7章 序の言葉について
■序の言葉
ヨハネ1章1〜18節は、本文の冒頭に置かれていて、内容的に見ても19節以下の本文から独立しています。筆者は、ここを「序の言葉」(英語"prologue")と呼ぶことにしますが、ここは、「序文」〔岩波訳〕、「序詞」、あるいは全体を賛美の歌と見て「ロゴス賛歌」などとも呼ばれます。ユダヤを含む当時のヘレニズム世界では、「序」とは、著作の冒頭で、作者の意図とこれから語る内容をまとめて言い表わすだけでなく、これによって読者あるいは聴衆の心を惹きつけ、これから読んだり聴いたりする心備えをさせるためのものです。
新約聖書では、ルカ1章1〜4節に、ルカ福音書が書かれた意図がはっきりと述べられています。ところが、ヨハネ福音書では、書かれた目的が、冒頭ではなく終わりに出てくるのです(20章30〜31節)。今回の序の言葉は、この福音書の目的を伝えるためというよりも、この福音書全体の「内容」のほうに読者の目を向けさせます。しかも、内容のまとめというより、その内容をどのように理解すべきか、すなわち読者に、この福音書の読み方を悟らせようとするのです。ここは、「読者に福音書全体をどのように読み、どのように理解すべきかを示す指示書き」〔ゲルト・タイセン〕です。このように、ヨハネ福音書は、独特の「み言(ことば)」としてのロゴス・キリスト論で始めることで、ヨハネ福音書が伝える出来事の起源と同時に、この福音書全体を貫く主題を呈示するのです。
? ここで、ヨハネ福音書全体の区切り方について説明しますと、この福音書は、1章1〜18節までの「序の言葉」と、1章19節〜12章の終わりまでと、13章〜20章と、21章の四部から構成されていると見る点でほぼ一致しています。したがって、この講話と注釈は、「序の言葉」「しるしと栄光の書」「受難と復活の書+司牧への召命」のように三部構成とし、これに補遺編を加えています。
■序の構成区分
序の言葉は、「み言(ことば)」(ロゴス)について語る部分と、洗礼者ヨハネについて語る部分(6〜8節/15節)との二つに分けることができます。洗礼者に関する部分を除くと、全体が詩のような美しい韻律を帯びています。序の言葉全体の最も標準的な構成区分は、1〜5節/6〜8節/9〜13節/14〜18節です。ただし、6〜9節/10〜13節と区分して、14以下では、洗礼者に関する15節だけを( )でくくり、14(15)〜18節とするものもあります〔NRSV〕。9節は8節と10節とを結びますから、これを前か後ろか、どちらにつなぐのかが問題です。また、14節をその前の13節とつなぐ例もありますが〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕、これはやや例外的です。
■序の内容区分
序の内容的な区分は実に様々で、細分すればきりがありません。内容は、言うまでもなく構成区分と密接に関連します。次に、二,三の例をあげておきます。
(1)1〜2節:歴史に先立つロゴスの存在。
(2)3〜4節:世とロゴスの関係。
(3)5〜13節:啓示者ロゴスの暗示的な描写。
(4)14〜18節:肉におけるロゴス。
〔ブルトマン『ヨハネによる福音書』〕
(1)1〜2節:神と共にいるロゴス。
(2)3〜5節:ロゴスと創造。
(3)6〜9節:洗礼者による光の証し。
(4)10〜13節:世にあるロゴス。
(5)14〜16節:受肉のロゴスと共同体。
(15節:洗礼者による先在のイエスの証し)
(6)17〜18節:16節の説明。
〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕
これを時間の軸に沿って分類すると次のようになります。
(1)1〜5節:ロゴスの先在と創造。
(2)6〜13節:ロゴスのこの世への降臨。
