【注釈】
■7章前半について
〔錯簡の問題〕
 7章を始めるにあたって、以前にもでてきた錯簡が問題になりますが(5章「ベトザタの池」の注釈を参照)、この問題について、下巻補遺編「ヨハネ福音書におけるイエスの地理的行程」をも参照してください。すでに6章の注釈で説明したように、ヨハネ福音書は、ユダヤの伝統的なミドラシュの解釈法に準じて語られていますから、現代のわたしたちの歴史的な時間の経過や語りの論理的なつながりだけでは説明できない手法によって構成されています。だから、地理的な移動のなめらかさは、必ずしも編集者の真意とは限らないのです。よく吟味してみると、7章は、6章とつながりながら展開しています。したがって、ヨハネ福音書の有力な学者でも、6章~7章を現行の順序のままで解釈するほうを選んでいます〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
〔「時」について〕
 5章では、ベトザタの癒やしが、エルサレムの指導者たちとイエスとが対立する発端になりました。6章では、ガリラヤを舞台に、パンのしるしをめぐって、群衆からユダヤ人へ、さらに弟子たちの間へ、分裂が広がりました。7章では、イエスの兄弟たちに始まり、群衆、エルサレムのユダヤ人、ファリサイ派、大祭司とその下役、そしてニコデモが登場します。イエスに味方する者、敵対する者、賞賛する者、怒る者など、様々な人たちの反応が、まるで「かき回された蟻の巣のような」〔バルト『ヨハネ福音書』〕混乱状態を呈します。8章では、その混乱の中から、敵対勢力が結集して、イエスとユダヤ人指導層との鋭い対立へ移行します。
 7~8章は、仮庵の祭りの出来事を中心にひとつのまとまりを形成しています(ただし8章1~11節は別個の伝承です)。7~8章を読み解くにあたって、今回の箇所が一つの鍵を提供してくれます。それは、6節に提示されている「イエスの時」と「兄弟たちの時」の本質的な違いです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。兄弟たちは、イエスが<自分の好きな時に>いつでもエルサレムへ上がることができると思い込んでいますが、イエスは、<自分の時>を自分で選ぶことをしないのです。このような二つの「時」の食い違いは、7~8章を通じて、イエスの言動それ自体の理解/誤解にも関わってきます(7章10節/14節/30節/33節/39節/44節/8章20節/28節/57~58節)。ただし、このような「時」の二重性は、7~8章に限らず、ヨハネ福音書全体を通じて言えることです。
〔密かと公然〕
 今回の箇所でもう一つ注目しなければならないのが「密か」(10節)と「公然」(4節)です。イエスは、自分の霊性を「隠そう」としながらも、同時に自分を「明らかにする」のです。逆に「明らかにしている」ようでありながら(7章26節)、イエスの真の姿は「隠されている」(8章27~28節)のです。このように「密かに隠されている」ことと「公然と啓示される」ことの一見矛盾した相互関係は、ヨハネ福音書だけでなく、実は、マルコ福音書の特徴です(マルコ9章9節/同30~32節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ただし、マルコ福音書では、イエスの真の霊性が明らかにされるのは、その最期になってからです(マルコ15章38~39節)。
 今回の7~8章では、「密か」と「公然」が人々を分裂させる原因になります(7章12節)。ちなみに、6~7章には、イエスが「王になる」ことをもくろむ人々(6章15節)、イエスに「パンを要求する」人たち(同26節)、イエスがエルサレムで自分を「人々に公然と現わす(霊能の業を含む)」ように求める兄弟たち(7章4節)などが出てきて、これらには、共観福音書のサタンの誘惑物語が組み込まれているという指摘があります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
〔7章の区切り〕
