3章 ヨハネ共同体の形成
■最初期のキリスト教徒のグループ
 わたしたちは始めに、原初のキリスト教を形成していた幾つかの共同体のいわば「見取り図」を概観しておく必要があります。「共同体」という語を用いますが、「共同体」を宗教的なセクトと見なすのなら、最初期のユダヤ人キリスト教徒の集まりは、どれも多少とも「セクト的な」共同体であったと言えます。なおキリスト教徒とは言えないまでも、キリスト教と深くかかわるクムラン宗団(エッセネ派を含む)と、洗礼者ヨハネの会衆については、それぞれ別個に論じなければならないでしょう。
 最初期のキリスト教が形成される過程では、さまざまなタイプの共同体が存在しますが、それらが相互に影響し合っていたことが知られています。これらの諸共同体の形成は、ガリラヤからシリア地方に広がる北部パレスチナと、エルサレムを中心とするユダヤ地方、すなわち南部パレスチナとに大別することができます。その上で、これら両地域の間に位置するサマリア地方も、ヨハネ共同体との関連で見落としてはなりません。また、クムラン宗団が存在していたヨルダンの西側から、ヨルダン川の東岸地域も考慮に入れなければなりません。
(1)最初に問題にしなければならないのは、エルサレムを中心とするユダヤ人キリスト教徒の共同体です。ルカの使徒言行録2章によれば、キリスト教会誕生の出発点になった聖霊降臨は、このエルサレムで起こりました。聖霊降臨とエルサレムのユダヤ人キリスト教徒共同体とを結びつけたのはルカであり、彼はキリスト教発祥の地を意図的にガリラヤからエルサレムへ移そうとしたという見方があります。こうすることで、キリスト教が正統ユダヤ教に代わる新しい神の計画を担うことを強調しようとしていると見るのです。マルコ福音書やマタイ福音書が伝える伝承では、弟子たちへのイエスの復活顕現がガリラヤで起こったことになります(マルコ16章7節/マタイ28章7節)。おそらくこれが最初期の弟子たちの体験だったのでしょう。イエスの復活顕現に接した弟子たちが、再びエルサレムへ集結して、そこで聖霊の大傾注に与ったと見るべきです。このエルサレム宗団の誕生は30年代初期のことです。
 エルサレム宗団は、自分たちこそが、捕囚期以来のユダヤ教の「シナゴーグ」(会堂/会衆)を継承する「真のイスラエルの民」の共同体だという信仰を抱いていました。だから、使徒言行録2章の聖霊降臨の出来事は、ここから<すべての>キリスト教の諸集会が「誕生した」とは言えないまでも、以後のキリスト教会の形成において、常に福音の「正統性」を主張し続けたのです。彼らは、自分たちこそ、ユダヤ教の正統な継承者であるという自覚に立っていましたから、ユダヤ主義的な傾向の強いキリスト教徒だったと言えます。
(2)エルサレムのユダヤ人キリスト教徒共同体との関係で特に注意しなければならないのが、イエスの家族を中心としたグループです。使徒言行録1章14節には、聖霊降臨に際して、弟子たちが「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たち〔いとこたちをも指す〕と心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。ペトロを始めとするイエスの十一弟子の後を受けて、エルサレムのユダヤ人キリスト教徒の指導者になったのは、イエスの弟のヤコブです(使徒言行録15章13節)。彼は「義人ヤコブ」の名を与えられるほどユダヤ教の律法に忠実な人で、この人が「主の兄弟ヤコブ」(ガラテヤ1章19節)です。「ヤコブ」と呼ばれている人たちは、このほかに十二使徒の一人である「ゼベダイの子ヤコブ」(大ヤコブ)と、同じく十二使徒の一人「アルファイの子ヤコブ」(小ヤコブ)がいます。
(3)使徒言行録6章1節に「ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た」とあります。「ギリシア語を話すユダヤ人」の原語は「ヘレーニスタイ」(複数形)で、これは「ギリシア化する」という動詞から出た用語です。この意味から判断すると、彼らはギリシア人ではなく、また、ユダヤ教に改宗した異邦人のことでもなく、「ギリシア化したユダヤ人」のことだと考えられます。
 エルサレムを中心とするパレスチナでは、当時アラム語が母語でしたからイエスの家族もペトロたち使徒たちも「アラム語を話す」ユダヤ人で、彼らの日常はアラム語でした。会堂の礼拝ではヘブライ語の聖書が朗読されましたが、これがアラム語に訳されたり、アラム語で説明されたりしました。ただし、パレスチナはすでにヘレニズム化していたので、異邦人との共通語は通常ギリシア語でしたから、イエスを含めて、人々はそれぞれの必要に応じてある程度ギリシア語を話すこともできたでしょう。アラム語は聖書のヘブライ語に近いので新共同訳では「ヘブライ語を話すユダヤ人」と訳されています。
