19章 エルサレムでの「しるし」
                                  2章23〜25節
■2章
23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
                       【講話】
                    
【注釈】
■「しるし」と信仰
 宗教に関心を持たない人が、なんらかのきっかけで入信する場合には、しばしばそのきっかけとなる出来事があります。それらは、人生の行き詰まりであったり、病気や家族関係の悩みだったりします。しかし、よく考えてみると、そのような悩みや行き詰まりそのものがきっかけではなくて、その悩みにその宗教の教えなり実践なりが、なんらかの解決を与えてくれた、ということが直接の動機になっているのが分かります。特に、そのきっかけが、人の話を聞くことよりも、自分が直接体験した出来事であった場合には、聞いた言葉以上に強い力となって人を信仰へ導く場合が多いのです。信仰にとって、体験は特別に重要な意味を持つことが分かります。
 宗教に関する話を聞いて納得しただけでは、人の心のあり方そのものが変わることはめったにありません。聞いた話が、自分の考えや生き方に合致していたり、自分が抱いていた疑問に答えを見出したりするのはもちろん大切です。しかし、それは、自分自身を少しも変えなくてもできることです。「納得した」のは、相手が自分のほうに合わせてくれたからだ、と言うこともできます。この段階での納得は、その人自身と同じくらいに頼りない。その人の心が揺らいだら納得もゆらぐからです。
 ところが、苦しい時に救いを求めて与えられた体験的な信仰は、納得とは違います。この場合、ほかに手だてを失って信仰を求めた場合が多いのですが、こういう信仰は、「信じてみよう」式に自分のほうで納得したからではない。状況が、いわば外からあなたに信仰を迫ったのです。こんな時、人は自分の理解を超えた力の存在を感得します。だから今度は、その人のほうから、いったい自分にはなにが起こったのだろうと、その不思議な力を自分なりに納得する努力をしなければなりません。話を聞く場合は、語る人があなたを納得させてくれます。体験では、自分のほうが納得するまで、自分を体験に合わせなければなりません。これが、信仰による自分自身の変容の始まりです。信仰があなたを変えたのなら、あなた自身が揺らいでも信仰そのものは揺らぐことがありません。
 こういう場合に、その信仰体験のことを「しるし」と言います。ある出来事が、あなたに神の存在を悟らせる「しるし」となったという意味です。「しるし」は、いわば道案内の矢印のようなもの、あるいは船の航海に必要な灯台や飛行機に必要な空港のサイン・ランプのようなものです。こっちの方角に行けば目的地に着けると視覚に訴えて教えてくれます。「しるし」は、このように、言葉でなく、感覚に訴えてわたしたちを導きます。
 信仰の「しるし」には、もう一つ大切なことがあります。それは、人間の理解や知識を超えたもの、不思議で神秘的なものをわたしたちに指し示すことです。「しるし」が感覚に訴えるのは、言葉ではどうにも説明できないものをリクツ抜きでその人に開示するからです。注意しなければならないのは、その「しるし」そのものが、神秘の正体ではナイことです。それは道標の矢印が目的地でないのと同じです。船が灯台に向かって航海したら、その船は岸壁に衝突します。それは、「しるし」ですから、あなたに神秘の存在を告げ知らせ、同時にどっちへ行けばそこへ行き着くかを知らせるのです。
 登山の道標にいたずらして向きを変えるのはとても恐ろしいことだと、わたしはある登山者から聞いたことがあります。嘘の道標(目的地が存在しない)、間違った道標は、登山者にとってきわめて危険です。あってはならないものです。しかし、あってはならないのは、道標が無くてはならないからです。宗教にとって「しるし」はこのように大切です。
 こう言うと、人に「しるし」となる出来事がなければ、その人は信仰を持つことができないと思うかもしれません。なにかのっぴきならない状況に追い込まれて、助けを求めることでもしない限り信仰とは縁がないというのは、確かに一面の真理です。ところが人間には、そういうのっぴきならない状況へと、自分で自分を追い込む能力が具わっているのです。必要が信仰の母なら、必要になる状況を創り出す力は信仰の父です。昔から、悟りや信仰に至るために、さまざまな修行が行なわれてきました。これは、おそらく神からの「しるし」に代わるために編み出された修行の道程なのです。