 7章前半の区切り方では、10節~13節の扱いが問題になります。この部分は、その前の兄弟からの「公然と姿を現わす」求めと、イエスの「自分の時」とを受けています。イエスは10節で「密かに」上京します。12節は、6章の「つぶやき」と人々の「分裂」を受けています。同時に、10節~13節は、14節以下でイエスが自らを「公然と」現わすための導入にもなります。だから、10節~13節は、1~9節と14節以下とをつなぐ役目をしています。9節で区切る訳〔新共同訳〕〔NRSV〕〔REB〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕と13節で区切る訳とがあります〔岩波訳〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕。おそらく、1~13節には古い伝承が含まれているのでしょう〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。筆者(私市)はこの部分に「イエスの時」という見出しをつけて、13節で区切ることにしました。
■7章
[1]【その後】この言い方は、5章、6章、7章の初めに繰り返されていますが、今回は、これに「カイ」(そこで/しかし/さて/ところで)が加わります(これが省かれている異読もあります)。この「カイ」は通常訳されていません。ここを5章の終わりにつなぐなら、エルサレムでの癒やしの後でイエスは身の危険を感じたので「<そこで>この後は」の意味になりましょう。この訳だと、それまではユダヤに滞在していたことになります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。しかし、それほど緊迫した意味ではなく、「さて/ところでその後は」と訳して、ここを6章の終わりにつなぐなら、過越祭(6章4節)からほぼ半年後の仮庵祭までの間のことになります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
【巡って】原語は「歩む」の不定過去形で、後の「歩こうとは望まなかった(不定過去)」へつながります。ヨハネ福音書では、「光/闇のうちを歩む」のように、「歩み」が象徴的な意味を帯びる場合、「そこに滞在する/過ごす」ことをも意味します。「ガリラヤ」と「ユダヤ」は、単に地理的な場所だけでなく、イエスへの親しさと敵意を表わす象徴的な意味を帯びていますから、ここは「巡る」でなく「過ごす」ことに近いでしょう。
【ユダヤ人が殺そうと】6章にも、イエスの言葉に躓いた「ユダヤ人」がでてきましたが、今回は5章18節と同じ言い方です。そこでのイエスとユダヤ人との対立を指すのでしょうか。そうだとすれば、「ユダヤ人」はエルサレムの指導層のことです。ヨハネ福音書の「ユダヤ人」には、イエスについて意見が割れるユダヤ人から、イエスに敵対するユダヤの指導層まで、さらに、この敵対勢力が拡大される「この世」(1章11節)にいたるまで、広い意味が含まれています。
【思わなかった】「できなかった」という異読があります。この異読はクリュソストモスやアウグスティヌスなどが採った読みですが、この場合、エルサレム当局から滞在を「禁じられていた」という法的な意味に理解することができます。
[2]【仮庵祭】ユダヤの三大祭り(申命記16章16節)で「スコート」(仮の小屋/テント/天幕)から出た「ハーグ(祭り)・ハ・スコート(仮小屋)」(仮庵の祭り)"Feast of the Tabernacles"と呼ばれています。この祭りは、ぶどう酒と果物とオリーブの収穫を感謝する祭で、単に「祭り」とも呼ばれていて、「ヘブライ人の間で最も聖なる最大の祭り」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』8巻の100(4章)〕です。バビロニア系ユダヤ暦で「ティシュリ」(第七の月)(現在の9月末から10月初め)の15日から七日間続いて祝われ(申命記16章13~16節)、さらに最終日の八日目が加えられました(レビ記23章34~36節)。この祭りでは、イスラエルの民が世界中からエルサレムへ巡礼に訪れ、都市の周辺に小枝で編んだ小屋を組んで住む(「仮庵」の語源)習わしがありました。神殿では多くのたいまつが灯され、犠牲が捧げられ、シロアムの池からの水汲みと祭壇への水注ぎの儀式が毎夜行なわれ、特に最終の八日目には聖なる集会が開かれました。
