5章 ヨハネの手紙と共同体の分裂
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■ヨハネ系文書
 ヨハネ福音書と三つの手紙とヨハネ黙示録、これら五つの文書は「ヨハネ系文書」と呼ばれていますが、これらの著者をめぐって諸説があります。わたしの見るところ、代表的な説は大きく四つに分かれます。
(1)五つの文書全部が一人の著者による。
(2)ヨハネ福音書は、使徒あるいは始祖ヨハネの伝える証言に基づいてその弟子である長老ヨハネが、これを書き記して編集したものである。三つの手紙もまたこの長老によるが、ヨハネ黙示録はこれら二人とは別の預言者的なヨハネである。
(3)三つの手紙は同一人物によるが、福音書は別の人物による。
(4)ヨハネ福音書と第一ヨハネの手紙は一人あるいは二人の著者によるが、第二と第三の手紙は、その次の世代の長老による。ヨハネ黙示録はこれらとは別人である。
 (1)の説には、エイレナイオス以来の伝統的な使徒ヨハネ説と、ヘンゲルのように「長老ヨハネ」説とがあります。
(2)は筆者(私市)も受け入れている説です。特にヨハネ15〜17章は第一ヨハネの手紙と密接な関係がありますから、ヨハネ福音書の編集者と第一ヨハネの手紙の著者とは同一人物の可能性があります 〔Smalley. 1,2,3 John. Introduction "Problems in the Johannine Community"〕。ただし、筆者は(4)の可能性もあると考えています。
 (3)も伝統的な説で、ヨハネ福音書は使徒ヨハネによるもので、三つの手紙は長老ヨハネによるという見方です。(3)の可能性は、ヨハネ福音書と第一ヨハネの手紙とでは文体の違いがあるからです。この場合、ヨハネ福音書の著者・編者と三つの書簡とは、別人の作になります。だから、ヨハネ福音書が、始祖とその弟子との二人の共同の編集によるとしても、福音書の編集に関わったその人物と書簡の「長老」とは別人になります。このために、ブラウンの説のように、福音書は始祖とその弟子によるとしても、書簡の「長老」のほうは、始祖の愛弟子から見れば、3代目の「長老」になるという見方が出てくることになります。
 (4)では、第一の手紙の筆者を第二と第三の手紙の筆者から区別します。区別する理由は、第一ヨハネの手紙は公同の書簡であり、他の二つは短い個人的な手紙であるというのがその主な理由です。ただし、この説に対しては、公同書簡と個人的な手紙とは文書の性質が違う以上、その様式が異なるのは自然であるから、このために、第一と、第二・第三とは、それぞれ著者が別人だと見なす理由にはならないという反論があります。
 なお、(1)〜(3)のどの場合でも、ここにあげた著者以外に、同じヨハネ共同体内の他の人たちが何らかの形で参与している可能性を認めています。ヨハネ黙示録の著者については確かなことが言えません。伝承によればこの預言者もまたヨハネ共同体にかかわる人物であったことになります。ヨハネ福音書と三つの手紙には黙示的な性格があまり見受けられないのに対して、ヨハネ黙示録は典型的な黙示文学ですから、これの著者を他の文書の著者とは別人だと見なすのです。
 現在のエフェソの遺跡の東北にある聖ヨハネ聖堂跡には、「聖ヨハネの墓」があって、そこには、使徒のほかに五名の弟子たちが葬られていると伝えられています。彼らが全員「ヨハネ」を名乗っていたとは思えませんが、複数の「ヨハネ」が存在していた可能性があります。
■三つのヨハネの手紙
〔筆者と年代〕
 ヨハネ福音書は、おそらく「主の愛する弟子」であった始祖ヨハネが伝えた証言にさかのぼると思われますが、福音書それ自体は、ヨハネ共同体の内部で形成されたものです。わたしは、この福音書が、共同体の始祖が世を去った(おそらく90年代後半?)その後で、エフェソで最終的な成立を見たと推定しています。ヨハネ福音書と第一から第三までのヨハネ系書簡は、時期的にこの順序で書かれたものであり、第二と第三の書簡には「長老」によることが明記されています。第一ヨハネの手紙もまた同じ長老によると見る説があります〔Stephen S. Smalley. 1,2,3 John. Word Biblical Commentary. Word Books (1984).Introduction "The Johannine Writings"〕。書簡の三つの手紙の執筆時期は、クラウクが推定する100〜110年よりも少し早く、95〜100年頃で、その場所はエフェソでしょう〔H・=J・クラウク『ヨハネの第一の手紙』住谷眞訳。EKK新約聖書註解23の1巻。教文館(2008年)参照〕。
〔第一ヨハネの手紙からの引用〕
 第一ヨハネの手紙が引用されている最古の例はエウセビオスが紹介しているパピアスからの引用です。エウセビオスは、パピアスが「アリスティオンや長老ヨハネの言葉を実際に聞いた、と言っている」と伝えています〔エウセビオス『教会史』3巻39章7節/エウセビオス『教会史』(1)秦剛平訳。山本書店(1986年)〕。パピアスのこの証言は100〜140年頃です〔クラウク前掲書〕。
 殉教したスミルナの主教ポリュカルポス(69/70〜155/6年)は、フィリピの教会へ宛てた彼の手紙で、「というのはイエス・キリストが肉となって来られたことを告白しない者はみな、反キリストだからである」と述べています。これから判断すれば、紀元150年以前に第一ヨハネの手紙が知られていたことになります。第一ヨハネの手紙からの最も確かな引用は、エイレナイオスの『異端反駁』(180〜85年)3巻16章5節にでてくるもので、第一ヨハネ2章18節が引用されています。正典化について言えば、ヤコブによる手紙と第一ペトロの手紙と第一ヨハネの手紙は、すでに200年頃に「公同(カトリック)書簡」として認められています。しかし第二と第三ヨハネの手紙を含む現在の新約聖書全部が正式に正典化されたのは、397年のカルタゴ教会会議においてです。