 これに対して「ギリシア語を話すユダヤ人」とは、パレスチナ以外のヘレニズム世界で生まれ育ったユダヤ人のことで、イエスやペトロに対して、パウロやバルナバがこれにあたります。彼らはギリシア語の文化圏で育ち、ギリシア語で教育を受けていますが、ユダヤ人は同時にユダヤ教徒でもあるので、聖書は七十人訳を用いていました。パレスチナ以外の地に住むユダヤ人のことを「離散のユダヤ人」(ディアスポラ)と呼びます。ただし、使徒言行録に出てくる「ヘレーニスタイ」とは、必ずしも「離散のユダヤ人」のことではなく、また、外地から巡礼でパレスチナを訪れているユダヤ人たちのことでもないようです。そうではなく、生まれと育ちはヘレニズム世界でも、先祖のパレスチナに「里帰り?」して、エルサレムを始めパレスチナに住んでいた「ギリシア語を話すユダヤ人」たちのことであろうと考えられます。
 イエス復活直後の最初期のキリスト教徒は、ほぼ全員がユダヤ人でしたから、エルサレムには、使徒たちやイエスの家族のような「ヘブライ語を話すユダヤ人」とバルナバや殉教したステファノやサマリアで伝道したフィリポ(十二使徒のフィリポとは別人)のような「ギリシア語を話すユダヤ人」たちがいたと思われます。「ヘレーニスタイ」のことは使徒言行録6章1節と同9章29節に少し出てくるだけで、ほかにほとんど資料がありません。これをめぐっていろいろな説が出されていますが、ほとんどが憶測による推定であり、「ヘブライオイ」と「ヘレーニスタイ」の実態は未だによく分かっていません。どちらも同じユダヤ人であり、どちらもある程度はアラム語とギリシア語を話すことができますから、両者を判然と区別することが難しいのです。
 使徒言行録6章1節には、「(ヘレーニスタイの)やもめたちが日々の分配のことで軽んじられた」ので苦情が出たとあります。男尊女卑のパレスチナのことですから、やもめが軽んじられたことが、すなわちヘレーニスタイが軽んじられたとは限りません。問題は「食事」に関すると推定されますが、食事は宗教的な「交わり」を表わす行為です。ただし、パウロとペトロとがアンティオキアで論争したような異邦人とユダヤ人との食卓の交わりを巡る問題(ガラテヤ2章11〜14節)をこの記事に読み込むのは時期的に早すぎます〔Pervo. Acts. 156-57.〕。
 この問題を解決するために7名のヘレーニスタイ(一人はユダヤ教への改宗者でユダヤ人ではない)が使徒たちによって選ばれました。この7名はヘレーニスタイの代表者たちだと考えられますから、エルサレムの最初期のキリスト教会は、十二使徒たちアラム語系のユダヤ人キリスト教徒と、7名に代表されるギリシア語系のユダヤ人キリスト教徒という二重構成であったことがうかがわれます。これに続いて、使徒言行録7章ではステファノの殉教が語られ、8章ではフィリポのサマリア伝道の記事がきます。これら一連のつながりから見ると、事はただの「やもめ問題」ではなく、ユダヤ教の律法遵守に対する両者の立場の違いという教義上の問題、特にモーセ律法の解釈とその適用に関する食い違いが存在したと見ることができます〔Pervo. Acts. 156-57.〕。ステファノの殉教直後に、エルサレムのユダヤ教の指導層が、十二使徒の指導するキリスト教徒たちよりも、ヘレーニスタイのキリスト教徒のほうを迫害したのは、ユダヤ教の律法に対するヘレーニスタイの「自由な」姿勢が、迫害の原因だったことを示唆しています。ヘレニズム化されたユダヤ人は「離散のユダヤ人」(ディアスポラ)ともつながりが深く、「離散のユダヤ人」は、東地中海沿岸を中心に広範囲に「離散」していましたから、特にパウロ以後のキリスト教の担い手として重要な役割をはたすことになります〔ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』龝田信子訳(新教出版社)〕 。
(4)パレスチナの北部にあたるシリアのアンティオキアにも、ユダヤ人キリスト教徒を中心にした共同体が存在していました。アンティオキアには以前からユダヤ教の会堂があったので、おそらくこの共同体は、ヘレーニスタイのユダヤ人キリスト教徒の伝道によって形成されたのでしょう。またアンティオキア教会には、かなりの異邦人キリスト教徒も加わっていました(ガラテヤ2章12〜14節)。確かではありませんが、アンティオキアの教会は、イエス様語録(Q)の人たちとも関わりがあったでしょう。「クリスチャン」という呼び名はここから生じたとされていて、この共同体は、パウロの異邦人伝道の拠点ともなりました。ただし、アンティオキアの教会それ自体は、必ずしもパウロほど異邦人伝道に対して開かれていたわけではなかったようです。マタイ福音書を生み出した教会は、地理的にもアンティオキアの教会と近く、関わりが深かったと考えられますから〔Anchor Bible Dic.(4)624a〕、マタイ福音書は、アンティオキア教会で書かれたという見方もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)〕。またこの教会は、後にルカがその福音書と使徒言行録を書き記す際に、ルカに教会の資料を提供したと考えられています。