[3]~[5]【イエスの兄弟たち】ヨハネ福音書で「イエスの兄弟たち」のことは2章12節と今回の3節と5節にでてくるだけですが、彼らは「ヨセフと母(マリア)の息子たち」(6章42節)でしょう。兄弟たちがイエスを「信じなかった」とあるのは、マルコ3章20~21節からもうかがい知ることができます(ただしマルコ3章21節の「身内の者」は必ずしも兄弟たちだけを指すとは限りません)。しかし、イエス復活以後には、イエスのすぐ下の弟ヤコブが、エルサレム教会で指導的な働きをすることになります(使徒言行録15章13節以下)。
【あなたのしている業】「業」は複数です。イエスがガリラヤで行なっていた奇跡の業を指すのでしょう。
【弟子たちにも】「弟子たち」が、イエスと共に居る十二弟子のことだとすれば、彼らは、すでにしるしを体験しています。だから、ここを「イエス自身と共にいる十二弟子たちも一緒に」、エルサレムの人たちに向かってその姿を公然と現わすことだとする解釈もあります。本文の内容と合致しませんが、これがほんらいの(アラム語の)意味ではなかったかと見るのです。しかし、本文の内容だけから判断すれば、ここで言うのは、「エルサレムにいるイエスの弟子たち」のことでしょう。エルサレムには、すでにイエスを信じた人たちがいたことが、2章23節/4章1節から推定することができます。だから兄弟たちは、人々がイエスに対して抱くメシアへの待望に応えるために、ガリラヤだけでなく、エルサレムにも姿を現して「公然と世の人たちに」語るべきであって、これが、エルサレムにいる自分の弟子たちに対してなすべきことではないか、と言うのです。
【世にはっきりと】兄弟たちは、「密かに行なわないで公然と」霊能の業を世の人たちに見せることによって「世の人たちの前に自分の姿をはっきり現わす」ように求めています。彼らは、イエス自身のためよりも、人々からのイエスの家族への誤解を解いて、家族の名誉を回復するように求めたのかもしれません〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
【信じていなかった】原文の意味は、「兄弟たちでさえも、イエスの業を信じきっていたわけではない」です。イエスのしるしの業それ自体を頭から信じなかったという意味ではありませんが、彼らは、イエスの業だけでなく、その言動が帯びている「隠された霊性」に不満を抱いて、これを世の人々のだれの目にも明らかにすることを、あるいは霊能の業を顕示することを求めたのです。弟たちのこの言い分は、イエスはもとより、6章の終わりで行き着いた十二弟子の信仰さえも理解していないと見るべきです。イエスにあるこの「メシア性の密(ひそ)かさ」は、マルコ福音書の描くイエス像とも通じます。マルコ福音書でも、四千人へのパンのしるしのすぐ後で、ファリサイ派たちがしるしを求めてイエスに拒否されますが(マルコ8章11~13節)、弟たちの要求も本質的にこれと変わりません〔バレット『ヨハネ福音書』〕。イエスを通じて顕れるメシアの「しるし」とその栄光は、イエスの人間性によって<隠されている>ところから発するものです。だから、「世」の人たちの要求や彼らの想い描くメシア像に応えて「公然と」見せるためのものではないのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。6章では、イエスに宿る霊性に潜むこのような二重性が、人々の躓きとなり、弟子たちの分裂を生じさせ、人々と弟子たちの信仰と不信仰とが露わにされました。7章でも、この二重性がさらに推し進められて、今度は、イエスの兄弟の「不信仰」が露わになります。これは、以下8章の終わりまで続く出来事の前奏曲です。
[6]~[7]【わたしの時】ここの「時」の原語「カイロス」には、次のような意味があります。
(1)古代ギリシアでは、ほんらい、人間にとって決定的な「時」を指すもので、宇宙の天体の運行とも関連して、時間的だけでなく空間的な意味も含んでいました。「カイロス」は人間の運命を定める「時」でもあったのです。
(2)七十人訳で、このギリシア語が、ヘブライ語「エット」(時/時節/季節/状況)の訳語として用いられると、空間的な意味よりも物事への適切な時/時節を指すようになり、これが神によって定められた「時」と見なされました。そこから、神の定める「ある決定的な時」を指すようになります(民数記23章23節/ダニエル書2章21節/コヘレトの言葉3章11節)。