 第一の手紙と第二と第三の手紙は、従来ヨハネ福音書の後に書かれたと考えられてきましたが、これには異説もあり〔『新共同訳新約聖書注解』(2)〕、手紙が書かれた当時、ヨハネ福音書はまだ完成していなかったという説さえあります。例えば、手紙に出てくる「御霊」とは、ヨハネ福音書の「パラクレートス」よりも以前の段階を指すと見るのです〔Hengel. The Johannine Question. 55〕。しかし、福音書に反映されている論争や分裂と、手紙で言及されている出来事とが「同時に」進行していたと判断する必要はないでしょう。手紙に表われるような分裂の過程にはかなりの段階や時期があったと推定されますから、手紙は、やはり福音書の成立以後だと見るほうが妥当でしょう。そうだとすれば、三つの手紙が書かれたのはヨハネ福音書(90〜95年)とイグナティオス(没110年以降)との間の時期になります。
■ヨハネ福音書と第一ヨハネの手紙
 第一ヨハネの手紙は、ヨハネ福音書の「修正」ではありません。それは、ヨハネ福音書に内蔵されていた霊的な特質を一層明確に引き出そうとするもので、これを敷衍することを意図するものです。手紙には、福音書の特質を拡大・発展させようとする手法を認めることができます。「わたしたちは互い愛し合おう」とあるように、この共同体は、一致してそのアイデンティティを保つことを求めています。にもかかわらず、ヨハネ共同体は、「新たな事態」に対処しようとしているのです。
 この「新たな事態」への対処は、福音書と第一ヨハネの手紙との間で、強調点の置き方の違いとなって表われています。例えば、福音書では、御子と父との一体関係が、信者とイエスとの一体関係と対応しながら、どちらの関係も強調されています。ところが、手紙では、「イエスが神の子」(第一ヨハネ4章15節)であることを強調する一方で、「<わたしたちが>神の子」であることもまた強く印象づけられるのです。これが最も明確に表わされているのが、「神は愛である」(同4章8節)を含む4章7節以下でしょう。この手紙は、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか」を主題としていると言うことができます。それは、ヨハネ3章16節をさらに発展させて、「神とわたしたち」との関係に目を向けさせるのです。
 福音書と第一ヨハネの手紙のどちらにも「永遠の命」が語られており、これと並んで「贖い」のテーマも両者に共通して繰り返されます。福音書では、「贖い」はパンやぶどう酒のような聖餐の隠喩で表わされますが、「贖い」それ自体が明確に定義されてはいません。第一ヨハネの手紙では、「(イエス・キリストは)全世界の罪のためにささげられた贖いの供え物です」(2章2節[フランシスコ会訳])とあって、「贖い」がより明確に定義されています。
 第一ヨハネの手紙の文体について言えば、そこに螺旋状に展開する叙述のスタイルを見ることができます。例えば、第一ヨハネ2章12〜14節や4章7〜11節などです。また、類似の内容を並行させるスタイルとしては、2章11節/同27節/5章2〜3節などがあげられます。これに対して、対立する命題を並行させている例は、1章6〜7節/同8〜9節/2章9〜10節/3章7〜8節/4章2〜3節などです。
■第二と第三の手紙
 ヨハネ福音書と三つの手紙との用語に注目するなら、ヨハネ福音書と第一の手紙との共通語に、「命」、「光」、「闇」、「真理」、「父と子」、「とどまる」、「新しい戒め」などがあり、第二の手紙との共通語には「真理」、「とどまる」があり、第三の手紙との共通語には「真理」があります。これに対して、三つの手紙だけに表われるのは、「反キリスト」、「報い」、「教会」、「異教徒」などです。第二と第三の手紙は、福音書から発展した教えを含んでいますから、第一と第二は、共同体の亀裂の時期に書かれと考えられており、第三は、第二の結果の行き過ぎを是正するために書かれたという推定があります。
 ただし、「教え」「反キリスト」「教会」「異教徒」など、手紙だけに見られて福音書に表れない言葉がありますから、福音書と第二、第三の手紙の間には、それなりの時間的な経過があったでしょう。わたしたちはそこに、比較的少数で、固い結束を保っていたユダヤ人キリスト教徒を中心とする共同体が、一つの「宗団」として形を整えつつ、ファリサイ派との対立を経て、多様なヘレニズム世界に対応しようとしている姿を読み取ることができます。共同体は、その過程において、「ユダヤ的」な性格から、徐々に異邦世界にも通じる「普遍性」を獲得していくのです。
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■後期のヨハネ共同体
 ヨハネ共同体は、ユダヤ教ファリサイ派、特にヤムニア学院のファリサイ派との対立を経て一つの危機を克服しました。共同体は、この危機を通り抜けることによって、キリスト教の共同体としてユダヤ教から完全に独立し、そのアイデンティティを確立しました。しかし、これに続いて、おそらく90年代の後半に入って、ヨハネ共同体は第二の危機を体験することになります。今度の危機は、共同体の内部から生じたと思われます。このために共同体は分裂するにいたります。だから、ヨハネ共同体のこの時期(第三期)については、ほとんどがその分裂にかかわる問題になります。この間の事情を探る手がかりとなるのが、ヨハネ福音書と、とりわけ第一から第三までのヨハネ系書簡です。
