含まれていた可能性があります。本来のしるし資料/物語には、このほかにも多くの奇跡が含まれていたと思われますが、福音書の著者は、そこから特にこれらの七つ/八つを選び出したのです。
七つのしるしは、それぞれ、豊穣(ぶどう酒とパン)、救い(病気癒し)、困難からの救出(水上歩行)、よみがえり(ラザロ)のように、イエスのメシアとしての働きをさまざまな面から表わしています。これらの「しるし」は、イエスが、ユダヤ人に約束されたメシアであり、この意味において「イスラエルの王」であり「神の子」であることを証しするものです。最初期のキリスト教徒であるユダヤ教の会堂の人たちにとっては、これらの「メシアのしるし」を信じるだけで十分だったのでしょう。弟子たちがイエスを信じる出来事が救いのモデルになっていますが、救いは、イエスとの個人的な出会いを通じて起こります。しかもその救いは、人から人へ連鎖的に展開するのです(1章35節以下)。
最初期の「しるし物語」伝承がどのようなものであったのかは、推定の域を出ませんが、あえてこれの特徴をあげるとすれば、そこには、後のヨハネ福音書に見られる反ユダヤ人的な傾向はなかったと思われます。また、しるし物語伝承には、「贖い」や「終末」や「御霊」も、まだ明確に語られていません。単純にイエスは「神の子メシア」であることを「しるし」を通じて証しするだけです。「救い」は、イエスがメシアであると信じるだけでよかったのです。したがって、現行のヨハネ福音書のように、イエスのメシア性の意義を深く掘り下げて解釈することもしていません。だから、6章に見られるパンの奇跡に聖餐の隠喩をこめることも、9章の盲人の癒しに「救いの光」の隠喩を見出すこともされていません。「命」「光」「真理」「恵み」のような言葉も表われません。
■編集過程
ヨハネ福音書の成立過程について言えば、この福音書は、全体として一人の著者によって書かれたものではなく、複数の人物の手によって、いくつかの段階を経て「成立した」という見方があります〔ブルトマン/ブラウン/フォートナ〕。これに対して、このような諸段階説を全面的に退けて、一人の著者によって統一的に書かれたという見方もあります〔ヘンゲル/ボーカム/キーナー〕。ひとりの師が実際に<書いた>のではなく、彼は、福音書の伝承の担い手であって、それを弟子たちに「書かせた」(口述した)という見方もできます〔ハーン/ビーズリ=マレー/ハンター〕。ただし、どの説も福音書成立の最終段階までに、幾つかの修正や編集が行なわれたことを認めています。
ヨハネ福音書の資料と編集過程で特に重要なのは、ヨハネ共同体が、マルコ福音書を編集した共同体と接触したことです。ただし、両者の間で、実際にどこまで交流があったのかは定かでありません。ひょっとすると、この時期に、(ペトロ系の教会から?)イエスの奇跡物語伝承がヨハネ共同体に伝えられたのかもしれません。それは、ユダヤ人キリスト教徒にイエスがメシアであることを証しする重要な物語でした。しかしヨハネ共同体は、伝えられた奇跡物語全部を採用することをせず、その中から七つを注意深く選び、それをイエスのメシア性の証しとして重視したのです。
■マルコ福音書との関係
ヨハネ共同体がマルコ福音書を受け入れたことは、ヨハネ福音書の性格に決定的な意味を持つことになりました。それは、ヨハネ福音書と『トマス福音書』とを比較して見ればよく分かります。ヨハネ共同体は、マルコ福音書が保有していたイエス・キリストの物語の枠を受け入れることで、マルコ福音書が帯びる「歴史性」から自分たちの伝承を遊離させることをしなかったのです。このためにヨハネ共同体は、ほかの共同体に見られないほどにイエスのメシア性を「神の子キリスト」として高めながら、なお「神の子」が地上で「時の中を歩む」枠を見失うことがありませんでした。
その結果として、『トマス福音書』とヨハネ福音書とは、全く異なる形式を採ることになります。『トマス福音書』では、イエスのメシア性は、物語としてではなく、もっぱらイエス様語録(Q)に近い形式で表わされており、それもイエスと弟子たちとの対話形式で語られます。このような語録形式は、時間の枠を取り払われていますから、そこに顕現するのは、地上から離れた霊知の世界です。ただし、『トマス福音書』から、後期の発達したグノーシス思想を読みとることはできません。
これに対して、ヨハネ福音書では、メシア=キリストが帯びる霊的な宇宙性は、時間の枠に組み込まれることによって、伝記的な物語の形を採ることになります。これによって、現実の世界と霊的な宇宙秩序とが互いに乖離することなく結びつけられたのです。ヨハネ福音書の持つこの霊性と歴史性の結合が、それ以後のキリスト教に与えた影響はきわめて大きいと言わざるをえません。
■受難物語との結びつき
おそらく60年以前のある段階で、しるし物語と受難物語が連結されました。しかし、しるし物語本来の性格から判断するならば、これと受難物語とは、主題的に明確な統一を遂げてはいなかったと考えられます。福音書や使徒言行録に示唆されているように、イエスの処刑は、生前のイエスを信じていたユダヤ人にとって大きな衝撃であり、イエスの十字架刑は彼らを困惑させる事件だったからです。受難物語においても、イエスの処刑は、避けられないけれども恐ろしい出来事でした。
マルコ福音書を構成する最初期の伝承もそうでしたが、ヨハネ福音書でも、しるしを与えるイエスのメシア像とイエスの十字架の死との間に、矛盾を感じさせる緊張がありました。しかし、ある段階で、受難物語がイエスのメシア像と連結することによって、ヨハネ福音書の受難の神学が形成されるにいたったと考えられます。
フォートナの説によれば、「しるし物語伝承」は、すでにヨハネ共同体においてまとまった「福音書」として成立していたことになります。また、これとは別個に、「受難物語」と「復活物語」がすでに一つのまとまった文書として存在しており、「しるし福音書」と受難・復活物語が結びつくことによって、現在のヨハネ福音書の原型ができあがったと彼は想定しています〔Robert Thomson Fortna.