(3)新約聖書でも、七十人訳の「カイロス」が受け継がれます。しかし、人間にとって適切な「時/時節」という意味よりも、むしろ、神による一度限りの決定的な「時」の意味が強くなります。黙示思想の影響を受けた新約では、「時」が「終末」との関連で用いられる場合が多く、このような「時」は、「終末の訪れ」と結びついて、神が人間に与える救いへの信仰か拒否かを迫る決定的な「時」の意味を帯びてきます(マルコ1章15節/マタイ24章36~37節/ルカ19章42~44節)。したがって、このような「時」は、世の人々が、自分の意志で選ぶことができる「適宜な時/時期/時節」(7章6節後半/使徒言行録24章25節)とは異なります。
(4)パウロ書簡では、「カイロス」は、神によって定められた計画に基づく救済史的な意義を担うもので(ガラテヤ4章4節)、「救いの時」「裁きの時」などの様々な時と、これの「成就」が告げられます(ガラテヤ6章9節/ローマ13章11節)。
(5)このような「神によって人間に与えられる時」は、人の都合や意図で選ぶものではありませんから、神に備えられた「時」を霊的に見分ける知恵がクリスチャンの生活に大事な意味を持つことになります(コロサイ4章5節/エフェソ5章16節)。
(6)ヨハネ福音書で「カイロス」は、地上のイエスの歩みと密接に関係しています。イエスは、「わたしの時」として、自分の言動のいっさいを「父がその子に啓示する時」に委ねて歩むからです(2章4節/7章6節/同8節)。このような地上のイエスの歩みの「時」は、共観福音書にもでてきます(マタイ26章18節)。ヨハネ福音書では、この「時」が、特にイエスの「受難=十字架の時」を指し示すことになります(この点では次の7節を参照)〔TDNT(3)458-61.〕。この視点から見るならば、10節の「エルサレムへ<上がる>」には、単に「上京する」という意味だけでなく、エルサレムでの受難と復活を経て、天へ「上がる」ことも重ねられているのでしょう(3章13節/6章62節/20章17節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
 なお、今回のイエスと弟たちについての記事は、先のガリラヤでのイエスと母の出来事(2章1節以下)と類似するところが多いと指摘されています。母とイエスの間には、弟たちとの間と同じく溝があり、どちらにも「わたしの時」はまだ来ていないと語られているからです。しかし、結果的に見れば、イエスは母や弟たちが望んだことを行なうことになります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。ただし、カナの記事での「時」は、「カイロス」"time"ではなく「ホーラ」"hour"です。ヨハネ福音書では、「ホーラ」は、「カイロス」の意味をも含みつつ、24時間をも指しますから(11章9節)、より広い意味で用いられています。
【来ていない】「来ている」の原語は「傍らにある/居合わせる/そこにある」の現在形ですから、イエスには、父から顕される時がまだ熟していないことを意味します(4章34~35節参照)。ここは「あなたがたの時」と対照されています。兄弟たちにとって、「時」は、神からのものではなく、自分たちが選ぶものですから、「あなたがたの時」は<いつでも備わっている>のです。ただし、イエスのこの言葉にも、また弟たちのここでの言葉にも、ヨハネ福音書独特の皮肉(アイロニー)がこめられていると指摘されています〔バルト『ヨハネ福音書』〕。イエスは、兄弟たちの求めに応じて、<業を誇示する>ためにエルサレムへ行くことはしませんが、その後で<受難を目指して>エルサレムへ向かいます。彼らの求めに応じて<しるしを公然と現わす>ことはしませんが、<十字架において>その栄光のしるしを人々の前にはっきりと顕します。「わたしの時」と「あなたたちの時」は、神の時と人の時が、「異質でしかも不思議な対応/対立」を示しているのが見えてきます。