■「しるし」と奇跡
  ここで「しるし」と「奇跡」という用語について一言触れておきます。聖書には、現在わたしたちが用いる意味での「奇跡」という言い方はでてきません。それらは「力ある業」「しるしと不思議」などと表現されています。わたしたちは「奇跡」という言葉を自然現象としては起こりえない出来事を指す場合に用います。こういう「奇跡」の考え方は、近代以降に自然科学が発達して、自然法則による出来事とそうでない事とがはっきりと区別されるようになってから生まれた考え方です。したがって、イエス様の時代は言うまでもなく、ヨーロッパの中世でさえ、まだ「奇跡」という考え方そのものが存在していなかったと言えましょう。だから、現代の自然科学から見て、合理的に説明できる場合もできない場合も、神からの「しるし」として扱われました。
 癒しが現実の出来事かどうかは、意見が分かれるところですが、聖書に限らず、現代でも信仰による病気癒しは、いろいろな宗教で行なわれています。読者の方もお気づきの通り、「しるし」は何もキリスト教に限ったことではありません。「霊験あらたか」という言葉があるとおり、さまざまな宗教に、昔からそれなりの「しるし」がありました。
 わたしはかつて、学会でイギリスへ行き、その帰りにイタリアを一週間ほど回ってきました。ローマからバスで2時間ほど行くと、イタリア半島のちょうど中心に当たる地方に、アッシジという小さな町が丘の上にあります。そこは、12世紀から13世紀にかけて、聖フランチェスコが生まれて教えを説いた町で、聖フランチェスコ聖堂が町の端に建っています。この人は、キリスト教の歴史で、イエス様に最も近い人であったと言われるほどの聖人で、世界中から大勢の人がこの町を訪れています。このフランチェスコの感化によって、同じアッシジのキアラ(英語でクレア)という乙女が、出家して厳しい修行の道に入りました。彼女の建てた尼僧寺院が聖フランチェスコ聖堂からかなり離れた所にあって、聖キアラ教会と呼ばれています。天井になんの飾りもない質素な教会です。この教会には、なんとキアラの遺骸が、まるで蝋でできているように、その肉体も顔も腐敗することなく、ガラスのケースに収められて今なお拝観されています。聞くところでは、彼女を埋葬した後で、掘り出したところ、生前と変わらない姿であったので、驚いてこのように安置して現在に至っているということでした。13世紀に亡くなった人の遺体が、腐敗することなく現在も残っているというのは、彼女が聖人であった「しるし」とされています。これなどは現代の「奇跡」と言うべきでしょうか。
■ヨハネ福音書の「しるし」
 23節には、イエス様がエルサレムで過越祭の間に「しるし」を行なわれたとあります。共観福音書とヨハネ福音書とでは、「しるし」の扱い方に違いがあります。マルコ福音書では、「しるし」は「不思議」であり「力ある業」であって、父の神から与えられたイエス様のメシア性を現わすものです。だから「しるし」を見た人々は、驚いたり畏れたりします。しかし、ヨハネ福音書では、「しるし」は、人々を驚かせる不思議でも、畏れを生じさせる力でもありません。それらは奇跡と言うよりも純粋に「しるし」なのです。
 実は、ヨハネ福音書成立のもとになった「しるし物語」では、「しるし」の扱い方は、共観福音書と共通するところがありました。そこでは、「しるし」が、信仰を生み出すもととして描かれていて、「しるし」が疑われることは考えられていなかったのです。ところが、ヨハネ福音書では、イエス様は、ただ「しるし」を行なうだけではありません。そのような「しるし」がどこから生じるのか、その起源が問われるのです。5章19節でイエス様は、ご自分の「しるし」について、「自分からはなにも行なわない」と言われ、「ただ父の行なわれる業を見て自分も行なう」と語っています。それだけでなく、ヨハネ福音書では、「しるし」は必ずしも正しい信仰を保証しません。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」と24節にあるとおりです。9章では、「しるし」を目の前に見てもこれを拒否する人たちが登場します。わたしたちはここで、ヨハネ福音書が、「しるし」を見る(23節)と言うとき、それはどういうことを意味するのか。これを考えなければなりません。
■「しるし」との出逢い