〔地理的状況〕
 ヨハネ系書簡は、キリスト教の諸集会が、まだ比較的少人数の「家の集会」(20〜30名ほど?)の段階にあった時代のものです。ヨハネ共同体に属する諸集会は、おそらくエフェソを中心にその周辺に散在していたでしょう。同じ地域内には、ユダヤ人の会堂があり、またパウロ系の諸集会の集まりも行なわれていたはずです。だから、ヨハネ共同体が他の諸教会から孤立していたとは思えません。
 第一ヨハネの手紙の作者は、ヨハネ共同体の諸集会の人たちを「子たちよ」と呼んでいます。また、第二と第三の手紙の差出人は「長老」とありますが、おそらくこの長老は、エフェソの母教会から離れたところに散在する周辺の別々の集会に宛てて書いているのでしょう。それらの諸集会は、異なる都市あるいは町にある集会なのか、同じ都市内の異なる場所の集会なのか、どちらにも想定することができます。
 第三ヨハネの手紙の1節と9節から状況を判断すると、ガイオは、ディオトレフェスと同じ集会に所属していたのでしょうか〔ブルトマン『ヨハネの手紙』川端純四郎訳(日本基督教団出版局)〕。もしもガイオが、ディオトレフェスのことを長老から聞くまで知らなかったとすれば、二人は、共同体の異なる集会に属していたことになります。集会の責任者であるディオトレフェスが、長老が派遣したデメトリオを拒んだために、長老は、おそらく別の集会のガイオに、デメトリオを迎え入れるよう依頼したと考えられます〔ブラウン『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷』〕。
 長老が派遣したデメトリオには、教師としての巡回伝道旅行のために援助が必要だとあります(第三ヨハネ8節/12節)。彼のこの旅程を丸一日から三日の旅程の範囲で、諸集会の地理的な広がりを推定するなら、エフェソ周辺の町々から、さらにヨハネ黙示録2〜3章にでてくる七つの諸集会、すなわちアジア州全域にわたる範囲が想定されます。
 ヨハネ黙示録が書かれたのはドミティアヌス帝(在位81〜96年)の時期だと考えられますから〔Beale. The Book of Reveration.9.〕〔佐竹明『ヨハネの黙示録』(上)〕、時期的にヨハネ福音書とヨハネ系書簡が書かれた時期にあたります。しかし、ヨハネ黙示録の著者は、たとえヨハネ共同体に関係する「ヨハネ」であったとしても(ヨハネ黙示録1章2節/4節)、この執筆者は、ヨハネ福音書やヨハネ系書簡を著わした始祖とも長老とも異なる人物で、別の預言者的な人物だと考えられます〔Beale.  The Book of Revelation. 36.〕〔佐竹前掲書50頁〕。だから、ヨハネ黙示録の七教会の地域をそのまま第一ヨハネの手紙が回覧された範囲だと見なすわけにはいきません。書簡が宛てられた範囲は、アジア全域よりも、もう少し狭く、事実上エフェソとその周辺の町々に限るべきでしょう。
〔長老とヨハネ共同体〕
 1世紀の終わりまでは、複数の長老(ギリシア語「プレスビュテロス」)たちが、エクレシアの運営と牧会の責任者でした。2世紀のパピアスとエイレナイオスは、「長老」という用語を複数の異なる意味に用いていますが、一般的に言えば、「長老」は、イエスの目撃者である使徒たちの次の世代を指しています。だから、「長老たち」の権威は、使徒たちの権威に及ばなかったと思われます。シリアのアンティオキア教会を指導したイグナティオス(35頃〜107/117年?)のように、例外としてカリスマ的な監督もいたけれども、2世紀以前には、諸集会を束ねる「大司教」あるいは「監督/主教」(ギリシア語「エピスコポス」。英語 "Bishop")が制度的に確立していた例は見られません。
 とりわけヨハネ共同体では、人間を超えたパラクレートスが霊的権威の源泉でしたから(14章26節/16章13節)、イエスの愛弟子でさえ、このパラクレートスの支配の下に置かれています(第一ヨハネ2章27節)。ヨハネ共同体は愛弟子を動かしていたパラクレートスを受け継いでいましたから、彼が逝去した後も、その同じパラクレートスが、彼の弟子たちに受け継がれ、弟子たちを動かしていたと考えられます。
 このような状況にあっては、第二と第三の手紙の「長老」が、ヨハネ共同体の母教会の主な責任者だと言うだけでは、彼が分離派と闘っていた事情も、それぞれ別の「長老」を有すると思われるヨハネ共同体の諸集会と彼との関係も説明できません。ヨハネ書簡の長老は、彼に対立する者(ほかの長老?)を統制できない状態にあったようです。
 ヨハネ共同体は、ヨハネ福音書の作者とその編集者たちが言うパラクレートスを受け継いでいる人たちですから、第一ヨハネ1章1〜3節の目撃者「わたしたち」とは、愛弟子のパラクレートスを共有する弟子たちのことです。ヨハネ系書簡の長老は、「わたしたち」から「兄弟たち」へ呼びかけていますが(第一ヨハネ3章13節)、「子たち」とも呼んでいます(第一ヨハネで7回ほど)。しかし、呼びかけられた相手の「兄弟」たちは、書簡の長老と必ずしも同一意見だとは限らないようです。
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■ヨハネ共同体の分裂
 以上のような状勢の下で、、「わたしたち」の間で、愛弟子から受け継いだパラクレートスの解釈をめぐって分裂が生じることになります。このために第一ヨハネの手紙の長老は、「初めからあったもの」の正統な継承者として、自分自身のパラクレートス観を共同体の諸集会に提示するのです。