【世はわたしを憎む】「世はあなたたちを憎まない」、しかし「世はわたしを憎む」のです。その理由は、イエスが「世の業が悪い」ことを「露わに告発する」(証しする)からです。これが、「世の人たちに公然とその業を示せ」(4節)と言う兄弟たちへのイエスの答えです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ここでは、彼らとイエスの「時」の食い違いを指すよりも、10節以下で生じる出来事、イエスの「密かさ」と「公然性」が、人々を戸惑わせ(11節)、イエスが「公然と」その姿を表わすことによって世の人々が「分けられ」(12節)、イエスが「公然と」語ったために、ユダヤ人の指導者たちがイエスを「殺そうとする」(19節)結果を招くことを指しています。
[8]~[9]【まだ来ていない】原文は「わたし自身の時は、まだ熟する/満ちるにいたっていない」です。"for my time has not yet fully come."〔NRSV〕これは、兄弟たちとは別個に、父が示すままにエルサレムへ行く「時が満ちる」ことを意味するだけでなく、エルサレムへ向かうことで、イエスが受けるであろう「イエスの受難の時」(13章1節)が来るまで、まだ少しの間があることをも指すのでしょう(7章44節)。
[10]~[11]【隠れるように】イエスは、すでに、過越祭にエルサレムへ上がっていますから(2章23節)、ここだけ特に「人目を避け」て「身を隠す」必要があるのはなぜなのか?という疑問が生じます。「人目を避けて」とあるのは、「公然と」姿を見せるようイエスに告げた兄弟たちの忠告と対照させる意図からでしょう。しかし「身を隠して」(「隠す<ようにして>」という読みがあります)とあるのは、マルコ9章30節がここに反映しているからだと見られています。マルコ福音書では、フィリポ・カイサリアでのイエスの受難予告以後に、イエスの一行は、ガリラヤさえ「人知れず」通り過ぎています。これは、イエスがエルサレムでの受難を目指す歩みを始めたことを示唆するものです。マルコ福音書のこの資料が、今回のヨハネ福音書のこの部分に反映していると考えられます。いずれにせよ、先のエルサレム訪問とは異なって、イエスは、明らかに受難を覚悟してエルサレムへ向かったことを告げています(11章7~8節参照)。だから、ここの「密かに」には、人間イエスに隠されているメシアの霊性の「隠蔽性」を読み取ることができます〔キェルケゴール〕。
【イエスを捜し】ここでは、全体がユダヤ人のはずです。したがって、ここでの「ユダヤ人」は、いわゆるユダヤの民衆とは区別されていて、イエスを殺そうとするユダヤの指導者たちを指していることが分かります。イエスを迫害して殺そうとするエルサレムのユダヤの指導層が、「闇の力」(3章19~20節)としてこのあたりから次第にその姿を明らかにし始めます。「あの男」とあるのもイエスを敵視していることを示唆します。ただし、ここにも、1世紀末にヨハネ共同体が受けたファリサイ派のユダヤ教指導層からの敵対と迫害が反映していると見ることができましょう。
[12]~[13]【ささやかれて】すでに6章5節にも「多くの群衆」がでてきましたが、今回から、「群衆」(単数と複数の両方が用いられています)が様々に分裂し始めます。彼らは、イエスと指導層との間にあって、中立的な立場から様子を見ているのです。「ささやく」の原語には「つぶやくように不平不満を言う」の意味もありますが、ここではむしろ、「密かにささやき合う」ことです。ヨハネ福音書の「世」は、ユダヤ人の群衆も指導層も含みますが、その性格は必ずしも一様でありません。おそらく、この「群衆」には、アジア州でヨハネ共同体へ向けられるユダヤ教指導者たちからの敵視と、これを慮(おもんぱか)る「群衆」の態度も反映しているのでしょう〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
【惑わしている】これは、「良い(人)」と対照されています。「良い/善い」は、この場合、「善良」を意味するだけでなく、人を「正しく導く」ことを指すのでしょう(マルコ10章17節参照)。これに対して、「惑わす」には、人々を正しい教えから「誤った方向へ」、すなわち正統のユダヤ教から異端へ誘うという意味が含まれています。これは、指導層がイエスに対して用いていた言葉だったのでしょう(7章47節/なおマタイ27章63節を参照)。
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