(5)これらの諸教会とは別に、独特のグノーシス的な傾向を帯びたユダヤ人キリスト教徒の共同体がありました。これが『トマス福音書』を生み出した共同体です。「グノーシス」という言葉は多義にわたる内容を含むので、この言い方は誤解を招くかもしれません。ここで言う「グノーシス」は、東地中海の全域に広まっていたヘレニズム的なグノーシスとは異なるオリエント的グノーシス、特にユダヤ的グノーシスを指しています。    『トマス福音書』を生みだしたユダヤ人キリスト教徒の共同体は、シリア領アンティオキアのはるか北東にあるエデッサの近くにあったのではないかと推定されています(エデッサは、現在のトルコ南部、シリアとの国境に近いシャンルウルファの南方にあった)。当時そこはパルティア王国に属していたので、ローマ領のアンティオキアとエデッサとの間にローマ帝国とパルティア王国の境があり、このためエデッサは、地中海圏よりも、むしろ古代ペルシア帝国の影響の強いオリエント文化圏に属していました。この共同体は、上に述べた諸教会と著しく異なる特徴を帯びていましたから、ごく初期に始まり、しかもエルサレム教会を主流とする諸教会から比較的早く独立した共同体であろうと推定されます。ヨハネ共同体は、その前半期に、シリアに近いガウラニティス/アウラニティスにあったと思われますから、両者の間に何らかの交流があったのではないでしょうか。
さらに福音書の資料形成にとって重要なユダヤ人キリスト教徒のことに触れると、受難物語や復活物語を形成したユダヤ人キリスト教徒たちだけでなく、次のような人たちも推定されています。
(6)ヨハネ福音書との関係で見落としてはならないのが、イエスの奇跡物語、すなわち「しるし資料」を生み出した人々です。しるし物語伝承とその資料は、素朴なユダヤ人キリスト教徒の中から生まれました。彼らは、イエスが旧約聖書で預言されていた「メシア」であることを抵抗なく受け入れていました。だから、彼らは、イエスがメシアであることをユダヤ人としての自らのアイデンティティとごく自然に結びつけていたのです。彼らは、イエスの奇跡物語をユダヤ教の伝承に沿って理解しており、この意味でイエスこそ自分たちのメシアであると確信していました〔Mack. The Lost Gospel: The Book of Q and Christian Origin. 215〕。
(7)ガリラヤを含む広い範囲にわたって、イエスの言葉を集めて編集した「イエス様語録」(Q)を生みだした人たちがいます。かつてはこの人たちも、一つのまとまり持った共同体だと考えられていましたが、現在では、そうではなく、「しるし」伝承を伝えた人たちに比べると知的な人たちで、それぞれに小さな集まりを持っ諸グループの人たちの総称とされています。だから、「イエス様語録の人たち」と呼ぶのが適切でしょう。
(8)マルコ福音書を生み出した教会は、その最初期から、上に述べた諸教会とは別個の存在だったのでしょうか? マルコ福音書の著者とされる「マルコ」とは、フィレモンへの手紙24節にでてくる「マルコ」と、使徒言行録12章12節/同15章37節の「マルコ」と同一人物なのでしょうか〔Collins. Mark. 4-6.〕。彼はペトロともパウロとも関係があり、ローマでアラム語を語るペトロの通訳をしていたという伝承がありますが、マルコ福音書の著者とマルコ福音書のキリスト教会については、諸説があってよく分かりません。おそらく、上に述べた諸集会/教会が相互に影響し合う中で形成されてきたのでしょう。なぜなら、この福音書には、それまでのほとんどすべての共同体が保持していた伝承と資料が統合されているからです。
■使徒的教会とヨハネ共同体
 最初期のキリスト教諸教会のひとつに、ヨハネ福音書にでてくる「イエスの愛弟子」を中心にしたユダヤ人キリスト教徒たちの集まりがありました。共同体の始祖となるこの「イエスの愛弟子」は、生前のイエスを直接知っている弟子であり、イエスの復活と聖霊降臨に接してイエスの現臨を体験し、イエスが今も自分と共に臨在していることを深く確信していたと思われます。この「イエスの愛弟子」がヨハネ共同体の始祖ヨハネです。「始祖ヨハネ」が受けたイエス現臨の信仰と霊性は、以後のヨハネ共同体の基本的な霊性を決定づけることになりました。おそらく、この共同体は、この始祖を現在も生きているイエスと同様に見なして、始祖を中心に堅い結束を強めていったのでしょう。先に述べたように、わたしは、始祖ヨハネがゼベダイの子ヨハネであった可能性があると見ています。使徒ヨハネは、エルサレムのキリスト教共同体の柱の一人に数えられていたと思われますが、使徒言行録には、3〜4章を除いて、彼についての記事が見受けられません。
