4章 ヨハネ共同体とユダヤ教
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■ヨハネ共同体とユダヤ教
ヨハネ福音書が書かれる<以前の>ヨハネ共同体には、深刻な内部分裂はまだ見られません。論争は共同体と外部のユダヤ教徒との間で行なわれたからです。ユダヤ教との論争はヨハネ福音書執筆以前の時期にすでに始まっていました〔Brown.
The Community of the Beloved Disciple. 56.〕。共同体のメンバーもユダヤ系がほとんどで、共同体に多くの異邦人キリスト教徒が参入してくるのは、エフェソに移住した後のことです。
近年になって、ヨハネ福音書のイエスにはモーセ像が投影されていること、また、この福音書にでてくる「ユダヤ人」との論争などから判断して、福音書の内容は共同体がまだユダヤ教の会堂から分離していなかった時期のことでだと見て、ヨハネ福音書の執筆時期を70年以前に、すなわち共観福音書の執筆時期よりも早く想定する説もあります。この推定は正しくないとしても、ヨハネ共同体とユダヤ教の会堂との相克が、70年以降のことではなく、それ以前からのことだと推定できます〔Beasley-Murray.John. Introduction. "The Date and Place of Writing of the Fourth Gospel." Word Biblical Commentary. Word Books(1999).Electronic edition 〕。ただし、ここで「ユダヤ教徒/ユダヤ人」というのは、パレスチナの正統ユダヤ教を保守しようとするファリサイ派のことであって、離散のユダヤ人一般のことではありません。
1世紀前半までは、多くのユダヤ人キリスト教徒は会堂に所属していました。パウロなどの例外を除くなら、ユダヤ人キリスト教徒も律法を守り、ユダヤ教に従っていましたから、ユダヤ教の会堂の法的な庇護に与ることができたのです。
しかし、ユダヤ教が、ユダヤ戦争に向けて団結を強めるために「異端者」への糾弾を行ない、会堂内のユダヤ人キリスト教徒への弾圧が強められるにいたって、ヨハネ共同体と関わりのあるユダヤ人キリスト教徒にも、会堂から追放される事態が生じたようです。共同体にとって最大の苦痛は、まだ家族・親族が会堂にいるその前で、悪(あ)し様にののしられることだったでしょう。結果として、ヨハネ共同体は、ユダヤ教の会堂から離れて、異邦人世界へ向かうことになりますが、それでもこの共同体は、自分たちのユダヤ的ルーツから離れることがなく、その基本的な信仰はユダヤ的でした。
■ユダヤ教とキリスト教との対立
ファリサイ派に代表されるユダヤ教とユダヤ人キリスト教徒との対立の原因は、いったい何だったのでしょうか。「贖罪」「日曜聖日」「メシアの来臨」などが、主な論争点になったのは想像に難くないでしょう。しかし、それらの根底にあるのは、「神の民」の定義でした。「救われる者」と「救いに漏れる者」との区別がこの問題にかかわってくるからです。そこで問われるのは、「誰が」神の民なのか?ではなく、「何が」神の民を形成するのか?という問いであり、この問題に及ぶ論争です。
(1)「神の民」とは何か。
事は神との契約による「イスラエルの民」の救いにかかわる問題です。イスラエルの民「すべて」が救われる可能性を与えられていることにおいて、ファリサイ派とユダヤ人キリスト教徒との間に違いはありません。しかし、ファリサイ派は、自分たちこそ「真のイスラエル」であると主張し、自分たちの基準に照らして「汚れ」に染まった者を「地の民」(アム・ハアレッツ)と呼びました。こう呼ぶことで、ファリサイ派とその後継者たちは、「地の民」を救いから除外したのです。しかし、ファリサイ派の基準に合致する民が救われ、その他の者は救いから漏れるのなら、「地の民」は1世紀のユダヤ人の大多数を含むことになります。だから、彼らがすべて契約から<除外される>と見るのは実際的でないでしょう。このため、ラビ的な律法解釈に照らして除外される者を除くなら、「地の民」にも「寛容と赦し」が用意されていました。
旧約聖書には、神との契約を守り続けた「残りの者」から預言者が出て、民を悔い改めに導いたとあります。クムラン宗団などは、自分たちこそ契約に基づく 「真のイスラエル」であり「残りの者」であると定義しました。だから、異教徒/異邦人を厳しく排除したのです。ユダヤ人キリスト教徒も、自分たちこそ真のイスラエルであり「残りの者」であると信じて、イエス・キリストにある自分たちが、終末に救われる者を体現しているという自己理解に立っていました。ところが、ユダヤ人キリスト教徒は、この自己理解と同時に、異邦人キリスト教徒をも受け入れたのです。ファリサイ派もまた、クムラン宗団やユダヤ人キリスト教徒に対抗して、自分たちこそ真のイスラエルであると自負していました。ところが、ユダヤ戦争が近づくにつれて、ファリサイ派は、ユダヤ人キリスト教徒を旧約の契約から断絶された者だと見なすようになったのです。
律法に関して言えば、ユダヤ人キリスト教徒は、イエス・キリストこそ「律法の成就者」であると主張します。他方ファリサイ派のほうは、神との契約を遵守するラビと、契約から漏れている「地の民」との二つを区別するラインこそが救いを分ける境界だと強調します。こうして、キリスト教のエクレシアとユダヤ教の会堂とは、「神の民」とは何かをめぐって相対立することになり、この問題が、ファリサイ派とユダヤ人キリスト教徒との間の緊急な課題になったのです〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
(2)イエスの神性をめぐって