(1)現代では、そもそも神の存在それ自体を信じない人たちがいますから、こういう人たちは、たとえ「しるし」を「見ても信じない」と言うよりは、「信じないから見ようとしない」人たちです。大勢の人たちが癒される現象が、自分の目の前で起こっている集会に出た後で、「あれはもちろんヤラセですよね」とさも当然のように言った学生がいます。
(2)6章には、イエス様が、メシアの「しるし」として与えたパンを食べて満腹した後でも、なお「新たなしるし」を求める群衆が出てきます。ただ目先の御利益だけを求めて、幾度でも同じ「しるし」をほしがる人たちです。
(3)6章の「群衆」は、「ユダヤ人」に変わります(41節)。わたしたちはここでも、「しるし」を見ても信じない人たちに出会います。この人たちが先に述べた人たちと違うのは、「しるし」を見ることを知っていることです。知っているのは、自分でかつて「しるし」を体験したか、自分の先祖から「しるし」について伝え聞いているからです。だから彼らは、神を見ることも宗教を信じることも知っています。ところが、まさにこのために彼らは神からの「しるし」をとらえそこなうのです。自分たちに伝えられた「しるし」、あるいは、自分たちが理解できる範囲での「しるし」以外にも、神が「違った働き」をされることを認めないからです。自分に与えられ、自分が納得できる「しるし」以外のものを一切認めようとしない人たちです。
(4)「しるし」を見て信じる人たち。1章にでてきたナタナエルの場合がこれにあたります。イエス様に出会う前に自分がどこに居たのかをイエス様が言い当てたとき、ナタナエルは、その「しるし」を信じて「あなたは神の子です」と告白します。ナタナエルは、イエス様に出会う前から相手が自分の居所を知っていたという不思議に出会います。これを超能力と言うのかもしれませんが、いわゆる超能力と「しるし」とは同じでありません。「しるし」は、必ずしも超能力、超自然の出来事でなくてもいいのです。神に祈って病院で手術を受けたら病気が治った。この場合、その出来事は、客観的に見て、祈った結果なのか、それとも医学的な結果なのかを区別するのは難しいです。その結果を神から与えられた癒しと「見る」のか、それとも単なる医学の結果だと判断するのかは、そこで生じた出来事を体験した人自身の心の目によるのです。
 ちなみに、こういう曖昧さを避けるためか、神に癒しを求めた場合には、病院に行ってはいけないと指示するキリスト教系の宗派があるようですが、この考え方は間違っています。「しるし」を現象面だけでとらえるとこういう誤りを犯すことになります。「しるし」は、灯台や道標の場合のように、これを見てその意味を正しく判断する必要があります。その意味が分かる人にとって、それが「しるし」となるのですから。「しるし」を見分ける心の目、これがなければ「しるし」とはなりません。だから、「しるし」は超自然(奇跡)なのか超能力なのか自然現象なのか偶然の一致なのか、こういう現象面にこだわっていては、「しるし」を正しく判断することができません。また、「しるし」をその人の心理現象や性格や幻想のせいにするのも正しい見方ではありません。灯台がただの電気に過ぎないとか、道標が板切れだとか説明されても、そういうことと「しるし」とは別個の問題だからです。「しるし」は、それ自体をいくら眺めて分析しても、なにも与えてくれません。「しるし」を信じることのできる人が、これを見て、それから「しるし」から<離れて>、それが指し示す方角へ歩み始めるときに初めて、「しるし」が意味を持つのです。
(5)「しるし」を見ないで、絶対無条件にただ信じる人たちがいます。これは、人間が神に対してとることのできる最高の行為です。だから、人間が神に出会ったときにできる行為は、最終的には「ただ信じる」ことだけです。しかし、これは、人間にとってある意味で最も難しい。20章では、トマスが、「この指を釘跡に入れ、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言います。すると、復活のイエス様がトマスに現われて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われ、最後にこう告げます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
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