The Fourth Gospel and Its Predeces-sor: From Narrative Source to Present Gospel. Fortress Press (1988)./ロバート・フォートナ『第四福音書とその先達:物語資料から現在の福音書へ』(1988年)〕。
フォートナによれば、しるし物語伝承も、すでに40年代に一つの文書になっていたと想定されていますから、これはイエス様語録(Q)と同時期か、それよりも先のことになります。その上で彼は、「しるし福音書」と「受難と復活物語」の成立は、およそ50〜60年か、その前後と考えています〔フォートナ前掲書206頁注〕。
このような「しるし福音書」がどこで成立したのかについて、フォートナは明言していませんが、「そのルーツはなんであれ、この福音書が用いるようなギリシア語を話す(ユダヤ人の)共同体は、ヘレニズム世界のほとんどどんな場所にもあった」と述べています〔フォートナ前掲書〕。彼の判断によれば、「しるし福音書」の著者/口述者こそ、伝承にあるイエスの愛弟子、すなわちヨハネ共同体の始祖だということになります。
フォートナのこのような想定は、現在そのままでは必ずしも承認されていません。しかし彼が、ヨハネ福音書には、しるし福音書とこれを拡大編集したヨハネ福音書と二つの層があること、そこには、最初期のユダヤ人キリスト教徒たちによるヨハネ共同体の信仰と、共同体の後期における信仰とが重なり合っているという彼の見方それ自体は、ヨハネ福音書の形成を考える上で大事なことを示唆しています(フォートナの説の詳細は、ヨハネ福音書補遺→「ヨハネ福音書の解釈と二元性」→「フォートナ」の項をご覧ください)。
■錯簡について
ヨハネ福音書については、以前から「錯簡」(さっかん)、すなわち写本作成の際に頁の入れ違いがあったのではないかと言われています。その一つとして、5章が指摘されています。現行の順序だと、4章の終わりでイエスはガリラヤにいます。ところが5章でイエスは突然エルサレムに現れ、6章で再び舞台がガリラヤに移り、7章でエルサレムへ上京することになっています。もし5章と6章とを入れ替えるなら、地理的な移動のこのような不自然さがなくなります。そこで、一応次のような順序で、これらの章を読んでみるとします。 <4章54節→6章1〜71節→5章1〜47節→7章15〜24節→7章1〜14節→7章25〜52節>。
この順序だと、イエスは、ユダヤからサマリアを経てガリラヤへ来て、さらにガリラヤ湖畔の東に位置する「ティベリアスの向こう岸」へ行き、そこからカファルナウムへ戻り、「ユダヤ人の祭り」のために、エルサレムへ上京することになり、地理的な移動が一貫してきます。さらに、5章45節に始まるイエスと「ユダヤ人」とのモーセ論争が、7章15節以降へなめらかにつながります。また、7章23節に「安息日に全身を癒した」とあるのが、5章9節と結びつくのが分かります。さらに、仮庵の祭りでの神殿の境内でのイエスの説教(7章14節)も7章28節と結びつきます。だからこの順序だと、イエスは、5章1節でガリラヤからエルサレムへ上京して、足が萎えた人に癒しを行い、それからいったんガリラヤへ戻り、仮庵の祭りで再び上京することになります。
現行のままの順序に従うなら、ヨハネ5章1節で言う「ユダヤ人の祭り」は、ペンテコステの祭りであったと推定されます。当時、ユダヤ人がエルサレムへ上京しなければならなかったのは、過越祭とペンテコステと仮庵祭の三つでした。ここでの祭りが、過越と仮庵の二つの祭りの中間に来ていることと、ペンテコステには、モーセに律法が授与されたことを祝う意味もあったことから、この辺にヨハネの編集の意図がこめられていると推察するのです。錯簡説なら、この祭りは過越際になりましょう。
また、錯簡説の順序で見ると、カナの奇跡、役人の息子の癒し、パンの奇跡、湖での奇跡の四つが、ガリラヤで行なわれ、これに対して、ユダヤでは、足が萎えた人の癒し、盲人の癒し、ラザロの奇跡の三つが行なわれます。すなわち、ガリラヤとユダヤとをそれぞれ舞台にして、七つの奇跡が前半と後半とに配置されているのが分かります。以上のような理由で、現在では、5章と6章とについて、多くの学者が錯簡を認めています。