 分裂の理由のひとつに「先在の」ロゴスと「地上の」イエス、この二つがどのように関連づけられるのか? という問題があります。これはヨハネ共同体だけの問題ではなく、2世紀以後のキリスト教の神学論争においても重要な課題であって、この課題はニカイア公会議(325年)での三位一体論の成立につながります。ヨハネ共同体が直面した問題は言わばこれの発端となる出来事でした。具体的には次の三つが、分裂の理由ではないかと考えられます。
(1)長老ヨハネは「霊と水と血」を強調していますが(第一ヨハネ5章7〜8節)、このことから逆に判断すると、分離派は<人間としての>地上のイエスに、救いの力を認めなかったようです。彼らは、イエスの地上での生涯とその十字架に<贖い>の意義を見いださなかったのです。この見方は、救い主としての霊なる「キリスト」と地上の「人間イエス」とを分離するのです(ヨハネ19章34節のイエスの「血と水」を参照)。キリストは先在していて、人間イエスにおいて「仮の姿」をとって顕れたにすぎず、したがって、死んだのは人間イエスであって、「仮住まい」のキリストは、十字架にかかることなく天へ戻ったと見なすのです。これを「仮現説/論」と言います。ちなみにケーゼマンは、ヨハネ福音書に、<素朴な>仮現主義を読み取っていますが、おそらく分離派もケーゼマンに近い読み方をしたのでしょう。
(2)「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とする」(第一ヨハネ1章10節)と長老が言うのを見ると、分離派のほうは、彼らの言う「キリスト」にあって、人間(彼ら自身のこと)は完全に罪のない状態になることができると主張したと思われます。
(3)分離派は、終末を徹底的に「現在化」して、未来の終末を信じなかったようですが、この点は後述します。
(4)ヨハネ共同体は、始祖が伝えるパラクレートスによって導かれていて、始祖が逝った後も、そのパラクレートスの臨在は続いていました。したがって、手紙で語られる「わたしたち」とは、始祖からの一貫したパラクレートス共同体のことです。「パラクレートス」は<地上の>イエスの臨在そのもので、この霊性は、以後の共同体でも一貫して保たれてきました。ところが、「指導者になりたがっているディオトレフェス」(第三ヨハネ9節)は、このようなヨハネ共同体の長老中心のあり方に異を唱えたようです。彼のこの動きの背後には、当時すでに制度化されつつあったほかのキリスト教諸教会の影響があったのかもしれません。だとすれば、第三の手紙で示唆されている「分裂」は、共同体の信仰的な動機からだけでなく、共同体の制度的な問題に関しても意見の対立があった可能性があります。 例えば、「御子から注がれた油以外に誰からも教えてもらう必要がない」(第一ヨハネ2章27節)という言葉は、この共同体の独特な個人主義的傾向を語っていますが、これは同時に、共同体のメンバーたちが分離派の教師たちの影響に対抗するためにも必要な教えだったのでしょう。この共同体では、全体の統一を堅持する「組織化」が押し進められることがなかったのです。指導者は、組織の代わりにキリストのパラクレートスの働きによって「コイノニア」を維持しようと目指したからです。しかし、このような方式には、共同体内に対立や分裂が生じた場合に、これに対する有効な対策をとることができないという「弱み」があります。分離派は、共同体のコイノニアを破ることにおいて決定的な誤りを犯しているのですが、長老ヨハネは、分離する者たちへの有効な対抗策を見いだすことができなかったようです。
 要するに、過去にヨハネ共同体が「ユダヤ人」と対立する原因となった<高次のキリスト観>が、今度は共同体それ自体を分裂に追い込むことになったと見ることもできましょう。この結果、長老ヨハネ(ヨハネ系書簡の作者)に従う人たちは、「イエスが肉体を持って来たことを否定する」者たちを「反キリスト」と呼んで、異端的な者たちを排除するようになります。同時に、共同体の内でも「霊を吟味する/確かめる」よう求められるようになります(第一ヨハネ4章1〜3節)。これに対して分離派のほうは、神的なキリストは「上から」来たのであるから、「この世」には属さないという信仰に立って、キリストの地上における生涯に救いの根拠を求める信仰を拒否したと考えられます。彼らにとっては、天から降下した御子の神性それ自体を「知る」ことが重要であって、この知識に達した者は、すでに救いが完成/成就していると見なされたからです。
 共同体の分離派による内部的な対立と、ユダヤ教徒を始め外部の反対者たちからの疎外に耐えきれずに、結果としてヨハネ共同体は、司教/主教制の使徒的な「大教会」"the Great Church" の指導が必要だと考えるようになります。この時期に、ヨハネ共同体の中に「普遍的(カトリック)な教会」観が芽生えます。ただし、ヨハネ福音書が分離派などに利用されたり、後に「グノーシス」と呼ばれる異端の諸派によってこの福音書が引用されたりしたために、使徒的教会とヨハネ共同体との合一の過程は「すんなり」とはいかなかったようで、合一が何時どのように行なわれたのか、その過程はよく分かりません。
 また、分離を機に、ヨハネ共同体のかなりの者たちが、分離派の主張を受け入れるようになったでしょう。彼らは後にグノーシス主義に走り、ヨハネ福音書は、彼らによって<グノーシス的に>解釈されるようになります。彼らはさらに、<救い主>であるロゴス・キリストの先在を信じる代わりに、<救われる者>たちこそ世の初めから先在したと信じるにいたります。これが生じたのは2世紀で、ヨハネ共同体の第4期です。
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■「反キリスト」とは誰か?