 従来の見解では、ヨハネ共同体は独自の共同体であって、ヨハネ共同体とは別に、十二弟子に指導された「使徒的な諸教会」があったと見なされていました。ヨハネ共同体のキリスト観では、キリストがロゴスとして、世界が創造される以前から存在していました。言い換えると、ヨハネ共同体は、ロゴス・キリストの「先在性」を信じていたのです(1章1〜5節)。また、生前のイエスが、復活以後に、人格的な「パラクレートス」として臨在するという聖霊観を抱いていました。このようなヨハネ共同体の特徴から見て、いわゆる「使徒的諸教会」とは異なっていたという見方が強かったのです。また、ヨハネ共同体が、ヨハネ書簡に見られるように、制度的な長老制よりも、パラクレートスの働きを重んじていたことも、使徒的教会とは制度的に違っていると見なされたようです。
 6章66節には、「イエスから離れて行った弟子たち」のことがでています。彼らはユダヤ人キリスト教徒たちですが、この際にペトロは、「主よ、あなたこそ永遠の言葉を持っておられます」と告白して、イエスのもとに留まり続けます。ここでのペトロは、イエスへの十二弟子の信仰を代表して告白していると思われますから、このペトロの告白が、ヨハネ共同体と同時期の「使徒的な教会」を表わしていると見ることもできましょう。ヨハネ共同体は、ペトロの告白にある「十二使徒グループ」に属する諸教会から区別されてきました。このような見方がなされてきたのは、ヨハネ福音書において、「主の愛弟子」がペトロと常に<対照的に>描かれているという理由からで、ヨハネ共同体と使徒的教会との違いは明らかだと考えられたのです。
 ヨハネ福音書で語られるイエス・キリストは、創造の初起動としてのロゴスですから、共観福音書のキリスト論に比べると「高次な」キリスト論だと言われます。また、ヨハネ福音書が成立した90年代のヨハネ共同体が、ペトロやパウロ系の「主流の」キリスト教諸集会から独立した立場にあったことも事実でしょう。それにもかかわらず、ヨハネ共同体は、ペトロたちや、エルサレムのユダヤ人キリスト教徒の共同体との交わりを断つことがなかったと見ることができます〔ブラウン『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷』〕。だから、ヨハネ共同体が、1世紀末から2世紀にかけての「使徒的教会」(いわゆる「大教会」 "the Great Church")から切り離された別個の存在だと判断するのは適切でありません。
 ヨハネ福音書の「高次な」キリスト論について言えば、パウロ系の諸教会の文書、例えば第一コリント人への手紙の中のパウロ以前の資料も、フィリピ人への手紙もコロサイ人への手紙も、ヨハネ福音書のイエス・キリストと類似の用語でキリスト論を語っています。だから、パウロ系の教会のキリスト論がヨハネ共同体のそれよりも「低次」だとは言えません。パウロのキリスト論は、神の知恵キリストで、これは当時のユダヤ教の「主流」をはるかに超えていました〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。これはヨハネ系とパウロ系の教会が エフェソにおいて交流があったことを示すものでしょうか。
 ヨハネ6章では、ペトロのグループは最後までイエスに従ったとあります(68節)。十二使徒という発想は70〜100年頃に始まり、これが確立するのは2世紀初頭だと考えられます。ペトロ系教会とヨハネ共同体とは、どちらもユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒を含んでいました。だから、使徒的諸教会が、ヨハネ共同体から区別されるべきキリスト教徒のグループだと見るのは必ずしも適切でありません。言い換えると、使徒的諸教会が、ヨハネ共同体をも含む<すべての>キリスト教徒を代表するものでは<ない>とどうして言えるのか?こういう疑問です。仮にヨハネ福音書において、愛弟子がペトロと対比されているとしても、その対比のゆえに、共同体の始祖ヨハネがペトロ<以外の使徒たち>と交わりが<なかった>と判断する根拠にはならないのです。ペトロと愛弟子との対比をいくら強調しても、それは、ペトロ以外の使徒たちの交わりの中に、始祖が含まれて<いなかった>ことの証明にはなりません。
 90年代のヨハネ共同体が他のキリスト教諸教会から独立していたのは事実です。しかしながら、ヨハネ福音書の作者が語ろうとするイエスの出来事と、これを書き著わしたヨハネ共同体との間には60年以上の開きがあります。イエスに直結する30年〜40年代の最初期のキリスト教徒たちとその諸教会を90年代のヨハネ共同体の状況から判断することは、そもそも根本的におかしいのではないか? こういう疑問が最近になって提起されています〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