(3)14〜18節:ロゴスの受肉と臨在。
〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕
ちなみに筆者は、その内容を次のように区分してみました。(7)の部分は、さらに細分できますが、洗礼者の証しも含めて「み言の臨在」としてひとつにまとめてあります。
(1)み言の神性(1〜2節)。
(2)み言による創造(3〜5節)。
(3)み言の証人(6〜8節)。
(4)み言を拒否(9〜11節)。
(5)み言を受容(12〜13節)。
(6)み言の受肉(14節)。
(7)み言の臨在(15〜18節)。
■賛歌の背景
序の言葉は、ヨハネ共同体が用いていた賛歌を採り入れて、これを再構成していると考えられます。すでに最初期の教会から、礼拝の際に、イエス・キリストへの賛美の歌が朗唱されていました(エフェソ5章19節/コロサイ3章16節を参照)。その際に歌われた詞は、フィリピ2章6〜11節やコロサイ1章15〜20節などに見ることができます。どれも「栄光のキリスト」が歌われていますが、特にコロサイ人への手紙では、御子が見えない神の見える姿であることが賛美されていて、内容的にヨハネ福音書のロゴス賛美に通じるところがあります。
ヨハネ福音書が書かれた90年代には、このように様々なキリスト賛歌が、キリスト教の諸教会で朗唱されていましたから、序の賛歌の韻律的な構成を手がかりに、元の歌を復元しようとする試みがなされてきました。例えば、元の賛歌は、洗礼者宗団で用いられていた歌で、ほんらいアラム語ではないかと想定されたり〔ブルトマン『ヨハネによる福音書』〕、ヘレニズム的な背景を持つグノーシス的なユダヤ人キリスト教徒の賛歌だという説もありました〔シュルツ『ヨハネによる福音書』〕。
しかし復元の種類は、これを試みた人の数ほど多く、序の言葉から賛歌の原型を想定して、これの出所を特定する試みは成功しているとは言えません。現在では、1〜5節に元の詩形を留めているとは言え〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕、序の言葉全体は、賛歌と言うよりも、韻律を帯びた散文だと考えられています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ヨハネ福音書の作者は、この序を「賛歌」だとは見なさなかったので、これに洗礼者に関する部分を付加することができたのでしょう。序の言葉の元となる賛歌が、どのような思想的背景を持つのかは、その主題である「ロゴス」の背景と重なるので、「ロゴス」の項で扱うことにします。
■洗礼者の部分
ヨハネ福音書は、幾段階かの編集を経ていると推定されています。序の言葉も、初めは、洗礼者についての短い前書きだけで始まっていたものが、これに「ロゴス賛歌」が後から加えられたと推定する説があります。しかし、編集過程については諸説があって一定しません。賛歌のほうが初めにあって、これに洗礼者の証し(6〜8節と15節)が後から加えられたと考えられたり、17〜18節も後からの加筆だと見られたりしました。
例えばフォートナは、現行のヨハネ福音書が成立する<以前の>段階では、この福音書は1章6〜7節で始まり、これが直接同19節へつながっていたと推定しました(1988年)〔Fortna. The Fourth Gospel and Its Predecessor.15-16.〕。現在ではこの見解はそのままでは支持されていません。洗礼者に関する部分は<後からの>挿入だと見なす説も有力だからです。もしも賛歌のほうが、洗礼者の証しに後から「かぶせられた」とするならば、ヨハネ福音書の作者は、これをロゴスの「賛歌」だとは見ていなかったことになります。韻律が整った賛歌をわざわざ洗礼者の証しの散文に重ねたとは考えられませんから。