ユダヤ教のラビは、自分たちこそ<高度の>律法を所有しており、「地の民」は低い律法しか知らないと考えました。しかし、ユダヤ人キリスト教徒にとっては、イエスこそ「律法の成就者」ですから、自分たちに敵対する者は「キリストの律法」を破っていると考えたのです。問題の一つにイエスの「メシアとしての~性」があります。もしもイエスが「神」であれば、イエスに逆らう者は、神を汚すことになります。もしもイエスがただの人なら、イエスを神とする者は、神への冒涜にほかなりません。
ファリサイ派がキリスト教徒を「異端者」だと判定したのは、キリスト教徒が唯一の神のほかにイエスを神とすることで、「複数の神」を礼拝していると映ったからです。5章17〜18節は、このような状況の下にあるユダヤ人キリスト教徒とユダヤ教徒の間の論争において、イエスの神性がいかに重大な課題であったかを伝えています。ヨハネ福音書が描く「ユダヤ人」像には、ヨハネ共同体に敵対するユダヤ教の指導者のこういう特性が映し出されています。
(3)聖霊による啓示
パレスチナのラビ的ユダヤ教は、律法の解釈にその基礎を置いていましたから、ラビたちは、「聖霊」を受けているという主張さえしませんでした。ユダヤ教では、律法を重視するあまり、霊的な預言の時代は終わっていると考えられたからです。ただし彼らは、メシアの到来に際して、再び聖なる霊が降ると信じていました。
一方でキリスト教徒は、律法の解釈だけでなく、より広い啓示に基づいて、神の代弁者である聖霊にあって語ることを祈り求めました。だから、ヨハネ共同体が、自分たちに聖霊が宿ることを強調するほどに、ラビ的なユダヤ教との対立を深める結果になったのです。ユダヤ教のラビたちとの論争に際して、彼らの攻撃に答えるヨハネ共同体の論法は、律法主義者に対抗するパウロによる論法と類似するところがあります。
ラビたちは、終末時のメシアの到来に降る聖霊は、イスラエルの民に限られると考えていましたから、文化と国土を越えたキリスト教の聖霊降臨を否定しました。キリスト教側の聖霊降臨に対抗するために、ラビたちの神学は、「啓示」に対する制限をさらに厳しくして、啓示はすでにシナイでのモーセへの啓示で完了していると説いたのです。とりわけ、エルサレムが滅亡した70年以降、会堂のラビたちは、異邦人を含む東地中海一帯に広がるメシアの到来信仰と、この地域での聖霊運動に対して警戒を強めました。ユダヤ戦争の終結以後になると、パレスチナのユダヤ教はローマの支配を受け入れましたから、彼らは、反乱を助長したメシア預言とこれに伴う聖霊運動に適切に対処することをローマ側から求められていたのでしょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
このような数々の試練にありながら、ユダヤ教ファリサイ派もユダヤ人キリスト教徒も、66〜70年の艱難を生き延びました。生き残ったファリサイ派は、ユダヤ教を建て直そうとして、律法を今まで以上に厳しく実行することを志しますが、その一方で、それまでの民族主義的な方向を改め、超民族的な姿勢へと全面的に方向を転換しました。このために、同じ様に人種と民族を超えようとしているキリスト教と競合関係に入る結果になったのです。
(4)エルサレムの滅亡について
さらにもう一つ、ユダヤ人キリスト教徒の存在がファリサイ派の指導層に脅威となる理由がありました。それは、ユダヤ人キリスト教徒が、エルサレムの滅亡を「神の裁き」だと見なしていたことです(マルコ13章2節/マタイ24章2節/ルカ21章6節)。だから「ファリサイ派」は、マルコ福音書では部分的な敵対者であり、マタイ福音書ではさらに強い敵対者であり、ヨハネ福音書では敵対者それ自体になります。ユダヤ人キリスト教徒とユダヤ教の指導者との間に「話し合い」が行なわれたとは考えられませんが、両者の間の対話は論争となり、論争は対決に変じました。ラビ文献には、敵対者のリストに、ペルシア人、サマリア人、哲学者、皇帝派、サドカイ派などがあげられていますが、そこにはユダヤ人キリスト教徒を含む「異端者」も含まれています〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
■エルサレムの滅亡とユダヤ教
ローマ軍によるエルサレム滅亡は、紀元70年に最終段階を迎えますが、これによってユダヤ教とキリスト教の各共同体に大きな混乱が生じたと考えられます。しかし、この混乱を生き延びたユダヤ教ファリサイ派は、ヨハナン・ベン・ザッカイの下に集まり、ローマ帝国の認可を得て、エルサレムの西方にあたるヤムニアという小さな町に学院を開きました。ラバン・ガマリエルは、紀元80年から115年頃まで、このヤムニアの学院の長でした〔マーティン『ヨハネ福音書の歴史と~学』〕。彼は、かつてエルサレムのサンヒドリンがしていたように、ユダヤ教の祈祷規定をつくり、すべての会堂において遵守されるべき礼拝規定を制定しました。
彼の下で編纂された祈祷書は、これの初期の原型が、1896年に発見されましたが、それは十八の祈願から成っていました。その中の第十二祈願に、「異端者たち」に対する厳しい呪いの祈願が含まれています。そこには、「背教者たちには、希望がないように」「ナザレ人たち(キリスト教徒のこと)と異端者たちは瞬時に滅ぼされるように」「そして、彼らは命の書から抹殺されるように」とあります。この祈願規定は、キリスト教徒、特に当時まだユダヤ教の会堂内に留まっていたユダヤ人キリスト教徒を見つけだす手段として用いられたと思われます。このことは、当時ファリサイ派ユダヤ教の側から、ユダヤ人キリスト教徒に対して厳しい詮索と弾圧が行なわれていたことを示すものです。
9章は、ヨハネ共同体とファリサイ派ユダヤ教徒のこのような対立を背景に描かれています〔ブラウン『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷』〕。わたしたちは、ヨハネ福音書の編集段階で、しばしば登場する「ユダヤ人」という独特の用語を、エルサレム滅亡の前後を通じて生じたヨハネ共同体とユダヤ教ファリサイ派との間の対立からも理解する必要があります。