 だから、始祖ヨハネとヨハネ共同体を、ペトロを始めとする使徒的諸教会から必要以上に区別するのは適切でありません。もしも主の愛弟子が、十二使徒の諸教会とは別個の共同体であると見るのなら、始祖ヨハネが十二使徒の一人使徒ヨハネである可能性はなくなります。しかし、聖霊降臨当時の使徒たちの霊的な状態は、限られた伝承から判断する限りでもきわめて多様です。そこに統一した使徒的教会などを想定することはできません。このような想定よりも、古代からのヨハネ福音書伝承のほうが、はるかに信憑性が高いと筆者は考えています。
■ヨハネ共同体の所在地
 使徒言行録3章1節〜4章22節には、イエスの復活直後に成立したエルサレム宗団の記事に続いて、使徒ペトロと使徒ヨハネが登場します。ここで初めて、復活顕現以後のエクレシアに対する迫害の兆しが語られますが、ユダヤ教の指導層からの迫害は、この後で、いわゆる「ギリシア語を話す」ユダヤ人(ヘレーニスタイ)たちに向けられ、ステファノの殉教が語られます。この迫害を契機に、エルサレムのヘレーニスタイと呼ばれるユダヤ人キリスト教徒たちは、地方へ散って伝道することになりますが、ペトロの投獄の記事はその後にでてきます。使徒ヨハネはそれ以後登場しません。
 ヨハネ福音書の高次な啓示的キリスト論から判断するなら、始祖ヨハネは、早い段階で、このようなキリスト論にいたる啓示を受けていたと考えられます。しかし、イエスが神そのものであるというこの啓示は、使徒的なキリスト教と基本的に矛盾するがゆえに対立や分離を引き起こした、とは考えられません。ただし、この高次なキリスト論が、ユダヤ教との激しい敵対関係にあったことは確かです。これはわたしの推定ですが、使徒ヨハネはヘレーニスタイではなかったのですが、彼のパラクレートスによる高次のイエス・キリスト信仰は、パウロのキリスト信仰と同様に、ユダヤ教の指導層から閉め出されたのではないかと考えられます。このために、イエスの愛弟子共同体は、エルサレムから離れて、ガリラヤ湖の東北にあたるガウラニティス/アウラニティスへ逃れたと推測できます。
■ヨハネ共同体の信仰
 ナザレのイエスがメシアであるという信仰は、彼の死が、旧約の預言の成就と結びつくことで与えられたものです。イエスの十字架刑は、神の意志によるもので、その意味で起こるべくして起こった出来事です。イエスの死は、イザヤ書53章に描かれる「無実な神の僕」の苦難の姿と重ねられて、約束されていた旧約のメシア預言が、イエスにおいて成就したと見なされたのです。この意味で、イエスは、救済史的に見たメシアであり、やがてイスラエルに顕れてメシアの王国を成就する「神の子」だと信じられました。この救いは、「ユダヤ人のメシア」として、救済史的な視点に立つものでした。
 このような信仰の大きな支えとなったのが、イエスの復活信仰です。復活はメシアとしての最大の「しるし」であり、イエスが神から遣わされたメシアであることの根拠となったからです。メシアは、神の意志に従って、その預言どおりの苦難の道をたどり、よみがえって永遠に生きているというのが、最初期のイエス・キリスト信仰です。この復活信仰が、イエスの十字架が啓示する新しい意義を照らし出すことになったのです。
 始祖ヨハネによるヨハネ共同体もまた、このようなメシア復活の信仰において、共観福音書の伝承に立つ諸教会やパウロ系の諸教会と共通しています。パウロは、彼の福音伝道をユダヤ教から異邦人のキリスト教へと発展させる過程で、律法と十字架の福音との対立を深めていきます。同じことがヨハネ共同体にも生じました。ただし、ヨハネ共同体では、「先在のロゴス/初起動のロゴス」としてのイエス・キリストが、ユダヤ教固有の伝統の中で深められ、しかも「ユダヤ人」との対立を通じて普遍性に到達するという過程をたどったのです。
 60年代には、ペトロ系の諸教会で受難物語と復活物語との結合が出来上がっていました。これに対してヨハネ共同体は、受難物語と復活物語とを共同体の内部で独自の物語として結合したのです。ヨハネ共同体は、この物語を共同体独自のしるし物語と結びつけました。この結合が始祖ヨハネによって行なわれたのか、それとも、始祖の伝える口述を書き留めて編集した始祖の弟子(長老ヨハネ?)の手によるものか、確かなことは分かりません。
■ヨハネ共同体の成立
 では、ヨハネ共同体はどのように形成されて、その後どのように推移したのでしょうか? この問題もまた推定の域を出ませんが、ブラウンがこれをまとめていますので〔Brown, The Beloved Disciple. "The History of the Johannine Community." 166〜167〕、これを参考にしながら、ヨハネ福音書の本文自体から読み取ることにします〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。ただし、ヨハネ共同体の構成は、共同体が置かれていた状況と、これに対応する共同体の姿勢によって変化していきます。だから、共同体の構成を考察するためには、ヨハネ共同体の変遷とその時期とを考慮しなければなりません。以下に示すのは、主としてブラウンの考察に基づいていますが、これにわたしなりの見解を加えたものです。