 ここでわたしたちは、ヨハネ共同体を分裂に追い込んだ分離派とは、いったいどのような人たちで、彼らはどのような信仰を抱いていたのか? これについて見ていきたいと思います。長老は彼らを「反キリスト」(真のイエス・キリストに<取って代わる者>)と呼んでいます。これについても諸説がありますが、(1)エビオン派ユダヤ人キリスト教徒、(2)ケリントス主義、(3)仮現説、(4)グノーシス主義、(5)超越的キリスト論などがあげられています。
〔エビオン派〕
 分離派には、エビオン派のユダヤ人キリスト教徒たちがいたという説があります。「エビオン」とはヘブライ語の「貧しい人(たち)」を意味していて、この呼び方は旧約聖書にもでています。この用語はユダヤ教の特定の一派を指す場合があり、クムラン文書では、すでに「貧しい者の会衆」として、特定のグループを指す呼称として用いられています。この派の中からユダヤ人キリスト教徒になった人たちが相当数いたことから、エルサレムの原初キリスト教会を形成していたユダヤ人キリスト教徒は、自分たちを「貧しい人たち」と呼んだのです(ガラテヤ2章10節参照)。ただし、彼らが他のユダヤ人キリスト教徒とどこまで区別されていたかは明らかでありません。
 エビオン派は、エルサレム滅亡の後で、ヨルダンの東方に(さらにシリア地方へ?)逃れて、その地方で広まったと言われています。ヨルダンの東方と言えば、ヨハネ共同体がいた所在地に近い所です。エビオン派は、ナザレ派と、ファリサイ的エビオン派と、エッセネ主義のエビオン派、グノーシス的エビオン派などに分けられますが〔『キリスト教大事典』〕、実際にこれほど細かな区別はなく、これらの混淆がその実態であったようです。ナザレ派は最初期からのユダヤ人キリスト教徒ですが、グノーシス的なエビオン派は2世紀になってからでしょう。エッセネ派エビオンは、後にグノーシス的になりますが、彼らがケリントス主義の源流ではないかと考えられています。2世紀前半頃に『エビオン人福音書』が書かれましたが、これは現存せず、そこからの抜粋だけが残されています〔『聖書外典偽典』(6)新約外典(T)〕。
 エイレナイオスは、キリスト教会で初めて、明確にヨハネ福音書に言及した(180年頃)司教として知られています。彼はその『異端反駁』(1巻26章)で、ケリントス派、ニコライ派と並んで、このエビオン派を異端としてあげ(同2節)、次のように述べています。
「彼らはマタイ福音書のみを受け入れ、パウロを律法への背信者として拒否する。・・・・・割礼を実行し、忍耐強く律法に命じられた慣習を遵守し、その生活はユダヤ式で、エルサレムを神の家として崇めている。」 〔The Ante-Nicene Fathers. Trans. by Alexander Roberts and James  Donaldson. T & T Clark. Book(I)XXVI. 2.〕
 エビオン派はまた、処女降誕を否定し、イエスはヨセフとマリアの息子であり(イエスはキリストではなく預言者であるという意味)、イエスの洗礼の時に初めて「キリスト」が鳩となって人間イエスに降ったと信じていました。しかし、十字架の処刑に先だって「キリスト」だけが天に戻った。またイエスは、律法を成就することによってよみがえり、「キリスト」にされたと考えて、彼らも割礼や安息日その他のユダヤ教の律法を守り、犠牲を拒否し、聖餐には水を用いたと言われています。これらの点から見ると、ケリントス主義に近いようです。ただし、エビオン派が、どこまでヨハネ共同体の分裂に関与したのか、この点はよく分かりません。
〔ケリントス主義〕
 「ケリントス」はギリシア名で、100年頃に小アジアにいた人です。ユダヤ人キリスト教徒で、「エジプト人の知恵によって教育された」〔エイレナイオス前掲書26章1節〕とありますから、その思想は、エビオン派とアレクサンドリアのグノーシス主義とが結びついたものだと考えられます。アレクサンドリアのユダヤ教的グノーシスと言えば、わたしたちはすぐにフィロンとの関連を思い出しますが、フィロンとグノーシス思想とは区別されなければなりません。
 エイレナイオスが、エビオン派と「類似するところがある」としてあげているのが、ケリントス派です。この派は100年頃に小アジアに現れましたが、主張は上に述べたエビオン派のそれとほぼ同じです。エビオン派は、マタイ福音書を重視して、パウロを律法に対立する異端者と見なしていました。これで見ると、ケリントスとそのグループもマタイ福音書を用いて、キリスト教徒はモーセ律法を守るべきだと教えていたのでしょう 〔Anchor(1)885〕。