しかしながら、この錯簡説に対する反論も少なくありません。共観福音書では、神殿の浄化が受難の直前に置かれていますが、ヨハネ福音書では、イエスの伝道の始め(2章)に移されています。このことからも分かるように、この福音書では、イエスの物語が<意図的に>再構成されているのです。したがって、地理的な移動のなめらかさは、必ずしも編集者の真意とは限らないかもしれません。むしろ、舞台をユダヤとガリラヤとに交互に設定することで、両者を対比/対立させようという意図があるのではないかと見ることもできます。フォートナは、ユダヤをイエスの活動の起点と見て、その視点から現行のままの順序のほうがヨハネ福音書の作者あるいは編者の意図と合致すると言います〔Fortna.
The Fourth Gospel and its Predecessor. 84.〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
この福音書は少なくとも1度か2度の編集段階を経ていると見られていますから、より合理的な配列が、仮にそれが「本来の」順序であったとしても、編集したヨハネの真意では<ない>ことがありえるという難しさが、この錯簡問題にはつきまといます。錯簡問題を確信をもって判断することはできません。この講話の順序は、あえて順番を入れ替えずに、現行のままで行なうことにします。
■ヨハネ福音書の言語の象徴性
ヨハネ福音書の成立過程で注目しなければならないのは、ヨハネ福音書の言語の象徴性です。イエス以前の知恵思想や黙示思想の場合もそうですが、知恵の諸文書においても、また黙示の諸文書においても、あるいは知恵文書と黙示文書の相互の間でも、そこに共通する象徴や表象が表われます。これらの象徴や表象の共通性は、これら諸文書が広範囲にわたって、ユダヤ教あるいはユダヤ=キリスト教の間につながりがあったことを示しています。しかしながら、同時に、象徴や表象が共通しているからと言って、それらの象徴や表象が指標している内容それ自体が同じである、あるいは同質であるとは限らないのです。平たく言えば、顔が似ているから性質が同じとは限りません。このような多様性と共通性、しかも相互の区別が必ずしも対立を意味しない状況を想定する時、わたしたちは、比較的狭いパレスチナにおいて、驚くべき多様性と、それにもかかわらず驚くべき相互承認の許容性があったことを知るのです。そこに見られるのは、共通する象徴や表象が、相互対立や相互理解を経ていくその過程において、それらの象徴や表象を含む伝承が流動的に変容していく有り様です。ユダヤ教内部のこの流動性と変容性は、イエス以後の原初のキリスト教へも、そして共観福音書とヨハネ福音書の成立を担った初期キリスト教へも受け継がれているというのが、わたしの見方です。
ヨハネ共同体は、比較的少数の人たちによる独自な交わりです。彼らは、共同体の始祖が伝えた伝承とその言葉を忠実に守り伝えようとしています。しかも同時に、少数であるがゆえに、またその「周辺性」のゆえに、ユダヤ教やキリスト教諸派との接触を通じて、迫害や内部分裂の危機を体験したと考えられます。それにもかかわらず、この福音書の伝承は、様々な点で共観福音書及び新約聖書の諸書簡の内容を受け継いでいるから不思議です。「クルマンが正当にも指摘するように、この福音書には、福音書記者が知るサークルに伝わる個別の伝承だけでなく、キリスト教の様々な諸派にも共通する伝承が反映している」〔ビーズリ=マレー著『ヨハネ福音書』(Word Biblical Commentary)の解説〕と言えます。
■執筆時期
ヨハネ福音書の執筆時期については、学界で比較的広範囲な一致を見ることができます。この福音書は、おそらく90年代に成立したと考えられます。ただし、その内容とこれを構成する資料は、それ以前にさかのぼるのは言うまでもありません。例えばフォートナは、「しるし(奇跡)物語」と「受難物語」と「復活物語」は、50年代の後半頃には、おそらくヨハネ共同体内で一つに結びついていたと考えています。こうして、<前>ヨハネ福音書が形成されるのは50年代から80年代にかけてだと彼は見ています。
この問題は、執筆の場所とも関連します。ヨハネ共同体は、ユダヤ戦争の頃、おそらく60年代の後半に、ガリラヤ湖の北東にあたるガウラニティス/アウラニティスからエフェソへ移住したと見ることができるからです。だとすれば、その内容に、エフェソ以前のパレスチナでのヨハネ共同体とユダヤ教徒との対立が、ヨハネ福音書の内容に反映していると考えなければなりません。しかし、エフェソを中心とする小アジアでも、パレスチナとは異なる意味で、ユダヤ教徒とユダヤ人キリスト教徒との間に対立があったと推定されます。だから、エフェソへ移住した後のヨハネ共同体の体験もまた、この福音書に重ねられていることになります。