(1)パレスチナの内部とその周辺のユダヤ人たちで、イエスをダビデ的なメシアだと信じる人たちがいました。彼らはイエスの「しるし」(奇跡)をも信じた人たちで、イエス在世中の人たちです。「主の愛する弟子」もその中の一人で、彼は、その聖霊体験によって、高次なキリスト観を抱くようになりました。
 ヨハネ共同体が、その最初期の段階で、共観福音書系のキリスト教諸派から切り離されていたとは考えられませんが、この共同体は、パラクレートスとして現臨する生きたイエス・キリストに自分たちの霊性の本質があることを強く意識していました。ヨハネ共同体の「キリスト」は、このために、イエス自身に神の臨在を見出すと同時に、その臨在がもたらす個人的な霊性を尊ぶ高度なキリスト観であって、この点で、共観福音書の諸派とは異なる特徴を帯びていたと言えます。
 ステファノの殉教に伴って、エルサレムのヘレーニスタイのユダヤ人キリスト教徒に対する迫害が強まります。始祖ヨハネの共同体もまた、律法とユダヤ教の祭儀を根源的に変革する「パラクレートス観」を抱いていたために、エルサレムを離れて、ガリラヤ湖の東北へ逃れたのでしょう(彼らはヘレーニスタイではありませんが)。にもかかわらず、このヨハネ共同体は、その後もさまざまな共同体と接触を保ち続け、それら諸集会の霊性を自分の内に取り入れながら、しかも自らの独自性を失うことなく、独特の信仰内容を育んでいきました。マルコ福音書を生みだした共同体との接触もその一つです。ヨハネ共同体は、この時期、主としてガリラヤ湖の北東にあたる地域にあったと推定されています。
(2)洗礼者の会衆は、当初はイエスをメシアだと認めませんでしたが、そこから少なからぬ人たちが、イエスをメシアと信じるキリスト教諸教会に流れたと思われます(特に洗礼者の殉教以後)。1章29節以下から見ると、ヨハネ共同体への流入も多かったことがうかがわれます。これに伴って、ヨハネ共同体の中で、洗礼者とイエスとの優劣関係が問題になったでしょう。この問題をめぐって、ヨハネ共同体は、洗礼者宗団の人たちとの論争に巻き込まれた可能性があります。ただし、ヨハネ共同体は、洗礼者宗団と敵対関係に入ることはありませんでした。そこでは、イエスが、はたして「来るべきメシア」かどうか、が問われたのです。洗礼者の会衆は、ヨハネ共同体から非難されていません。むしろヨハネ福音書は、一貫して洗礼者をイエスの証人としてイエスの次に位置づけています(1章6節/同19節以下/3章29〜30節)。
(3)ヨハネ共同体との関連で見落とすことができないのは、サマリアとこの共同体との関係です。使徒言行録8章には、ヘレーニスタイのユダヤ人キリスト教徒であるフィリポが、サマリアで伝道したことが語られています。4章にもイエスとサマリアの女との対話があり、これに続いてサマリアの人々とイエスとの出会いが語られます。このサマリアの記事は、イエスがユダヤからガリラヤへ向かう途中の単なる挿話的な出来事ではありません。ヨハネ福音書では、地名は象徴的な「しるし」として、いわば神学的な意味を与えられているからです。ここでの「サマリア」は、「ユダヤ」と対照されています。ユダヤでは、イエスの行なった「しるし」を見た人たちが必ずしも好意的に描かれていませんが、サマリアでは、人々はイエスの「しるし」を見て、彼と親しく語り救いを見いだすのです。  
 2〜3章にでてくる記事は、共観福音書と共通するところがあります。神殿の浄化(ただし置かれている位置は共観福音書と異なっています)、ニコデモとイエスの間に交わされる新生をめぐる対話(ルカ18章18節での議員からイエスへの問いかけと比較)、洗礼者の弟子とイエスの弟子との間の問題(ルカ7章18〜23節で洗礼者がイエスに質問していること)、これらの記事は、最初期のヨハネ共同体が保持していた伝承が、共観福音書の諸集会の伝承とそれほど差がなかったことを示しています。
 ヨハネ福音書と共観福音書とが違いを見せ始めるのは4章以下からです。ヨハネ福音書では、サマリア人が終始イエスに対して友好的なのに対して、共観福音書では、イエスは弟子たちにサマリアに入ることを禁じています(マタイ10章5節)。ルカ9章52〜55節では、サマリア人がイエスの一行に敵対しています。おそらく共観福音書のほうが、イエス在世当時のイエスたちとサマリアとの関係を反映しているのでしょう。これに対して、ヨハネ福音書のほうは、イエス復活以後のサマリアとキリスト教諸集会との関係を反映していると見ることができます〔ブラウン『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷』〕。ユダヤ教が毛嫌いしてきたサマリアからの改宗者をヨハネ共同体が受け入れたことから、ヨハネ共同体は、エルサレムのユダヤ教の指導層といっそう対立を深めていったと見ることができます〔ブラウン前掲書〕。