■ヤムニア学院と離散のユダヤ人
70年以前のユダヤ教は多種多様でしたが、それでも大祭司が最高権力者として統一を保っていました。ファリサイ派は、その聖書釈義を通じて、民衆により近い存在でした。しかし、特定の学派が学者たちを統一していた形跡は薄く、様々なセクト間で、同じユダヤ教であるにもかかわらず、相互に不信を抱く傾向さえあったようです〔キーナー前掲書〕。ただし、庶民レベルでは、そのような違いや対立は存在せず、民衆はそれぞれのセクトに適宜に対応していたようです。離散のユダヤ人の場合は、パレスチナよりもさらに多様でした。
70年以降、パレスチナの多様なユダヤ教は統一へ向かおうとしますが、それでもユダヤ教は、決して一枚岩ではありませんでした。その中で、ファリサイ派が、その勢力を強めることになります。ヤムニアを含むパレスチナの諸都市は、ローマの認可を受けたヘロデ一族に支配されていましたが、ヤムニアには、ガマリエルとヒルカヌスの息子エレアザルなどファリサイ派の指導者たちがいました。70年以後のユダヤ教は、時勢に適応して「勝利者」となっていきましたから、彼らのユダヤ教は、やがて規範とされるようになります。ただしその規範も、ラビによる統一的な支配と言うよりは、それぞれの地域の文化的な状況に対応する柔軟性を具えていたようです。だから当時の離散のユダヤ教は、比較的自由で混淆的な傾向にあったと言えます。
パレスチナとアジアのユダヤ教を明確に区分けすることはできません。パレスチナのユダヤ人の状況のほうは資料が多いのに対して、アジアのユダヤ人の状況を知る資料は少ないからです。この時期のヨハネ共同体の状況は、パレスチナのそれよりも離散のユダヤ人の状況に近いのですから、ユダヤ教の会堂とユダヤ人キリスト教徒との関係を知るためには、当時のラビの文献によらなければなりません。
パレスチナのヤムニアのユダヤ教は、ローマ帝国の認可を得ていましたから、ディアスポラのユダヤ人とも連携を持っていました。ただし、パレスチナ以外の地域では、ヤムニアの勢力はパレスチナほど強くありませんでした。もっとも、現存のラビ文献は1世紀よりも後のものなので、ヤムニア学院とその影響の実態を描くことは難しいです。
離散のユダヤ人キリスト教徒は、パレスチナのユダヤ教の状況をある程度知っていました。マタイ福音書の教会は、広くファリサイ派にも呼びかけましたから、マタイ福音書とファリサイ派との類似は偶然ではありません。また、東地中海圏のユダヤ人の間では、ユダヤ教の指導者たちもユダヤ人キリスト教徒も、旅人を通して緊密なネットワークを保持していましたから、情報はかなりうまく伝わっていたようです。パレスチナの状勢が、そのままエフェソやスミルナやフィラデルフィアやラオデキアなどアジア州で生じたとは思えません。しかし、ヤムニアのユダヤ教の指導者たちの方針は、東地中海圏の離散のユダヤ人たちにも影響を及ぼしました(ヨハネ黙示録2章9〜10節/同3章8〜9節を参照)。
■アジアのディアスポラ
1世紀頃のローマ帝国内で、「ディアスポラ」と呼ばれる離散のユダヤ人たちが住んでいた地域は、ごくおおざっぱに見て、ティグリスとユーフラテス河のメソポタミアの地域と、現在の小アジアの西方と、現在のギリシアのコリントスを中心にする地域と、エジプトのナイル川流域でした。その数は、パレスチナに250万、エジプト、シリア、小アジアにそれぞれ100万ずつ、メソポタミアに100万ほどで、その他の地域をも合計すると全部で750万にも達します〔大澤武男『ユダヤ人とローマ帝国』講談社現代新書(2001年)〕。ちなみに2世紀半ばのローマ市内には4万人近いユダヤ人が住んでいたとも言われています〔大澤前掲書〕。彼らの多くが、おそらく4世紀頃までには、キリスト教徒になっていて、キリスト教会の形成への大きな支えになったと分析されています〔ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』〕。
ユダヤのハスモン朝は、ギリシア系のセレウコス朝の支配下に置かれていた時代、その圧迫を逃れるために、伝統的にローマと同盟関係を結んでいました。だから、小アジアのポントスの王ミトリダテスがローマに反旗を翻した時(前88〜85年)、ギリシアの諸都市が王に味方した際にも、小アジアのユダヤ人はローマ側に付いたのです。このために、アジアのユダヤ人には兵役免除などの特権が与えられました。ローマの元老院でカエサルが暗殺された後、甥のオクタウィアヌスがアントニウスと結んで、元老院のブルートゥスとカッシウスの同盟軍とフィリピで闘い、オクタウィアヌス側がカッシウス側を破りました(前42年)。この際にも、タルソスを始め小アジアのユダヤ人は、その後、初代皇帝となるオクタウィアヌスの側についたのです。このために、カッシウスから手痛い復讐を受けたものの、その代わりに、この初代皇帝から、多くのユダヤ人にローマの市民権が与えられ、会堂保有の保証やユダヤ人内の裁判権や安息日の認可などの特権が授与されました〔アラン・ドゥコー『聖パウロ』奈須瑛子訳。女子パウロ会(2006年)〕。
このように、小アジアのユダヤ人たちは、比較的その地位と自由に恵まれていました。アジア州のスミルナの東方にあるサルディスでは、地域の裕福なユダヤ人たちが町の中心地に立派な会堂を持っていました。今に遺るその会堂跡は、市場を通る街路よりも一段高い場所にあり、市の立派な体育館と隣接しています。また、エフェソに遺る劇場の座席は、座席の中央部の下段を中心に半円形に広がっていて、要(かなめ)となる中心の座席は、総督など行政の最高権力者のためのものでした。その中心部に近い座席に、「神を敬うユダヤ人の席」と刻まれた座席が現在も遺っていて、当時のエフェソの裕福なユダヤ人が、社会の上層を占めていたことを示しています。アジアの地方行政とユダヤ人とのこの関係は、ヨハネ共同体とユダヤ教の会堂との関係を知る上で見逃すことができません。