洗礼者に関する部分が序の言葉に後から挿入されたと考える説は、序の言葉がグノーシス思想を反映しているため、挿入はこのグノーシス思想を<訂正あるいは否定>するために行なわれたと見るのです。あるいは、洗礼者の部分は、1章19〜34節の洗礼者の証言や3章22〜30節/4章1〜3節との関連で、イエスと洗礼者との関係を明確にするために後から序の言葉に加えられたという見方もあります。洗礼者の部分と賛歌と、どちらが先か決めがたいと言うべきですが、わたしは、洗礼者に関する部分が、ロゴスの受肉の歴史性を確認させる重要な働きをしており、この点で賛歌の内容と密接につながっていますから、賛歌の後から洗礼者の部分が加えられた可能性のほうが高いと考えています。
■「ロゴス」の思想的背景
ヨハネ福音書の「ロゴス」の思想的な背景としては、(1)ギリシアとエジプトの哲学があり、(2)ヘレニズムの影響を受けたユダヤ人フィロンの「ロゴス」があり、(3)1世紀頃のユダヤのタルグムがあります。これらと共に、見逃せないのが(4)イスラエルの知恵思想です。
(1)アウグスティヌス(354〜430年)は、その『告白』(7巻9章)で、ヨハネ福音書の序の言葉(1〜14節)から引用し、これはプラトン的な思想に通じると述べています。ドッドの『第四福音書の解釈』も、ヨハネ福音書の「真の命」「真の光」「真のパン」などの言い方に、プラトンの言う「永遠のイディア」が反映していると指摘しています。しかし、1世紀頃のヘレニズムの哲学では、ストア派の哲学が重要な位置を占めていました。ストア哲学では、ロゴス(言葉/理性/道理)は大自然に遍在する法則であり、宇宙に浸透し、宇宙を維持している「宇宙の魂」です。さらに、プラトンとストアの両方を受け継ぐ宗教的な文書として、エジプトで書かれた『ヘルメス文書』(前3世紀〜後3世紀)があります。これは、ローマ時代のヘレニズム世界、特にギリシアとオリエントとの思想を融合した数多くの文書から成り、全文ギリシア語で書かれています。ただし、特定の学派のものではありません〔ドッド前掲書〕。
(2)ヨハネ福音書の「ロゴス」の背景を考える時に重視されるのが、アレクサンドリアのユダヤ人思想家フィロン(前20/25年?〜後45/50年?)です。彼は、ロゴスを「創造の原動力」と見なして、「ロゴス」と「思念」とを区別しました。人間は不完全ですが、神は完全であり知恵に満ちています。それゆえロゴスは、人間が神のもとへ来るための大祭司となります。彼は、ロゴスを神が宇宙を支配するための仲介役であり媒介体だと見なしたのです。フィロンの言う「ロゴス」は、罪を赦す弁護者ともなりますから、フィロンとヨハネ福音書のロゴスの間に共通性を認めることができましょう〔ドッド前掲書〕。
(3)ヨハネ福音書の「ロゴス」で、注目されるようになったものに、旧約聖書のアラム語訳「タルグム」(ヘブライ語旧約聖書をアラム語に訳し、アラム語で注釈をつけたもの)で用いられている「言葉」(アラム語「メムラー」)があります。これの用法は、20世紀後半になって注目されるようになりました〔Anchor Bible Dictionary. (4)352.〕。「メムラー」は、ヘブライ語「ミラー」(言葉/発話)から出ているアラム語で「発言」を意味します。これは、主の御名「ヤハウェ」を表象するヘブライ語の神聖四文字を唱える祭儀において重要な意味を持つ用語です。神聖四文字を唱える「メムラー」は、歴史における神の創造の働きを人格化することで、神と人とを仲介する働きをします。したがって、「ロゴス=メムラー」は、「ヤハウェ」を意味する「わたしはある」(出エジプト3章14節)に相当する神性を啓示するものです〔McHugh.