■執筆場所
ヨハネ共同体には、一つの謎があります。それは、福音書を含むこれら一連のヨハネ系文書が、古代から「エフェソ系正典文書群」と呼ばれていることです。古代からのこの伝承は、これらの文書がエフェソで書かれたことを示唆しています。ところが近年(20世紀)、当時のパレスチナの宗教的な事情が明らかになるにつれて、また文献批評による本文の分析が進むにつれて、ヨハネ福音書が書かれたのは、シリアに近い地方であろうとされてきました。では、なぜ古代の伝承では、エフェソがあげられているのでしょうか。
わたしたちはここで、エイレナイオスが、使徒ヨハネをエフェソと結びつけていることに注目しなければなりません。ヨハネ福音書がエフェソで書かれた、あるいはヨハネ共同体がエフェソにあったという伝承は古代からのもので、ヨハネ福音書についてのこの「外からの証言」が、最近(2000年以降)再び重視されるようになりました。ポリュクラテスが、エフェソに二人のヨハネの記念墓碑があると証言しているのは先に述べましたが、同様にクレメンスやプロコロスもヨハネがエフェソに戻って亡くなる前にヨハネ福音書を口述したと伝えています。ブラウンは、ヨハネ福音書が書かれた場所として、アレクサンドリアとシリアとエフェソの三つの可能性を指摘した上で、エフェソ説を支持しています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
執筆場所で考えられることは、シリア地方にいたヨハネ共同体が、あるいはその一部が、エフェソへ移住した可能性があることです。その理由としては60年代後半からのユダヤ戦争による混乱があげられます。また、なぜかエフェソには、洗礼者ヨハネの宗団の人たちも多かったようです。この地には、クムラン宗団の文書が多くあったことや反ユダヤ会堂主義が根強かったことなどもその理由として考えられます。だから、ヨハネ福音書のパレスチナ起源を認めると同時に、ヨハネ共同体がエフェソへ移住したと見る学者が少なくありません。イエスは「ギリシア人に教える」ためにディアスポラ(離散のユダヤ人)になった(7章35節)などと言われていることから判断すると、この福音書の内容はパレスチナにおいて伝承されていたものですが、その成立はエフェソであろうと思われます(ハーン/キーナー説)。
■母マリアの伝承
ここで採りあげておきたいことが、もうひとつあります。それは、ヘロデ・アンティパスによる使徒ヤコブ(使徒ヨハネの兄弟)の殉教(44年)を契機に、教会への迫害が強まったために(使徒言行録12章1〜2節)、これを逃れて、イエスの母マリアが、「主の愛する弟子」に伴われて、エルサレムからエフェソへ移住したという伝承です。この伝承はエフェソではとても重要で、現在そこには聖マリア教会の遺跡と聖母マリアが主の愛弟子と共に住んだと伝えられる家とが遺されています〔『聖母マリア』吉田和美訳。Hitit Color (1999?)23〜26頁〕。この伝承は、イエスが十字架上で、その愛弟子に母マリアを託したとある証言に基づくものでしょう(19章26〜27節)。ブラウンは、19章25節の「イエスの母の姉妹」とは、ゼベダイの息子たち(使徒ヤコブと使徒ヨハネ)の母であるサロメのことだと判断しています。
ブラウンによれば、ここでヨハネが、特にイエスの母を採りあげたのは、彼女が楽園で堕罪したエヴァに代わる「新しいエヴァ」を象徴するからです。この意味でマリアは、イスラエルの民を産んだ旧約の「シオンの乙女」の象徴を受け継ぎつつ、ヨハネ黙示録12章1〜2節/同17節の「産みの苦しみをする女」へ続くと見ています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。ちなみに、ブラウンは、ヨハネ福音書の中では、母マリアも愛弟子も、他の弟子たちと同じように、「主にある交わり」の中での師弟関係として描かれていると指摘しています〔Brown.
The Community of the Beloved
Disciple. 196-98.〕。
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