ユダヤ教と帝国とのこのような関係から判断すると、パレスチナのユダヤ人による帝国への反乱は、アジアの裕福な離散のユダヤ人に、彼らの立場へ悪影響を及ぼしかねない深刻な懸念をもたらしたと思われます。だからアジアのユダヤ人たちは、黙示的なメシア運動には用心深かったのです。
(2)
■ローマ帝国とキリスト教
ネロ帝(在位54〜68年)によるキリスト教徒への迫害は、キリスト教と「帝国公認の」ユダヤ教とを区分する最初のきっかけになったと言えましょう。公認のユダヤ教から「離反した」と見なされた場合、キリスト教徒は、ユダヤ教徒に免除されていた「皇帝崇拝への強要」を免れることができなくなります。ドミティアヌス帝によるキリスト教徒への散発的な迫害に続くネルウァ帝(在位96〜98年)までのローマ帝国は、ユダヤ人を人種的に扱うよりも、むしろ宗教的な側面でユダヤ教徒として扱っていました。使徒言行録で、ルカはイエスの弟子たちと古代イスラエルの宗教との継続を強調していますが、これは、当時置かれていたアジアのキリスト教という観点から見れば、そこにルカの興味深い意図を読み取ることができます。
2世紀前半まで、ローマ帝国は、キリスト教徒を迫害するにあたっては、皇帝に対する「反逆者」としてではなく、一般の「犯罪人」として扱ったようです。一般の離散のユダヤ人がキリスト教徒を直接迫害したとは思えません。しかし彼らは、キリスト教徒が帝国に忠実でないことを知った場合には、自分たちの保身のために、そのキリスト教徒をローマの官憲に引き渡すことがあったと推定されます。アジアでは、皇帝崇拝がかなり早い時期に始まっていました。ティベリウス帝(在位14〜37年)は、初代皇帝アウグストゥスに倣って、その死後に神格化されました。しかしアジア州では、皇帝は、その生前から神性を帯びていました。だから、ヨハネ黙示録1〜3章にでてくる諸教会の地域、すなわちアジア州一帯では、皇帝崇拝が強要されていて、エフェソはそのような都市の典型だったのです。今に遺るエフェソの遺跡には、ケルススの図書館からまっすぐ伸びるクレテス通りに沿って、ハドリアヌス帝の社、トラヤヌス帝の泉、ドミティアヌス帝の社などが跡を留めています。
キリスト教に対する弾圧は、90年代に新たな段階を迎えます。ローマ皇帝ドミティアヌス(在位81〜96年)は、己が「主であり神である」と称して皇帝崇拝を強要し、これがキリスト教への弾圧につながったからです。ヨハネ黙示録13章18節にでてくる「獣の数字666」とは、この皇帝の称号を記号化したという説があります。ただし、この弾圧が行なわれたのは彼の治世の末期(95年頃)のことで、それも組織的な弾圧ではなく、地域によって差がある散発的なものだったと考えられます。この時期のキリスト教を外から見れば、ユダヤ教との区別がまだ明確でなく、このためにローマ側も、キリスト教徒をどのように扱うべきかよく分からなかったようです。なおこの時期は、ヨハネ福音書が書かれた90年代ですから、共同体がエフェソへ移住していた頃になります。
エルサレム滅亡以後のローマの支配下では、ユダヤ戦争以前に認められていたユダヤの神殿税は、皇帝に捧げた社と異教の神殿の維持にまわされました。ドミティアヌス帝は、さらに、異邦人からユダヤ教に改宗した者、割礼を受けていないがユダヤ教を敬う「敬神の異邦人」にもこの税制を適用しました。これは、異邦人からユダヤ教への参入を阻止するねらいがあったからです。アジアのユダヤ教の会堂には、多数の異邦人の改宗者や敬神者たちがいましたから、このような税制はユダヤ教の指導層を困惑させたに違いありません。だから、ラビたちは、ユダヤ教内部の「やっかい者」や、キリスト教徒を含む「メシア主義者」を厳しく取り締まらざるをえなかったのです。
イエスこそ「ユダヤ人の王」であるというキリスト教の主張は、このようなユダヤ教側の処置に対抗するためだったのかもしれません。ドミティアヌス帝は、「王の死」を預言する占星術者を厳しく罰しましたから、ヨハネ福音書の預言者的で王権的キリスト論は、ローマとキリスト教との板挟みになったユダヤ教の指導層には大きな脅威だったことでしょう。ユダヤ教徒は皇帝崇拝に参与することを免除されていました。このために、少なからぬ異邦人たちが皇帝崇拝からの免除をユダヤ教に求めていたようです。こういう状況の中で、ユダヤ教の指導者たちは、カリスマ的な預言活動にいかに対応するかが迫られていたのです。
アジアの地方行政は、皇帝崇拝を含む地方の宗教行事からユダヤ教徒を免除する点では、パレスチナに比してより厳しい措置をとっていました。だから、アジアに限って見るなら、ドミティアヌス帝によるキリスト教徒への1世紀末の圧迫は並々ならぬものがあったでしょう。ユダヤ教という公認宗教から一度(ひとたび)外されたなら、皇帝崇拝を拒否したキリスト教徒に対する圧力はすさまじいものがあったのは想像に難くありません。これに対して、例えばマタイ福音書の教会は、パレスチナに近いシリアのアンティオキアにありましたから、アンティオキアの主教イグナティオス(35頃〜107/117年?)の殉教のような特異な例を除くなら、このような圧力に曝されることはなかったと思われます〔キーナー前掲書〕。
このように、アジア州でのヨハネ共同体は、その他のユダヤ教のカリスマ運動共々に、当時のアジアのユダヤ人共同体の安全を脅かすものと見なされたようです。だから、ユダヤの会堂は、ユダヤ教徒やユダヤ人キリスト教徒の預言運動に対して過敏な懸念を抱いていたのです。中でもヨハネ共同体の抱く高度なキリスト観は、皇帝とこの世の秩序に反感を抱くものと見られたでしょう。ただし、2世紀の終わり頃までは、キリスト教に対するユダヤ教の対応は、他のユダヤ教内の異端への対応に比べると、必ずしも一貫性があったわけではありません。
■ユダヤの会堂とキリスト教徒