John:1-4. 8.〕。
■知恵思想と「ロゴス」
ヨハネ福音書の序の言葉に、「知恵」(ギリシア語で「ソフィア」)がその背後にあることは以前から指摘されてきました〔ブルトマン「ヨハネ福音書の序文と宗教史的背景」1923年〕。「ロゴス」の源流として、ユダヤの「知恵思想」をあげることができるからです〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)。バルト、ブルトマンなど多数〕。序文の「ロゴス」とイスラエルの「知恵」との対応については Anchor Bible Dictionary. (4). 353-54.にその用例のリストが出ています。
旧約聖書の知恵文学(箴言/ヨブ記/コヘレトの言葉/知恵の書など)に代表されるユダヤの知恵思想は、古代のエジプトやバビロニアやカナンなど、イスラエル近隣の諸民族の「知恵の言葉」とその源を共有します。例えば、『ギルガメシュ』(最終成立はアッカド語で前1100年頃)は、古代シュメルの都市国家ウルクの王ギルガメシュにまつわる叙事物語です。そこに登場する賢人ウト・ナピシュティームは、創世記の洪水物語にでてくるノアの原型だと見られています。箴言の知恵は、遠くエジプト第5王朝時代(前2400年頃)の『宰相プタハヘプテの教訓』にまでさかのぼるものです。古代エジプトの基本的な理念は、神の定めた「世界秩序」(エジプト語で「マート・正義」)に従うことでした。
箴言8章22〜31節では、知恵が太初に神と共にいて、創造の御業に参与したことが語られています。知恵の書7章22〜26節には、知恵の「霊」は「単一/唯一」(モノゲネース)で、「神の善の似姿」です(同7章26節)。知恵は人格として顕れること(同8章2〜4節/シラ書15章1〜2節)、知恵は人を照らす光で闇に打ち勝つこと(知恵の書7章27〜30節/同17章も参照)なども、ヨハネ福音書の「ロゴス」と共通するところがあります。また、シラ書24章6〜8節では、この知恵が、世界を巡り歩いた末に「イスラエルに宿る」のです。さらに、知恵と律法は一つであること(シラ書24章25〜34節)は、ヨハネ福音書のロゴスとユダヤ教の知恵思想とのつながりを示すものです。
ただし、「知恵」のギリシア語「ソフィア」は女性名詞です。旧約聖書の七十人訳では、「知恵」は人格化され、「ソフィア」という女性(貴婦人)の姿をとります。ヨハネ福音書の「ロゴス」も人格的なイエス・キリストを指していますが、こちらは男性名詞です。ヨハネがギリシア語の女性名詞「ソフィア」でなく「ロゴス」という男性名詞を選んだのは、「み言」がイエス・キリストを指しているからです。女性名詞の「ソフィア」を意図的に排除するためであるという説もありますが、むしろ「み言」(ロゴス)という男性名詞の背後に、女性名詞の「知恵」(ソフィア)が潜んでいることを読み取るほうが正しいでしょう。さらに、旧約の知恵が、ユダヤ教の中で、「主の言葉」としての「律法」に結びつけられ、このために「知恵」が、主の律法と同一視されることによって、女性名詞である「知恵」が男性化されたことも指摘されています。ヨハネ共同体がモーセ律法をないがしろにしているというユダヤの会堂からの批判に答えるためにも、ヨハネ福音書は、序の言葉において、イエスが、ユダヤ教の伝統的な「神の知恵」でありモーセ律法の体現者であることを証ししているという見方があります〔ブルトマン『ヨハネによる福音書』〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
このように、オリエント太古の神話から、旧約聖書の知恵思想やレニズム世界の哲学、フィロンのソフィアとロゴス、ユダヤ教の律法、そして原初キリスト教の福音を表わす「御言葉」(単数)にいたるまで、ヨハネ福音書の「ロゴス」には広い背景が潜んでいます。知恵思想は、東洋の仏教にも儒教にも受け継がれていますから、ヨハネ福音書で語られる「光」や「命」のロゴスは、ユダヤ教徒やヘレニズムの諸民族だけでなく、わたしたち東洋の読者にも訴える力を持つものです。
ヨハネ福音書は、「ロゴス」が「神の御言(ことば)」としてのイエス・キリストであると証言しますから、「ロゴス」はイエス・キリストその方です。新約聖書を内容的に見ると、ヨハネ福音書のロゴスに最も近いのは、パウロ系書簡のコロサイ1章15〜20節の「御子」でしょう。なお、「ロゴス」をめぐる現代の解釈については、巻末のヨハネ福音書補遺「ロゴスの葬り」をも参照してください。
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