16章 フィリポとナタナエルの弟子入り
             1章43〜51節
■1章
43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」        
               【講話】
              
【注釈】
■ヨハネ福音書の人の子
 イエス様は、エルサレムの最高法院で、裁判の時に大祭司から「お前はメシアか?」と訊ねられて、「あなたがたは人の子が、全能の神の右に座して、天の雲に乗って来るのを見る」と言われました(マルコ14章62節)。これだと「人の子」は、イエス様御自身のことを指すようでもあり、イエス様とは別に「人の子」が存在していて、やがて来臨すると言われているようにも聞こえます。いったいイエス様と「人の子」は、どのような関係なのだろうと論じられています。
 イエス様であってイエス様と全く同じでない。現に目の前に来ておられるイエス様のようでもあり、十字架の死以後に来られるお方のようでもあるというこの不思議こそ、実はイエス様の言う「人の子」の大事なところです。地上におられたイエス様と、御復活以後に弟子たちに顕れた御霊の御臨在のイエス様、この不思議な二重性をここに見るからです。
 ナタナエルとイエス様の出会いに見るように、「人の子」は現に目の前におられるイエス様御自身です。ヨハネ福音書では、「人の子」はイエス様ただ一人です。ヨハネ福音書は、人の子の終末での来臨について語る際に、共観福音書に比べて(例えばマルコ13章)、黙示的な要素が薄いと言われます。この「人の子」は、「アブラハムより先にいた」(8章58節)方であり、「先在の御言葉」(1章1〜5節)としても啓示されます。
 それなら、共観福音書の伝える「人の子」と異なるのかと言えば、そうでもありません。ヨハネ福音書の「人の子」は、地上におけるイエス様に重点を置いているとは言え、5章27〜29節では、「人の子」は明らかに終末に来臨するお方であり、この「人の子」は、ダニエル書(7章13〜14節)の「人の子」を受け継いでいます。ヨハネ福音書の終末性は、従来、誤解されてきました。これは、ヨハネ福音書が証しする先在のロゴス(御言葉)と、現臨する受肉のイエス様と、終末に顕現するイエス・キリストと、この三人のお方を結びつけて見ることをしなかったからです。先在と受肉と終末が不可分に連結していることは、ヨハネ福音書の創造論において初めて正しく理解することができます。「人の子」は天から降った者であり、また天へ昇る者ですが(3章13節/6章62節)、同時に受肉したロゴスは、この地上にあって創造の業を成就するために働き続けるのです(5章17節)。
■もっと偉大なこと
 1章29節から章の終わりまでに、「神の小羊」に始まって、「神の子」「メシア」「ナザレの(ヨセフの子)イエス」「モーセが記した方」「イスラエルの王」など、イエス様にかかわるほとんどの称号が、まとめてでてきます。これらの様々な称号の中には、当時のパレスチナで、すでに人々がイエス様について用いていたものも、そうでないものも含まれています。
 ところが、これらの様々な称号の最後に、まだ誰も知らないことで、これから起こる不思議な出来事が象徴的な言葉で示されます。それは、創世記28章10節以下でヤコブが見た夢の譬えとして語られます。ヤコブは、自分と天との間に梯子がかかっていて、その上を天使たちが登り降りする夢を見ます。しかし、ここ1章51節では、ヤコブが、「人の子」イエス様に替えられるのです。いったい、この人の子は、何を意味するのでしょうか? これが、今回の箇所の大事なところです。
 「人の子」は、救い主としてのイエス様ご自身を指すとともに(3章15節)、終末の審判者(5章27〜29節)をも意味します。特にこの福音書では、「人の子があげられる」(3章14節/8章28節/12章34節)、あるいは「人の子が栄光を受ける」(12章23節/13章31〜32節)とありますが、「上げられる」も「栄光を受ける」も、十字架の受難に始まり復活して昇天するまでの「出来事全体」を指しています。この「人の子」は全人類の贖いのために死を受け入れるのです。このように、ヨハネ福音書は、共観福音書の「人の子」を受け継ぎながらも、今まで明かされなかった「人の子」像を提示するのです。イエス様が、ナタナエルとほかの弟子たちに(そしてわたしたち読者にも)、すでに聞いている以上の「もっと大いなる事」を今に観ると言われるのはこの意味です。                                     
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