ユダヤ人キリスト教徒は1世紀の半ば過ぎ近くまで、その多くが会堂に留まっていました(使徒言行録22章19節/同26章11節参照)。パレスチナでは2世紀に入ってからも、ユダヤ人キリスト教徒が、ユダヤ教との連帯を保とうとして会堂に留まろうとしていた形跡があります。離散のユダヤ人の場合も、同様の者たちがいたと思われますが、パレスチナ以外の地域ではその実態が多様でよく分かりません。
ヤムニアは、統一したハラカーを制定することで、密かなキリスト教徒をあぶり出そうとしました。離散のユダヤ人の会堂も、パレスチナのヤムニアのモデルに従おうとしたでしょう。このような状況が、少なくともヨハネ共同体の周辺で生じていたのは確かです。サタンが、「神の民」からクリスチャンを追い出そうとしたのです(黙示録3章8〜9節)。ヤムニアに始まる祈願は、東地中海圏の会堂全体に広がった形跡があります。ただし、アジアの諸会堂がどこまでヤムニアのモデルに忠実に従ったのか確かではありません。パレスチナのラビたちは、理論上は、彼らの規定がパレスチナにおいても離散の地域においても同じだと定めていましたけれども〔Keener, John (1) 212.〕、この祈りが、あらゆる地域で忠実に実行されたとは考えられません。離散のユダヤ人は、必ずしもパレスチナのユダヤ式の儀礼に固執しなかったからです。
(3)
■ヨハネ共同体のエフェソへの移住
ヨハネ共同体がエフェソへ移住した時期について、ヘンゲルはこれを60年代の初め頃と見ています〔Hengel,
Johannine Question. 134〕。もしイエスの母マリアのエフェソ移住説を受け入れるとすれば、早ければ50年代、遅くても60年代半ばにはエフェソへ移住したと見るべきでしょう。ユダヤ戦争勃発の初期頃から、パレスチナからアジアへ大勢の移動があったと見られていますから〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕、ヨハネ共同体のエフェソ移住もほぼその頃から戦乱期にかけて、すなわち65〜70年頃だと推定することができます。その頃のエフェソの人口はおよそ10万と推定されていますが、その後急激に増えて〔キーナー前掲書144頁(注)36〕、100年頃には20万と推定されています〔スターク『キリスト教とローマ帝国』〕。
エフェソでのヨハネ共同体の場所は特定できませんが、現在のトルコのセルチュク郊外にあるエフェソの遺跡には、中心にケルススの図書館跡があり、そこから直線距離で北東に2キロほどのところにアヤスルクの丘があり、その丘に、壮麗な聖ヨハネ大聖堂の遺跡があります。遺跡の内部に白い石が一段高く正方形に敷かれていて、四隅に白い石柱が立っています。その石畳には「聖ヨハネの墓」と記された札が置かれていて、その正方形の敷石の下に聖ヨハネの墓があります。彼の墓を中心に彼の弟子5人の小さな墓が十字架の型に配置されているとガイドブックに記されています 〔Naki Keskin. Ephesus. Translated into English by Anita Gillette. Keskin Color Kartpostalcilik A.S. 9-10. 〕。
この大聖堂は、6世紀に、ユスティニアヌス帝とその后テオドラによって建てられました。そこでは2世紀後半の貨幣が発掘されていますから、この墓は、2世紀にはキリスト教徒の巡礼の場所であったことが分かります。墓の側には、巡礼に訪れた人たちのための聖なる井戸の跡があり、これらの遺跡から判断すると、おそらくここが、かつてヨハネ共同体が礼拝を行なっていた場所だと推定できましょう。そうだとすれば、ヨハネ共同体の礼拝は、エフェソの市街からかなり離れた静かな丘の上で行なわれていたことになります。
■エフェソでのヨハネ共同体
ヨハネ共同体が、その最初期の段階から、共観福音書系のキリスト教諸派から切り離されて別個の歩みを続けたとは考えられません。しかし、この共同体は、パラクレートスとして現臨する生きたイエス・キリストの霊性に自分たちほんらいの有り様を見出していました。このようなヨハネ共同体の「キリスト」は、個人としてのイエスの人格的霊性に神の臨在を見出す高度なキリスト観であり、この点が共観福音書の諸派とは異なっていたと考えられます。ヨハネ共同体のこのイエス・キリスト観は、様々な批判や反対を受けます。先に述べたように、ユダヤ教側からの迫害や周囲の異邦人との軋轢は、ヨハネ福音書に、真理と虚偽、光と闇、命と死のような二元性をもたらす結果になりました〔Brown. The Community of the Beloved Disciple. 168〜69〕。わたしたちはここで、エフェソへ移住した後のヨハネ共同体の状況を見ておく必要があります。
(1)ヨハネ共同体が、ユダヤ人をキリストの福音へ改宗させる意図をもってユダヤ教の会堂に公然と働きかけた形跡はありません。共同体のこの姿勢は、パレスチナ時代もエフェソ時代も変わりません。しかし、パレスチナのユダヤ教の会堂にも、エフェソを含むアジアの諸会堂にも、「イエスをメシアと信じるユダヤ人」たちがいたと推定されます。したがって、ヨハネ共同体が、このようなユダヤ人たちに、ユダヤ教の会堂内でイエスを証しするように力づけたことは十分考えられます。このために、ユダヤ教の会堂の指導者たちとヨハネ共同体との対立が深まり、これまで会堂内にいたイエスの信者たちが、会堂から追放され、場合によっては処刑される出来事まで生じたと推定されます。この対立と迫害の際に、特にヨハネ共同体が伝える「イエスの神性」が、論争と迫害の焦点として浮かび上がってきました。ヨハネ共同体の伝える「神の子イエス」は、ユダヤ教の側から見れば、イエスが「自分を神と等しくしている」(5章18節)と映ったでしょう。この対立はヨハネ共同体のパレスチナ時代にすでに生じていたことですが、これが、ヨハネ福音書に陰を落として、「イエス対悪魔」という二元性となって表わされることになります。