 ケリントス派の教義は、エビオン派よりもさらにその創造論においてキリスト教と異なっています。彼らによれば、造物主とは真の神とは別個の「力」のことであり、その造物主は真の神に対して無知であり、したがって造物主によって造られたこの世界は悪に支配される不完全な存在です〔エイレナイオス前掲書26章1節〕。このような造物主は「半神」(デーミウールゴス)と呼ばれます。2世紀以降のユダヤ・グノーシスでは、旧約の神ヤハウェこそ、この不完全な半神であると見なされました。ケリントス主義は、超越的な神から世界の創造者である半~を区別し、イエスは人間にすぎず、彼の上にキリストが降ることで神の子とされたが、「キリスト」は霊であるから十字架にかかることがなく天界に戻ったと主張しました〔エイレナイオス前掲書〕。ケリントス派グノーシスの教義もエイレナイオスによって厳しく論駁されています。
なお、エイレナイオスは、使徒ヨハネが、エフェソで浴場にいた時、ケリントスが入ってきたので「真理の敵が入ってきたから浴場が倒れると、急いでその場を出た」と伝えています〔エイレナイオス『異端反駁』1巻3章4節〕。ちなみに同じ箇所でエイレナイオスは、使徒ヨハネの弟子ポリュカルポスが、異端のマルキオンに会った折りに「わたしはあなたがサタンの子であると知っている」と語ったことをも伝えています。
〔仮現説〕
 「仮現説」(ドケティズム)とは、ユダヤ教から出た「天使の顕現」説です。これは後に(2世紀後半)グノーシスへと発展します。トビト記には、天使ラファエルがトビト夫婦に顕現した記事があります。その折りにラファエルは、「飲み食いしている<ように見えた>」が、それは「そのように見えた」だけで、「わたしは実際には何も食べなかった」と告げています(トビト記12章19節)。同じように、神から遣わされたキリストは、人間イエスに「仮の姿で」宿っただけであるから、「キリスト」のほうは、イエスと共に十字架にかかることなく天界へ帰還したという説です。こうなると、「キリスト」と実在の人間イエスとの関係は、ホメーロスの『オデュッセイア』などにでてくる神々と人間との交流の世界に近くなりますから、仮現説は、ヘレニズム化したユダヤ教から出たのでしょう。
〔グノーシス〕
 キリスト教以前のヘレニズム世界のグノーシスは、すでに中期のプラトン主義から存在していました。それは魔術、プラトニズム、神秘主義、ユダヤ黙示思想など多様です。したがって、1世紀の段階での「グノーシス」は、その起源が、ユダヤ的あり、ヘレニズム的あり、オリエント的あり、キリスト教的ありで、多種多様です。新約聖書との関連で言う「グノーシス」も、ユダヤ思想とキリスト教と、1世紀前後の中期プラトン主義との混合です。グノーシスの定義は広範囲であいまいですから、わたしは、「グノーシス」という用語を2世紀後半においてキリスト教側から異端とされたグノーシス派の思想に限定して用いています。
 こういうわけで、1世紀の段階で、キリスト教グノーシスとキリスト教正統派とを区別することはほとんど無意味です。ヨハネ福音書やパウロ系書簡など新約聖書の諸文書を短絡的にグノーシス思想に結びつけてはなりません。新約聖書に、2世紀のキリスト教的グノーシス思想を当てはめるのは不当だからです〔Keener, John (1) 168-69.〕。「グノーシス」は知恵思想と関連しますから、ある意味で、新約聖書のキリスト教は、その全体が、後期のグノーシスへ発展する可能性を有していたとさえ言えます。だから、新約聖書のある文書がグノーシス的かどうかは、後期(2世紀)のグノーシスから、1世紀へ逆にさかのぼって判断するという複雑な方法論によることになります。
 ヨハネ共同体と「グノーシス」思想との関係は複雑です。先ず確認しておきたいのは、グノーシス的な「贖い主」の思想はキリスト教以前から存在していたことです。このグノーシス的贖いの神話をヨハネ福音書の神学的背景に読み取ろうとする見方がありますが、このような憶説は不適切です〔Keener, John (1) 169.〕。ただし、ヨハネ共同体には、おそらくグノーシス的な傾向を帯びやすいユダヤ人キリスト教徒や異邦人キリスト教徒たちがいたでしょう。
 ヨハネ共同体とグノーシス思想との関係を複雑にした理由として、ヨハネ福音書と後のグノーシス主義者たちとの関わりがあります。ヨハネ福音書が一般に知られるようになるのは、グノーシス主義のヘラクリオン(160〜180年)や同じくグノーシス系のヴァレンティノス派のプトレマイオスによってです(同じ2世紀半ばの天文学のプトレマイオスとは別人)。このように2世紀のグノーシス主義者たちがヨハネ福音書を利用したために、この頃、グノーシス派と激しく対立していた正統派のキリスト教会は、ヨハネ福音書を不信の目で見ていたのです。これには、ヨハネ福音書が2世紀の半ば近くに書かれたという誤解もありました。
