29章 聖書が証しする方
5章31〜47節
■5章
31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。
32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。
34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
37また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
38また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
40それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
41わたしは、人からの誉れは受けない。
42しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
43わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
44互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
45わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
46あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。
47しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
■イエス様が証しする「別の方」
もしわたしが自分について証しするのなら
わたしの証しは真実でない。ところが
わたしについて証しする方が別におられる。
その証しが真実であるとわたしは知っている
その方はわたしについて証しするからである。
(5章31〜32節)
ここでイエス様は、自分が自分について証しするから、その証しは正しいと言っておられるのではありません。そうではなく、たとえわたしが証ししても、それは正しい。なぜなら、わたしの語ることを証しする方が「別におられる」からだ。こう言っておられます。御言葉の真実性は、「イエス様御自身の中に」あるのではなく、イエス様と<共に働いて>くださるお方のほうにあるからです。ところが、イエス様に反対する人たちは、イエス様が<自分自身で>語っていると思い込むのです。だから、イエス様が、ご自分からではなく、ほんとうは、ご自分を遣わされた方を通じて語っていることが分からない。これが分からないと、イエス様のほんとうのお姿を知ることができません。イエス様の御言葉のほんとうの霊性に触れることができないのです。彼らが、いつまでたってもイエス様を理解できないのはこのためです。
イエス様は、「別におられる」という御言葉に続いて、第一に洗礼者を出し、次にイエス様が行なっているみ業をあげ、父なる神を「別のお方」として出し、それから「聖書は<わたしについて>証しする」と続けます。
洗礼者がでてくるのは、イエス様が洗礼を受けられたときに降った御霊の証しを指すからです。イエス様が行なうみ業は、御霊のお働きにほかなりません。さらに、イエス様を通じて起こっている「出来事」、すなわちそのみ業をあげます。その上で、「別の方がおられる」と、父なる神御自身を提示するのです。実は、これらは全部同じで、父から出ている神の聖霊が、イエス様を通して働いていることを指します(15章26節)。
しかも、それらが、今の時に、聴く者に語りかけるのです。今このわたし(イエス様)を通じて父からの御霊が働く。このことを読みとり、これを聴きとる「あなたたち」一人一人にも聖霊が働いてくださる。すると祈りが湧きます。イエス様の語りかけが一人一人に働くからです。この祈りは、人を根底から揺さぶり、人の想い、人の言葉、人の妨げなどを取り払います。「主様!」という祈りを通じて、イエス様があなたと出会うのです。これが、聴く人、読む人に発し続けるヨハネ福音書のメッセージです。
■聖書を学ぶ
あなたたちが聖書を研究するのは
聖書に永遠の命があると思うからである。
だが、それはわたしについて証するものである。
それなのに、あなたたちは命を得るために
わたしのところへ来ようとしない。
(5章39〜40節)
イエス様はここで、聖書を学ぶことを批判しておられるのではありません。聖書をよく読んで確信しなさいと言われるのです。大事なのは、聖書が「わたしについて」書かれていると知ることです。イエス様の御臨在に接することが聖書を学ぶ目的です。聖書の御言葉を通じて御霊が働くからです。自分の知的な働きを過信するのではなく、謙虚に祈り求める時に与えられる御霊のお働きです。そこに顕れるイエス様のお姿こそ、父なる神からのお言葉です。こうして、イエス様は、み言(ことば)であり、御霊であり、実在する人格であることを聖書はわたしたちに証しするのです。
イエス様を否定する人たちは、二種類の「思い違い」をしているようです。一つは、御霊の導きなしに、自分たちの知的な働きによって、聖書の中に永遠の命を見出すことができると考えることです。もう一つは、御霊のイエス様は、聖書研究と対立するから、イエス様が、まるで聖書研究を否定しているかのように思い込むことです。「わたしがあなたたちを訴えると思ってはならない」と言われるのはこの点を突いています。訴えているのは、実は、<彼らが読んでいる聖書それ自体>のほうだからです。
聖書が、現在彼らの目の前に生じている神の聖霊の出来事を証ししているのに、彼らは、そこに働いておられる聖霊の語りかけを聞こうともしないのです。せっかく聖書を知り聖書を学びながら、自分の思惑(おもわく)、自分の考えにとらわれて、聖書から、イエス様の御臨在を聴き取ることができないのです。だから、彼らは「わたしのところへ来ようとしない」のです。これでは、「永遠の命」という驚くべき神の賜物に接することができません。聖書が与えるイエス様の命に与ることができません。
■人からの誉れ
互いに相手からの誉れは受けるのに、
唯一の神からの誉れを求めようとしないあなたたちは、
どうして信じることができようか。
(5章44節)
イエス様は、反対する人たちが、イエス様を受け入れることができない理由として、「人からの誉れ」をあげています。人はとかく、互いに誉め合い比べ合い、人のほうに目を奪われて、自分に働いてくださる神の語りかけに聴こうとしません。本心から神のみ心を求めるなら、神は必ず、イエス様を通してその人に語ってくださいます。そして、<自分に>語りかけてくださるイエス様を「愛する」ようになります。そこから、<あなたの命>が芽生えます。愛は命を育むからです。42節には、「命」と並んで「神に対する愛」が出てきます。命と愛、御霊の働きは突き詰めるとこの二つに行き着きます。愛と命は創造の源だからです。
イエス様は、自分が真理であり神から遣わされた者であることを人々に説得する使命を負わされている。だから、その使命を行なおうと頑張っておられるのだ。もしもわたしたちがこう考えるなら、それは思い違いでしょう。そんな風に考えるのは、まだイエス様の生き方を知らないからです。黙って主のみ前に信頼して歩む。それでいいのです。そうすれば、バルトの言い方を借りるなら、「すべて別の方がやってくださる」のです。イエス様は、ただ導かれるままに、黙って父を信頼し、そのみ心に従って歩まれるだけです。あとは、なにもかも「別のお方」がやってくださる。そこにおのずから父のみ業が顕れる。それだけです。だから「父の業」とは、イエス様の言葉も行動も一切を含めて、イエス様の生き方そのものです。イエス様には、「人間からの証し」よりも、こちらのほうが確かなのです。
わたしたちには、「父のお言葉」を伝える聖書が与えられています。「お言葉」は、神が遣わされたみ言(ことば)としての「ロゴス」です。み言が、今も生きておられて、罪の真っただ中にいる人間のうちに働いてくださる。これが「受肉」の神秘であり、「父のみ業」です。現に神ご自身が、ロゴスとしてのイエス様をわたしたち人類に受肉してくださっているのに、そのみ業を信じない。これでは、どんなに聖書を研究しても虚しいです。いろいろな人が自分の名前で書いたり語ったりすると、その人の名前でその人を受け入れます。バルトでもユングでも、どこぞの大学教授でもです。それはそれでいいのですが、それらの人を通して聖書に向かい、聖書を通じて語ってくださる「別のお方」に気がつかないと、いつまで経っても分からないのです。別のお方が直接に自分に向かって語っておられるのに気がつかないと、いくら聖書を勉強しても、イエス様を心から愛することができないのです。永遠の生命を与える父からのみ言を知ることができないのです。聖書を学び、祈りを通じて、イエス様が<自分に>お語りくださることを知ってください。
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