(2)ユダヤ教の会堂内には、イエスを信じていながら、なおもユダヤ教の内部に留まろうとする人たちがいました。おそらく彼らは、ヨハネ共同体の抱く高度なキリスト観を共有することができなかったか、あるいは、あえて己の信仰を公にしなかったと思われます。ヨハネ共同体は、彼らに対して「神よりも人の誉れをと尊ぶ者」(5章44節)として、否定的な姿勢をとっていますが、彼らを敵対視してはいません。
(3)ヨハネ福音書には、イエスに敵対する者として「ユダヤ人」と「世」とがでてきます。「ユダヤ人」は、より広い意味での「世」に含まれますが、5章〜13章では、主にイエスと「ユダヤ人」との対立が描かれており、最後はイエスと「ユダヤ人」との対決に終わります。これが14章〜19章では、イエス(および弟子たち)と宗教的・政治的な権力に支配されている「世」との対立が露わになります。ヨハネ福音書におけるイエスとユダヤ人との対立関係が「この世」と重ねられる背景には、ヨハネ共同体が異邦人世界に移住した後で生じた異教的な「世」との敵対関係があったと思われます。この対立は、主として「光と闇」として表わされます。
(4)ユダヤの会堂から離れたキリスト者でありながら、しかも、ヨハネ共同体とも使徒的な教会とも区別されるユダヤ人のキリスト者たちがいた可能性があります。例えば6章60〜66節にでてくる人たちです。この人たちはかなり複雑です。彼らは、ヨハネ共同体の高次なキリスト観にいたっていなかったようです。彼らは、聖餐を「イエスの死を記念する」こと、すなわち、<過去の>イエスの贖いの出来事を追想する祭儀だと解釈していました。言い換えると彼らは、聖餐をユダヤ教の過越との類比に置くことで、過去の出来事としてこれを記念するために行なったのです。
問題は、ヨハネ共同体の高次なキリスト観とこれに基づく聖餐の解釈にあります。ヨハネ共同体の聖餐の解釈は、上に述べたような<過去の出来事を追想する>だけの聖餐ではありません。なぜなら、ヨハネ共同体にとって、聖餐とは、現在「今ここに」彼らと共にいるパラクレートス、すなわちイエスの霊性に生かされていることの「しるし」であり、これを「味わって噛みしめる」ことによって、生前のイエスの命そのものに与ることだったからです。このような高次のキリスト観に基づく聖餐に向けられた批判が、6章60節以下の「弟子たちの離反」に反映していると見ることができます。6章の「まことのパン」「まことの食べ物」「まことの飲み物」は、このような状況の中で語られたのでしょう。
(5)ヨハネ共同体の「サマリア的な傾向」を批判したユダヤ人キリスト教徒たちがいたと推定されます。彼らは、自分たちこそ「アブラハムの子孫」だと主張した人たちです(8章31〜59節)。「もはやゲリジムでもエルサレムでもないところで霊的な礼拝が重んじられる」(4章21〜22節)という共同体のキリスト論は、保守的なユダヤ人キリスト教徒から見るなら、イスラエルのアイデンティティを脅かすものと受け取られたでしょう。ただしこの対立は、ヨハネ共同体と対立関係にあるユダヤ人キリスト教徒との間のことではなく、対立はヨハネ共同体内部にあって、これが後に分裂を引き起こした一因だと見ることもできます。だから、ヨハネ共同体の内外に共同体に批判的なユダヤ人キリスト教徒たちがいたことになります。ただし彼らは、十二弟子に象徴される「主流の」教会の人たちではありません。
(6)10章には、羊を養育しない偽指導者たちへの批判が表われます。彼らがどのような人たちなのか明らかでありません。初期のユダヤ人キリスト教徒が抱いたイエスのメシア性は、まだユダヤ教の段階に留まっていました。反グノーシス的なユダヤ人キリスト教徒の指導者の中には、2世紀になっても、ヨハネ共同体に反感を抱く人たちがいたようです。ただし、ヨハネ共同体の高踏的とも言えるキリスト論が、共観福音書系のユダヤ人キリスト教徒のキリスト論と衝突したという説は受け入れることができません〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
(7)シリアのアンティオキアに近いマタイ福音書の教会やペトロ系などの使徒的なユダヤ人キリスト教徒の諸教会に対しては、ヨハネ共同体は共感を抱いていたと思われます(6章68節)。しかし、ヨハネ福音書全体を通じて、ペトロとヨハネ共同体の始祖である「イエスの愛弟子」とは、常に対照的に描かれていますから、おそらくヨハネ共同体の高次な「先在と初起動の」キリスト論から見るならば、共観福音書系の教会が抱くキリスト論もいまだ不十分だと映ったでしょう〔ブラウン前掲書〕。だから使徒的な教会といえども、トマスのように「まだ私を知らないのか」というイエスの叱責を受けることになります。ヨハネ共同体独特の「今ここにある終末」は、始祖の代からのものと思われますが、この点をめぐっても共観福音書系の諸教会とは必ずしも一致しなかったでしょう。またパウロ系の諸教会とは、終末観と教会の形態に違いがあったために、相互に独立していたと思われます。しかし、後にヨハネ共同体が分裂に追い込まれた段階で、共同体は、使徒的な教会との合一を望むようになりました(この問題は次章で扱います)。
(8)ユダヤ教の会堂との対立が深まると同時に、ヨハネ共同体への異邦人の参入が始まります。とりわけパレスチナからエフェソへ移住した段階で、共同体は、異邦人世界に住む離散のユダヤ人にもギリシア人にも御言葉を伝えるために、その信仰が普遍性を帯びるようになります。ここでも、彼らの抱く高次なキリスト観は、異邦人、ユダヤ人、およびユダヤ人キリスト教徒たちの反対を受けたと考えられます。このために、ヨハネ共同体は、「ユダヤ人」を含む「世」がサタンの支配下にあると見なすようになります。
(4)
■ヨハネ福音書の編集