 このためでしょうか、正統派であるスミルナのポリュカルポスは、ヨハネの第一の手紙に言及するのみで、福音書からは引用していません。一方で、エイレナイオスは、ヨハネ福音書へのグノーシス論に反論して、ヨハネ福音書は反グノーシス文書として書かれたと主張しました。エイレナイオスは、グノーシスを始めとする異端への反駁を行なった人ですが(『異端反駁』180〜85年)、彼は、ヨハネの第一の手紙がこの福音書の正統的な読み方を伝えていると見て、このことが、彼をしてヨハネ福音書を支持するように促しましたから、後にオリゲネス(184/5〜253/4年)もヨハネ福音書が正統であると主張しました。殉教者ユスティノスは、ロゴス・キリスト論を知っていたし、アレクサンドリアのクレメンスも、2世紀半ばには、ヨハネ福音書の存在を知っていました。ヨハネ福音書がはっきりと正統教会で用いられた証拠は、アンティオケアのテオフィロスが書いた『弁明』(180年頃)に見出すことができます。ヨハネ福音書は、200年のムラトリアムにおいて、正式に正典と認められました。
 ヨハネ共同体とこの問題との関わり方は、シリアのアンティオキアの監督/司教であったイグナティオスの場合と似ています。イグナティオスも一方ではユダヤ主義的な信仰と戦いつつ、他方ではグノーシス的な異教主義と戦うという、相反する二面作戦をしなければなりませんでした。ヨハネ共同体も、一方では共観福音書系の教会の「低次な」キリスト論と対抗しつつ、他方ではグノーシス的で人間イエスを軽視する教説に対抗しなければならなかったのです。
 20世紀になって、ブルトマンが、ヨハネ福音書とグノーシス派との間に用語の類似を見出しました。ドイツではこの見方が支配的になり、ヨハネ福音書の背景にマンダ教の文書や『ヘルメス文書』、あるいはフィロンの思想があると考えられました。グノーシス的な見方の学者は、(1)ヨハネ福音書のグノーシス性が正統派による再編集を経て弱められたと主張したり、逆に(2)ヨハネ福音書の旧約的伝承がグノーシスによって歪められたという見方をしたり、(3)ヨハネ福音書のグノーシスに対して、第一ヨハネの手紙がこれを訂正したという見方をしたりしました。
 しかしながら、ヨハネ福音書とグノーシスとは、用語において類似してはいるものの、それらの用語が伝えている意味/内容においては、一致していません。だから、ボルンカムは、ブルトマンとこれに追従する説が、1世紀のヨハネ福音書に2世紀のグノーシスを時代錯誤的に反映させたと抗議したのです〔Keener, John (1) 162.〕。なお、グノーシス的な二元論とヨハネ福音書との関連では、下巻補遺の「ヨハネ福音書の二元性について」を参照してください。
 ナグ・ハマディ文書のキリスト教もヨハネ福音書の資料とは言えません。ヘルメス文書もキリスト教以前の異教的グノーシスを反映しているし、マンダ教とヨハネ福音書との関わりは、マンダ教文書の時期的な遅さからも、現在では支持されていません。こういうわけで、グノーシス的な視点から見た新約聖書批評は、現在では見直され修正されています。
■超越的キリスト論の問題点
 ここで言う「超越的なキリスト論」とは、ヨハネ福音書を、ヨハネ系書簡の作者である長老ヨハネとは異なる視点から読む人たちのキリスト論のことです。後期のヨハネ共同体は、(1)始祖ヨハネとその霊性を受け継ぐ長老ヨハネに忠実なメンバー、(2)この長老を中心とする共同体に批判的なユダヤ人キリスト教徒、(3)別の意味で批判的なヘレニズム的な異邦人キリスト教徒、これら三つに大きく分かれていたと推定されます。(2)に属するのは保守的なユダヤ人キリスト教徒であり、(3)に属するのは異邦人キリスト教徒と、これに離散のユダヤ人キリスト教徒たちも含めることができましょう。異邦人キリスト教徒や離散のユダヤ人キリスト教徒たちの中には、仮現説に近い見方に立って、イエス・キリストの「人間性」を十分理解しない人たちがいたからです。したがって、ユダヤ的傾向の者たちは<イエスの人間性>を強調し、ヘレニズム的な傾向の人たちは逆に<イエスの神性>を重視していたことになります。ユダヤ的傾向の者たちは律法を重視し、ヘレニズム的な傾向の者たちは「神の義人ナザレのイエス」という考えを軽視するのです。その上、共同体のこういう内部事情に付け入って、おそらく外部から?グノーシス的傾向の分離主義者が介入したと見る説もあります。
 この事情から判断すると、分裂の直接の原因は、外部からの働きかけによるものではなく、ヨハネ共同体の<内部から>生じたと見ることができます。ただし分離派は、いわゆるグノーシス主義者ではありません。第一ヨハネの手紙は「正統性」を意図していると指摘されますが、2世紀後半になって初めて明確になった正統信仰が、95〜110年頃から、すでにそのような正統性を意図していたとは考えられません。重要なのは、いわゆる「正統信仰」が、その初期段階において、対立する側と「真の含みにおいて」ほんとうにそんなに違っていたのか?ということなのです〔ブラウン『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷』271〜272頁(注)103/205〕〔Brown.The Community of the Beloved Disciple. 103.〕。
