47章 よい羊飼い
10章1〜21節
■10章
1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
2門から入る者が羊飼いである。
3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。
13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
19この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
20多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
21ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
【講話】
【注釈】
■名前を呼ぶ羊飼い
9章では、癒された盲人がファリサイ派に追い出されました。10章では、その追い出された羊が、「善い牧者」によって囲いに入れられて養われます。10章は、イエス様の門のたとえで始まり、その門が途中で羊飼いに変わるので、たとえが二重になります。門のたとえは、イエス様という門を通る者が救われて自由になり、霊の糧に与ることを分からせるためです。10章は旧約聖書と深くつながっています。ヤハウェこそイスラエルの民の羊飼いだからです。「救いに与りおいしい牧草に与る羊」のたとえは、詩編23篇を想い起こさせます。23篇は詩編全体の中で最も美しいと言われますが、23篇の大事なところは、それが「一匹の」羊の救いを歌っているからです。この篇は「個人の」救いの賛美歌です。
このことを強調するのは、10章のイエス様が、まさにこの23篇の羊飼いだからです。彼は、羊の名前を「一匹ずつ」知っていますから、自分の羊一人一人の名前を呼んで導き出すことができます。イエス様は、羊を「群れ」として十把一絡(から)げに扱うことをされない。必ず、一人ずつその名前を呼ぶのです。善い牧者と悪い牧者の違いをわたしたちはここにはっきりと見ることができます。善い牧者は、自分の群れがどれだけ大きいとか、囲いがどれだけ立派だとか、そんなことを自慢しません。またそんなことが自分の大事な務めだとは考えません。彼が大事にするのは、一匹一匹の名前をよく知っていることです。それぞれの羊の性質や個性を知り抜いていて、それぞれに応じて、自分の羊を、全人格的に扱うことです。99匹を残しておいて、一匹を探し求める牧者というのは、このような羊飼いです。
わたしたちは、信者の数がどれだけ多いとか、教会の規模や建物がどれだけ大きいとか、組織がしっかりしているとか、そんなことでこれからのキリスト教を評価してはなりません。そんなことは、そもそも「真の福音」の本質ではないからです。この意味で、宗教は、政治や経済の組織と根本的に違いますし、そうでなければなりません。教会は個人のためにある。これが一番大事なことです。自分の群れの羊の一匹一匹が、組織や教義や団体に縛られることなく、自分個人に与えられた霊性を「自由に」発揮して霊的に成長できるかどうか、そのために必要な自分自身の霊の糧を適切に与えられているかどうか、これが、これからのイエス・キリストのエクレシアの最も大事な勤めになります。
イエス様は「父がわたしを知っているそのとおりに、わたしも父を知っている」と言われます。「知っている」は、知識のことではありません。霊能のことでもありません。深い交わりにおいて、愛にあって、互いに知っているという意味です。だから、イエス様は、父のためなら、自分の命をも捨てると言われます。これは、<自ら進んで>命を捨てるという意味です。イエス様と父の交わりはここまで深い。この交わりこそ、イエス様が、わたしの羊を「知っている」と言われる意味です。イエス様と父との交わりの深さは、そのままイエス様とわたしたち一人一人の人格的な交わりの深さとつながります。これが「善い羊飼い」の意味です。
■イエス様の囲い
次にイエス様は、「ほかの囲いにいる羊」も導かなければならないと言われます。現在、キリスト教の中にも、大小さまざまな「囲い」があります。あんまり多すぎて、この国だけでも幾つあるのかわたしには見当もつきません。二人三人の囲いから、何百人あるいは千人以上の囲いもあります。世界中に、キリスト教の囲いは、カトリックの大組織から、わたしたちコイノニア会のような小さな交わりにいたるまで、無数にあります。しかし、イエス様から見るなら、これらの無数の囲いも、例外なく「わたしの囲い」です。いろんな宗団や宗派が、互いに比べ合ってみても、そんなことはなんの意味もありません。イエス様から見れば、みんな同じ囲いです。場所が違い、数が違い、立場が違っていても、みんな同じイエス様の羊です。大事なのは、「囲い」そのものではない。大事なのは、その囲いの一匹一匹が、どれだけ自由で、どれだけおいしい霊の糧を与えられているか、そして、父とイエス様との交わりの深さに一歩でも半歩でも近づいているか、このことです。
イエス様は「一つの群れ、ひとりの羊飼いになる」と言われます。人類の終末には、「群れも一つ、羊飼いも一人」の状態へ到達するのです。今はまだそこまで行っていませんが、やがて人類の将来に、このことは必ず実現するでしょう。
ところで、皆さんは、イエス様の羊だけでなく、「ほかの宗教」の囲いの人たちはどうなるのだろうとは考えませんか? 仏教の囲い、イスラム教の囲い、儒教の囲い、ヒンズー教の囲い、いったいこの囲いの人たちはどうなるのだろうと。だから、イエス様一人ではだめだ。いろんな宗教とも組み合わせなければだめだと思いますか? わたしはそうは思いません。わたしにとって羊飼いはただお一人イエス様だけです。「主はわたしの牧者」です。わたしはこれで満足です。23篇の作者と同じです。
イエス様を信じない人は、ほかの宗教の人はどうなるのかと言って、イエス様一人を信じない理由にあげます。わたしにしてみれば、この山に登れば、ほかの山に登れないから、この山には登らない。こう言っているようにも聞こえます。これは、「この山に登らない」理由ではなく、そもそも「山に登らない」ための口実です。それぞれの山に登れば、それぞれの景色が開けます。地上では味わえないすばらしい眺めに与ることができます。だから、わたしはどこまでもイエス様の山に登ります。では、ほかの山はどうなのか? 頂上に登れば、きっと、ほかの山の頂上にいる人たちをも見ることができます。場合によっては、近くの山の人たちに向かって声をかけることもできるかもしれない。
この間、京都府立文化博物館で、臨済宗の白隠(はくいん)和尚の書画展を見てきました。あの大きな眼をしたダルマさんのような和尚さんの画です。見ているうちに、この人はほんとうにすごいと思いました。「無一物」という書もありました。この人のすごさが分かるのは、わたしが、とにかくイエス様に従って歩んできた体験があればこそで、そうでなければ、あの書画の意味は、わたしにはとても分からなかった。こういうことです。
さらに、もうひとつ、わたしがイエス様だけを信じて歩む理由があります。それは、イエス様が「父の御心」をどこまでも求めるお方だからです。イエス様は、それが父の御心であれば、たとえどんな道でも、迷うことなく歩んで行かれる。では、イエス様の「父」とはだれか? 世の初めから御子と共におられたお方で、「万物はこれによって生起し、生起したもので、これによらないものはひとつもなかった」、御子についてこう語られている父の神、「宇宙の創造者」です。だから、わたしは、違った囲いにいる人たちも、世の終わりまでには、必ず一つの群れ、一人の牧者になる。こう信じています。イエス様は必ず、全人類を「一つの群れ、一人の羊飼い」へと導いてくださると信じています。全世界を創造された神様の御子ですから。
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