54章 これまでの結び
                12章37節〜50節
■12章
37このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
38預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
39彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
40「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
41イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
42とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
43彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
44イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
45わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
46わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
47わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
48わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
49なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
50父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
                    【講話】
                 【注釈】

しるし物語の結び
 今回は、今までイエス様が行なわれた数々の「しるし」の物語を締めくくる箇所です。これらのしるしは、ユダヤの祭りやこれに伴う祭儀と関連しています。どのように関連しているのか。それらは、なんの「しるし」なのか。これについてはすでに述べてきました。すべての宗教的な神殿がそうであるように、エルサレム神殿もユダヤ教の宇宙そのものを象徴していました。そのような「宗教的な宇宙」の至聖所では、罪の贖いの祭儀が最も重要な目的です。ユダヤ教に限らず、日本の伝統的な「禊(みそ)ぎ」も含めて、あらゆる宗教的な営みには、何らかの「罪の赦し/汚れの浄め」という祭儀的な意義が秘められています。
? この意味で、ヨハネ福音書は、イエス・キリストにおいて成就した「贖いの祭儀」を伝える書だと言えます。ヨハネ福音書の霊性は「祭儀的な霊性」です。なぜなら、この福音書の霊性は、ユダヤ教の祭儀によって証しされながら、同時に、ユダヤ教の祭儀をより霊的なイエス・キリストの御霊によって成就するからです。このような「祭儀の霊性化」こそが、ヨハネ福音書の特徴です。ちょうどパウロが、キリストの御霊の働きがユダヤ教の律法を成就したと解釈したように、ヨハネ福音書は、キリストの御霊によってユダヤ教の祭儀が霊的に成就されたと言うのです。パウロは、律法を否定する者と見なされ、ユダヤ教徒や律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちから、批判され迫害されました。同じように、ヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体も、伝統的な祭儀を否定する、あるいは廃棄すると見なされて、ヨハネ共同体の頃のファリサイ派から迫害を受けたのです。
 しかし、パウロが、キリストの御霊にあって、神の律法のほんらいの意図を活かそうとしたように、ヨハネ共同体も、神から与えられた祭儀に含まれるほんらいの意義を成就するために、この福音書を著わしたのです。祭儀の霊的な成就という意味では、ヨハネ福音書は、ヘブライ人への手紙に近いと言えましょう(どちらも書かれたのはほぼ同じ頃と考えられます)。特にヘブライ9章を参照してください。
■「この世」について
 12章37節に「このように多くのしるしを彼らの目の前で行なわれたが、彼らはイエスを信じなかった」とあります。なぜ、彼らはイエス様を信じることができなかったのか? 彼らがヨハネ福音書の伝えるイエス・キリストを受け容れることができなかったからです。それは、ヨハネ福音書の伝えるイエス・キリストが、従来のユダヤ教の祭儀を「霊性化」したからです。彼らの躓きの根本的な原因がここにあります。祭儀を霊性化することこそ、イエス様の父が意図されたことであり、それゆえに彼らは、「つまずきの石につまずく」(ローマ9章32節)結果になったのです。今回の箇所で、イザヤ預言が証ししているのはまさにこのことです。