(4)「エビオン派」に属するユダヤ人キリスト教徒たちもいたと推定されます。「エビオン」とは「貧しい人たち」の意味で、この呼び名は、原初のエルサレムのキリスト教会が自らをこのように称したところから生まれたのでしょう。彼らはユダヤ主義的なヤコブの教会の流れを汲む人たちで、水の洗礼だけでなく水の聖餐や洗足の儀式など独特の祭儀を行なっていたようです(この派の人たちは後にグノーシス的な傾向を帯びるようになったと考えられます)。ヨハネ共同体内でも彼らに類する祭儀が行われていたのかもしれません(例えば13章の洗足参照)。
(5)ヨハネ共同体は、イエスをメシアと信じながら、なおもユダヤ教のシナゴーグ内に潜伏するユダヤ人キリスト教徒たちとも接触を保っていたようです。ヨハネ共同体は、世の初めから存在する「先在のキリスト」へと高められたキリスト観を抱いていましたから、ユダヤ教の指導者たちから見れば、このような信仰は、イエスを「第二の神」と見なしていることになります。このために、ヨハネ共同体とユダヤ教との対立が避けがたくなり、後にはこの対立が決定的になります。「主の愛する弟子」は、この段階で、終末がすでに現臨するという信仰へ達していたのでしょう。
(6)当時のシリアの東方に『トマス福音書』を生み出した教会が存在していました。ヨハネ共同体は、『トマス福音書』の共同体から離れているとは言え、他のキリスト教諸派に比べると比較的近い所にいましたから、両者の間に交流があったと考えられます。『トマス福音書』は、後に発達するグノーシス的な傾向を帯びた福音書です。また、ヨハネ共同体の中には、ヘレーニスタイのユダヤ人キリスト教徒たちもいて、彼らの中から、後になってユダヤ・グノーシスへ向かう人たちが出てきたとも推定されます。グノーシス的な傾向を帯びた人たちは、どちらかと言えば知的で、かつ宇宙論的な視野を持つ人たちであったと思われます。
(7)ヨハネ共同体には、女性も多く参加していましたから、ヨハネ福音書では、イエスと女性との個人的な出会いが重要な意味を持っています(4章/11章/20章)。
 ヨハネ共同体は、このように、ペトロ系の諸教会ともシナゴーグ内のユダヤ人キリスト教徒とも『トマス福音書』のグループとも交わりがあり、堅い結束を保ちながらも孤立することがなかったのです。(1)〜(6)のこの時期が、ヨハネ共同体の第1段階で、40年代の半ばから60年代半ばまでにあたります。
■エフェソへ移住
 ユダヤ戦争の兆しが見え始めると、ユダヤ人と異邦人との対立が激しさを増すようになりました。ヨハネ共同体も、その激動の域外にあったとは思えません。この共同体が、政治的、社会的な変動による被害をどの程度被ることになったのかは分かりません。しかし、ユダヤ民族主義の高まりと同時に、シナゴーグ内でファリサイ派を中心にイエス・メシア教への弾圧が厳しさを増すようになります。あるいは、このために殉教者が出たのかもしれません。この「新」ユダヤ主義の台頭と危機感は共同体にも強い影響を及ぼしたと考えられます。
 ヨハネ共同体がパレスチナから小アジアのエフェソへ移住したとすれば、この時期が最も適切ではないでしょうか。ヨハネ福音書は、その読者として、パレスチナの人たちも離散の人たちも、両方を想定することができます。だから、ヨハネ福音書の読者として、66〜73年にパレスチナから小アジアへ移住した人たちを想定することもできましょう。ヨハネ福音書の「作者」が誰であろうと、ヨハネ共同体が、60年代の半ばから70年代の初頭にかけてのある時期に、パレスチナから小アジアに移住したのであれば、パレスチナ的な伝承を受け継いでいてもおかしくありません。 ちなみに、エルサレム教会の指導者であったイエスの弟「義人ヤコブ」が殉教すると(62年)、エルサレムの教会に激しい迫害が起こり、このため使徒ヨハネは、イエスの母マリアを伴って小アジアのエフェソ(現在のトルコのセルチュク)へ移住したという言い伝えがあります〔『聖母マリア』Hitit Color 7頁〕。現在のエフェソの遺跡から7キロほど離れた場所に、マリアが住んでいたとされる「聖母マリアの家」が現在も遺されています。
 カトリックでは、使徒ヨハネ、すなわちゼベダイの子ヨハネはイエスの従兄弟にあたりますが、この時期に、使徒ヨハネがイエスの母マリアを伴ってエフェソへ移住したと伝承されています。この伝承は、ヨハネ共同体が迫害を避けてパレスチナからエフェソへ移住したという説とも一致します。 確かではありませんが、早ければ60年代の半ば過ぎ、ユダヤ戦争が起こり始めた時期に、ヨハネ共同体は、増大するファリサイ派からの圧力を避けてエフェソへ移住することになったと推定することができましょう。ひとつには、共同体内で培われた霊性を異邦人に伝えるという目的もあったのかもしれません。