 ヨハネ共同体内部の分裂は、まだ仮現説やケリントス主義までにもいたっていない段階のことで、分裂は、ヨハネ福音書のキリスト論の解釈それ自体において生じたことに起因すると考えられます。
 ヨハネ共同体は、ヨハネ福音書という共通の遺産を引き継いでいますから、ほとんど同一の見解を持つ人たちです。ブラウンの見るところでは、相手側とヨハネ共同体との分離は、ヨハネ福音書の解釈そのものをめぐって生じたものです。長老は相手を論駁するのに、ヨハネ福音書から多くを引用していません(ただし第一ヨハネ1章4節=ヨハネ15章11節/第一ヨハネ3章11節=ヨハネ15章12節)。相手側もヨハネ福音書をよく知っていたからです。だから、第一ヨハネの手紙が後に使徒的教会(大教会)に受け入れられたからと言って、このことを根拠に、分離した相手がヨハネ福音書を歪曲して解釈したとさえ言えないのです。福音書を歪曲して解釈することと、福音書それ自体が、両方の解釈を可能にすることとは全く別の問題だからです。ブラウンによれば、ヨハネ福音書は、長老と分離派両者の論点から見れば中立です。言い換えると、相互の論点に対する明確な答は、ヨハネ福音書も持ち合わせて<いない>のです。だから、第一ヨハネの手紙の長老と分離派との間には、根本的な教義上の差はほとんど見られません。論争はヨハネ福音書に「新たな解釈」を要請するからです〔ブラウン前掲書〕。
 ではその差異はなんでしょうか? 長老は、分離派が「イエス・キリストが肉体となってこられたことを公に言い表わさない」(第一ヨハネ4章3節)と批判しています。ここで用いられている動詞「ホモロゲオー」(公に言い表わす/告白する)を「リュオー」(無効にする/解体する)と読み替えるかなり有力な異読があります。おそらくこの異読は、2世紀半ばから生じたグノーシス的な読み方を否定する意図から置き換えられたと思われます〔新約原典テキスト批評〕。だとすれば、第一ヨハネの手紙の主張と、これに反対する者たちとの差異を解く鍵の一つが、ここに隠されていると考えられます。
 ここでの「リュオー」は、イエス・キリストが「肉体」すなわち「人間」として来たことを「解体する」ことですから、長老の相手側は、おそらく人間イエスと霊のキリスト(救い主)とを「分解」して、それぞれを別個の存在だと見ていたのでしょう。この点ではケリントス主義やその後のグノーシス主義につながるのですが、問題は、第一ヨハネの手紙の段階で生じていた「分解/解体」が、はたしてどこまで進んでいたのか? という点にあります。
 長老と分離派との間で、ヨハネ福音書の解釈をめぐってどちらが正当な解釈なのかが争われたと思われますから、どちら側もヨハネ福音書が許容する範囲において、問題の差異が争われたと考えられます。この福音書が許容する範囲でのことですから、その差異はごくわずかだったに違いありません。両者は、先在のキリスト論と受洗によるキリスト論との解釈おいてやや異なるところがあった。こうブラウンは指摘しています。先在のロゴスが受肉することによって「人間」になったこと、これについては両者が一致していたものの、ロゴス・キリストが「人間」になったまさにそのことが、両者の間に差異を生じさせたと見ることができます。分離した人たちは、イエスに宿った聖霊が、必ずしも歴史的に存在した「ナザレのイエス」ただ一人である必要はなく、どこかの別の個人(例えばソクラテスなど?)でも受肉は生じえたという見解を採っていたのではないか、このように見ることが可能です。
 だから分離派から見ても、ロゴス・キリストは、どこまでも<実在の人間>ですから、この点において、分離派の解釈は仮現説ともケリントス主義とも異なります。まして、グノーシス的なレベルの解体にまではいたっていません。ロゴスの受肉を「ナザレのイエス」に限定しないのであれば、受肉は、人間の救済論としては有効に働きますが、救済史的に見れば、とりわけイスラエルの救済史観に立つならば、この「解体」は、ナザレのイエスの歴史的な意義を「無効にする」ことにほかなりません。
 ここで確認しておきたいことは、おそらく分離主義者たちは、長老たちこそが<彼らから>離れていったと見ていることです。しかも、長老たちよりも、彼らのほうが数において優っていた可能性さえあります。だから、第一ヨハネの手紙が指している相手のほうは、第一ヨハネの手紙の長老の主張をそのまま認めているとは思えません。長老は、相手の論述を(そのニュアンスを切り捨てて)固定された見本として提示していますから、<相手側の前提に立てば>敵対者にもそれなりの一貫した論理があったに違いないでしょう〔ブラウン『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷』〕。では、ヨハネ共同体の分裂を生じさせた内面的な動機はいったい何であったのか? 次の章では、この点を探ることにします。
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