エフェソに移ってからのヨハネ共同体は、比較的小規模ながらも、ヘレニズム世界にあってその霊的な影響を広げていったと思われます。しかしながら、ヘレニズム文化の中で離散のユダヤ人と異邦人との両方に証しを続けるうちに、共同体は新たな局面を迎えることになります。それは、パレスチナにおいてとは異なる状況で、会堂のユダヤ人指導層との対立を迫られたことです。同時に、異邦人キリスト教徒が参入してくるのに伴って、周囲の異邦人世界とも軋轢(あつれき)が生じることになります。ここで、ヨハネ福音書の成立について触れておきます。
わたしが推定するところでは、ヨハネ福音書は、この時期に、イエスの愛弟子につき従った長老ヨハネによって編集され増補されて完成しました。ヨハネ福音書の最終的な編集は90年代に行なわれたと推定されます(その成立以後にも、さらに編集の手が加えられた可能性なしとしませんが)。長老ヨハネによる編集は、彼の個人的な独自性を出そうとするものではなく、どこまでも始祖である「主の愛する弟子」からの伝承を活かそうと意図するものです。だからその編集には、始祖自身がイエスについて語った言葉や、共同体内で行われていた始祖と弟子たちとの問答などが採り入れられています。
ヨハネ共同体が、エフェソに本拠地を置いていたとすれば、ヨハネ福音書のもう一つの性格、すなわちこの福音書に具わる「異邦人向け」の側面も説明がつきます。しるし資料は、ユダヤ教のユダヤ人キリスト教徒を対象とするものでした。しかし、ヨハネ福音書の編集とその最終的な成立は、しるし資料が生み出された初期の時期と場所とは異なった状況の下でなされたのです。
イエスの十字架がもたらす福音の意義は、いぜんイスラエルの民のためであり、「彼らが一つになる」ためですが、その「彼ら」に、今や全世界の「真理の民」が含まれることになります。この「真理の民」は、イスラエルの民の霊性を受け継ぐユダヤ人だけでなく、ヘレニズム世界全体に及ぶ「この世」にも存在しています。ヨハネ福音書の言う「世」とは、ユダヤ人と異邦人が混在する世界のことです。イエスの御霊は、そのような「この世」にいる個人個人に働きかけ、さらに個人を超えて世界全体にその働きを及ぼし、そこに御霊が創り出す「交わり」が生じます。長老ヨハネこそ、このようなカリスマ的な霊性を具えた指導者です。
■ヨハネ福音書とヘレニズム
この時期ユダヤ教はヘレニズム化していましたから、神殿崩壊から20年も経つと、異邦人キリスト教徒同様に、離散のユダヤ人向けにもパレスチナ的用語の説明が必要だったでしょう。例えば「ラビ」(1章38節)の説明は、マタイ福音書の聴衆には必要なかったでしょう。ギリシア語の「キリスト」でなく、セム語の「メシア」がそのままでてくるのは、新約聖書中でヨハネ福音書だけです(1章41節/4章25節)。「メシア」(1章41節)は、離散のユダヤ人でも全員が理解できたでしょうが、異邦人キリスト教徒には説明が必要だったのです。
ギリシア・ローマの古典について言えば、例えばサルディスの上流のユダヤ人の間では、ホメーロスからの引用も理解できたでしょう。しかし、ヨハネ福音書は、ルカ系の文書ほど(使徒言行録17章28節)古典的な世界を反映していません。この福音書は標準的なヘレニズム世界のユダヤ人に宛てられているからです。ヘレニズムの哲学を代表するストア哲学は、ヨハネ福音書の読者が置かれたヘレニズム世界の背景としては認められるものの、この福音書には、直接に当時のストア哲学を反映している箇所はありません。この点でパウロ書簡と異なっています。
ヨハネ福音書のイエスは、共観福音書に比べると「ユダヤ的な」メシアの特徴を帯びています。使徒的な教会を含むキリスト教徒の諸教会が、東地中海圏に国際的な広がりを見せる中で、ヨハネ共同体は、ヨハネ福音書の「高度なキリスト」観を諸教会全体に実現しようとします。主イエスこそ「イスラエルの王」であり、この王に導かれた「霊によるイスラエルの民」こそが、全世界を「唯一の神の真理」へ導く歴史的役割を担っていると自覚していたからです。だから、異邦人キリスト教徒も、この「ユダヤ的な」運動に参加することになります。ヘレニズム世界を表わす「この世」に向けてユダヤ的な見方を擁護すること、これが異邦人キリスト教徒の役目であったとすれば、この点で、ヨハネ福音書はマタイ福音書に最も近くなります。だから、キリスト教のヘレニズム世界への拡大に伴って、ユダヤのヘレニズム化が進んだのではなく、逆にヘレニズムのユダヤ化が始まったと見ることができます。
■ヨハネ福音書と異邦人キリスト教徒
すでにエフェソ人への手紙において、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との融合が語られ奨励されているように、ヨハネ共同体でも、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の融合が語られたでしょう。しかし、ヨハネ共同体では、異邦人キリスト教徒は、自分たちがイスラエルの「残りの者」と共にいることを、より強く自覚させられたに違いありません。
「メシア」や「ラビ」がギリシア語で説明されているという理由で、ヨハネ福音書が異邦人キリスト教徒向けであることを強調する説があります。しかし、離散のユダヤ人のほとんどはヘブライ語もアラム語も理解できなかったのです。50年頃のローマのユダヤ人キリスト教徒は、「メシア」ではなくギリシア語の「クリストス」を用いていたことが、クラウディウス帝のユダヤ人追放事件でも理解できます。ヨハネ福音書でも、ギリシア人に言及している箇所がありますが(7章35節/12章20節)、これは、異邦人を受け入れるように奨励する意図があったからでしょう。ヨハネ共同体内では、異邦人キリスト教徒は多数派ではありませんが、彼らはおそらく、ユダヤ教の会堂に属する異邦人と同様に「神を畏れる異邦人」か、これに近い人たちだったでしょう〔キーナー前掲書〕。
■ヨハネ福音書と仏教
仏教の伝来については、3章のイエスとニコデモとの対話に、仏教の輪廻転生思想が表われているという説があります〔Gruber and Kersten.