■長老ヨハネ
 この移住が、ヨハネ福音書の執筆と編集にどのようにかかわるのかは、想定の域を出ません。ほんらいの「しるし物語」が、より深い霊性を表わす象徴性を帯びるように<再解釈>されたとすれば、それが、この時期と無関係ではないと思われます。「しるし物語」だけでなく、ヨハネ福音書の内容全体にわたって、より高度な象徴性を帯びた解釈が加えられることによって、それまでユダヤ人キリスト教徒を対象にしていたこの福音書が、ヘレニズム世界の異邦人をも包含する内容的な広がりを持つようになり、また、創造の先在あるいは創造の初起動としてのロゴス・キリストが、宇宙的な性格を帯びてくるようになります。特に大事なのは、ヨハネ福音書において「ユダヤ人」との厳しい対立が明確になることです。
 わたしは、この時期に、共同体の置かれている地理的・社会的な状況の変動だけでなく、共同体内部での指導が、始祖ヨハネから、その弟子の一人であった長老ヨハネへと世代交代したのではないかと推測しています。ただし、その指導の委譲は、師の衣鉢を継ぐ弟子によるものであって、共同体の基本的な性格を危うくするような人物ではありません。わたしは、始祖から長老による指導への譲渡を90年代だと推定しています。始祖が使徒ヨハネであったとすれば、この時期には80歳を超えていたはずです。だから、始祖が存命中か逝去かにかかわらず、共同体の指導が、事実上、長老ヨハネが受け継いだと考えられます。
 おそらく、80年代に、始祖の口述を長老が筆記するという仕方で、ヨハネ福音書の執筆が開始されたと思われます。フォートナは、<原>ヨハネ福音書として「しるし福音書」を想定していますが、パレスチナのユダヤ色の強い文体で語られる始祖の証言を書記役の長老が書き留めたと思われます。ヨハネ福音書の文体が全体として統一されていることは、この想定と矛盾するものではありません。始祖ヨハネが、弟子に口述させたことが当然考えられますが、この時代の「書記」は、比較的自由に自分の文体で口述の内容を「書き表わす」ことが許されていました。ただし、ヘレニズム時代の学派や宗団においては、弟子がその師の文体を学び、これと一致することが当然の義務だとされていたのです。だから、ヨハネ福音書の文体的な統一は、弟子によって乱されることがなかったのです〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。しかも長老ヨハネは、師よりもはるかに広い視野と学識を具えた人物であり、この人物によって、共同体は大きな転換の危機を乗り越えることができたのではないかと推定するのです。
 ヘンゲルによれば、「主の愛弟子」と呼ばれる人物は、使徒ヨハネのことではなく、別にイエスの弟子であった長老ヨハネなる人物がいて、彼が終始一貫してヨハネ共同体を指導し、かつヨハネ福音書からヨハネ黙示録までのヨハネ系文書を著わしたことになります。ヘンゲルは、その長老ヨハネに関して、彼は、上流の祭司階級の出であり、パレスチナ生まれで、若くして洗礼者とイエスの証人になったと想定しています。彼は、多様な人たちをまとめるために、サマリアの人たちやエビオン派の人たちにもある程度の理解があったであろうと言います。いずれにせよ、彼自身が深い聖霊体験を有するカリスマ的な人物であったのは間違いないと述べています〔Hengel. The Johannine Question. 131/133-134〕。
 ヘンゲルの言うこの人物が、はたして福音書中で「イエスの愛弟子」と呼ばれる人物なのか、また一貫してヨハネ共同体の指導者であったのか、彼が、パトモスへ流されて、後にヨハネ黙示録を著わした人物と同一であるのか〔ヘンゲル前掲書 〕などについては疑問があります。しかし長老ヨハネと呼ばれる人物が、キリスト教会において、パウロを引き継ぐ偉大な指導者であったとするヘンゲルの評価が決して誇張ではないことを以後のキリスト教の歴史が証明しています。
 ケンブリッジ注解シリーズのヨハネ福音書の著者ハンターは、「多くの人たちが『長老ヨハネ』こそ、第四福音書の著者であり、使徒ヨハネの弟子であったと結論するのは無理ではない。もしそうだとすれば、この福音書は使徒の教えを受けた長老ヨハネが著者であったことになる」〔Hunter. The Gospel According to John. The Cambridge Bible Commentary. 13-14.〕と述べています。共同体の始祖と使徒ヨハネとが同一かどうか確証はありませんが、上に述べたような事情を補うならば、ハンターのこの説は概ね妥当だと考えられます。
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