 ところで、「彼らはイエス様を信じることができなかった」とある「彼ら」とは、いったいだれのことでしょう? 今まで見てきたように、ヨハネ福音書では、イエス様に対立するものは「ユダヤ人」であり、彼らもまた、しばしば「この世」と呼ばれています。だから、イエス様を十字架するものは「この世の支配者」(単数)だとありました(12章31節)。 ヨハネ福音書の言う「ユダヤ人」が、必ずしも人種的な意味でないことは、すでに説明したので繰り返しません。ヨハネ福音書は、イエス様を十字架につけるように企んだ人たちが「ユダヤ人の指導者たち」であったと証言しています(11章50〜51節)。イエス様が十字架刑に処せられたのは、紀元30年頃のユダヤの都エルサレムの城外だったのですから、十字架につけた張本人がユダヤの指導者たちであったのは歴史的に見てその通りです。しかし、「歴史的に見て」その通りではあっても、それが21世紀の現在でも「その通り」だとは言えません。なぜなら、ヨハネ福音書が言うイエス様の「本当の敵」は「この世」だからです。「この世」は、かつての歴史的な視点から見れば「ユダヤの指導者」です。だからと言って、「この世」はいつの時代でも「ユダヤの指導者」だとは限らないのです。イエス・キリストを十字架しようとする「この世」は、その時代によって様々に姿を変えるからです。だから、ヨハネ福音書は、イエス様のほんとうの敵を「この世の支配者」と単数で呼んだのです。ほんとうの敵が「この世の支配者」であることを思えば、わたしたちは、「この世の支配者=ユダヤ人の指導者たち」とは単純に言えません。なぜなら、ヨハネ福音書が言う「ユダヤ人の指導者たち」もまた、イエス・キリストに敵対する「この世の支配者」のある特定の時代の「しるし」にすぎないからです。イエス様が来られたのは、「この世」が過ぎ去り、新たなイエス・キリストの霊性が支配する「世/時代」(アイオーン)が到来するためです。
? だから、ヨハネ福音書がわたしたちに語る「この世の支配者」を紀元30年のユダヤの指導者たちだと思いこむことは、「敵」を歴史上のある一点に限定する偏った見方です。彼らは、単なる「しるし」にすぎないことを洞察しなければなりません。これをせずに「ユダヤの指導者たち」を現代に持ち込むのは、危険であるばかりか、誤りであり、大きな虚偽です。ヨハネ福音書は、イエス様の到来によって、この世が裁かれると言います。イエス様が裁くのは「この世」に潜む罪性です。逆に言えば、イエス様によって初めて、世の罪が暴かれて明らかにされます(3章19〜20節)。今も働くイエス様の御霊によって初めて、「この世の支配者」が暴かれるのです。それは、もはや紀元30年のユダヤ人の指導者たちとはなんの関わりもありません。わたしたちにとって、今回の「彼ら」は、もはや「ユダヤ人」のことではありません。だから、わたしたちは、ここで引用されているイザヤ預言を「この意味に」おいて理解しなければなりません。
■説話の結び
? しるし物語の結びに続いて、イエス様の説話、すなわち御言葉への結びが来ます。今までお読みになった方々はお分かりと思いますが、イエス様の説話は、イエス様の行なわれるいろいろな「しるし」の間に挿まれて語られています。その結果、しるし物語のほうは比較的「筋書き」がはっきりしていますが、説話の部分は、どういう構成になっているのか、まとまりが見えにくいのです。
 これらのイエス様の説話の多くは、「イエスは言われた」で始まります。ヨハネ福音書の「イエスは言われた」は、そのまま現在その御言葉を聞いているひとりひとりの聞き手あるいは読者への語りかけです。ヨハネ福音書は、このように、「イエス様が今もお語りになっておられる」まさに「このこと」を語る書です。このような説話の語り方は、これを聞く人あるいは読む人が、直接イエス様の御霊の語りかけに耳を傾けることによってしか「その内実」を聴き取ることができません。わたしたちは、ヨハネ福音書を繰り返し読むうちに、不思議な御霊の語りかけを覚えるようになるのは、このためです。この福音書が、古来「霊的な」書であると言われるのは、このような語り方からくるのです。そこでは、御霊ご自身が、イエス様となって、「今ここで」あなたに語る、ということが<起こる>のです。 だから、この福音書では、イエス様の御言葉が語られ、それを聞いているひとりひとりに、「今ここで起きる出来事」となって響くのです。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者もいる」(6章63〜64節)とありますが、ここには「霊とは何か」「命とは何か」という説明や解釈は一切ありません。イエス様が今あなたにお語りになっておられること、それが「霊」だからです。その霊の御言葉、それが「命」だからです。これに続く「信じない」は、解説や説明ではありません。それは、イエス様の御言葉が語られる時に、聞いている人の心に起こる御言葉の「働きかけ」それ自体だからです。「信じる」「信じない」は、言葉の内容ではありません。それはイエス様の御言葉を聴くあなたの心霊に生じる出来事を指すのです。
 同じことは、イエス様の語りのすべてについて言えます。「見る」と「聞く」と「悟る」、「信じない」と「聞こうともしない」、「知る」と「知らない」、「愛する」と「憎む」、「光」と「闇」、「救い」と「裁き」、これらは、すべてイエス様の語りかけを聞いている人たちの心に起きる現象であり、その結果生じる「出来事」なのです。
 「わたしは自分について証しする者である」(8章18節前半。原文の直訳)。この言葉は、「内容的に」考えるなら、ずいぶんおかしいと思う人がいるでしょう。ここでイエス様は、「わたしは〜(証しする者で)ある」“I am the one who testifies…”で始めています。この「エゴー・エイミ」(わたしはある)は、御臨在そのものとなって、読む人へ直接に語りかけます。だから「わたしは(道で真理で命で)ある」と、イエス様があなたの前に御臨在してお語りになるのです。「アーメン、アーメン、エゴー・エイミ」。これがヨハネ福音書の説話の内実です。
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