The Original Jesus: The Buddhist Sources of Christianity.English translation. Element (1995). 90-91.〕。この見解は、ヨハネ福音書の知恵思想とも関連するでしょう。この説を不可能だと断定することはできないまでも、ヨハネ福音書と仏教との直接の関わりは認められません。ただ、ヘレニズム世界と仏教との関わりの中でのみ影響が可能だという意味です。また、ヘレニズム世界の神秘主義が、ユダヤの知恵思想に入り込んでいた形跡はありますが、この神秘主義も、ヨハネ福音書の背景として、間接的に見ることができるだけです〔Keener, John (1) 159-61.参照〕。
■ヨハネ福音書のユダヤ的特徴
近年の傾向として、最初期のユダヤ人キリスト教徒へ注意が向けられるにしたがって、福音書をヘレニズム世界から見る視点が後退し、イエスの思考もユダヤ的だと見なされるようになりました。ヨハネ福音書のヘレニズム的特徴さえも、パレスチナの風土から見直されました。1970年代半ばには、ヨハネ福音書の世界は完全にユダヤ的だと見なされていました。これは死海文書による影響が大きかったと言えます。ヨハネ共同体にはエッセネ派がいたと言われたのもこの時期です。ギリシア・ローマ世界に精通した学者までもが、最初期のキリスト教文書にユダヤ的な要素を見出していた頃です。ヨハネ福音書はアジアのギリシア人のために書かれたと唱えたラムゼイでさえ、パレスチナ的な風土の理解なしにはヨハネ福音書を理解できないと考えました。
ヨハネ福音書の旧約からの引用は、ヘブライ語原典と七十人訳に基づいていますが、直接引用するのではなく、内容を汲んだものが多いようです。このような引用の仕方は、ヘブライ語聖書の知識、あるいはパレスチナの伝統を知っている者によるものです。出エジプトのモーセとイエスとのタイポロジー(予型・対型)関係やイザヤ書からの引用など、ユダヤ的思想風土においてのみ理解できる解釈も見られます。
■ヨハネ福音書の終末観
いわゆる「共観福音書的正統性」に基づくキリスト教神学においては、キリストの神の国は未完成です。「まだ救われていない世界の中で、生き、死に、かつ、この世界と共に新創造を待ちこがれている。したがって、キリストの復活と普遍的な死人の復活との間の時、『中間時』というものが存在する」のです〔モルトマン『神の到来』モルトマン組織神学論叢(5)蓮見和男訳〕。なぜなら、キリストは歴史の中では、まだ万物に対する支配への途上にあるからです。
しかし、ヨハネ福音書では、事態はこれとは異なる相を顕します。キリストの終末は<すでに>成就しているという信仰です。キリストは、原初のロゴスであり、「同時に」終末のロゴスです。キリストは、現存する宇宙のまっただ中にありながら、しかも、現存の宇宙そのものに<すでに>取って代わっているというのが、ヨハネ福音書の信仰です。この意味で、ヨハネ福音書のイエス・キリストは、アルファであり同時にオメガです。「全ては終わった」のです(19章28〜30節)。全世界とそこに住む人類とこれを取り囲む宇宙全体が、イエス・キリストの十字架の上で新たな創造を「完了した」のです。闘いと争いはすでに終わっています。後は静かに、勝利の結果を「今このときに」生き続けることだけが、わたしたちに遺されています。
ヨハネ福音書が啓示するこのような相は、いわゆる「神の国待望」とそこから湧き上がる「世界宣教」に対する展望とは、いささか異なった姿でわたしたちに顕れます。伝統的な神の国待望は、このようなヨハネ的な相に映し出されるならば、その世界宣教論の裏面に、「十字軍的」な征服欲が潜むことを露呈するからです。ヨハネ福音書のメシアは、いわゆる「救済史」が、所詮は人類の歴史における「この世的な勝者」の歴史であること、したがって「救済史」とは、教会がこの世で勝ち誇る時に、己の成果に付けた呼び名にすぎないことを暴露するのです。ヨハネ福音書が伝える終末観は、もろもろの「異教の民」を「キリスト教化」しようとする使命感に向かって注意深く警告します。それは、己の無知を投影することで敵対する相手を「無知の民」と呼ぶことへの警告です。ヨハネ福音書の終末待望は、キリストの終末の完成を<すでに>己のうちに宿しつつ、静かにそこに「踏みとどまり」、平安と瞑想的な霊性の内に相手を照らし出し、照らすことによって相手を変容させ、光が闇の中で静かに輝くように、おのずから闇を消滅させるものだからです。
ヨハネ福音書におけるメシアの現臨は、暴力をともなう「歴史の完成」への野望ではありません。むしろ、霊的あるいは物理的な暴力に対する静かで確固とした「介入」なのです。何時の世でも勝利者は、彼らがその主体である歴史を「進歩」と呼び、その継続を欲します。だが抑圧された者は、そのような歴史による救済とは全く別の終末を待ち望むのです。抑圧された民の待望は、昨日から明日への移行でなく、「時の中で生起する静止」にほかなりません。このような終末は、イエスの十字架が啓示する「あの歴史的出来事」が、人間の「歴史」の本質を稲妻の如くに啓示する瞬間にその真相を顕すのです。メシアの光は、この世界が、いかに救済不可能なまでに損なわれているかを啓示するからです。ヨハネ福音書がわたしたちに提示しているのは、いわゆる「正統キリスト教」の十字軍的な戦闘意欲に支えられた「救済史」とは対照的です。この意味において、ヨハネ福音書がわたしたちに提示するのは、キリスト教における「もう一つの正統性」にほかなりません。
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