1章 ネストリオス派のキリスト教  
■ネストリオス派のキリスト教と景教
 最初に、ネストリオス派のキリスト教と景教のあらましを紹介したい。ネストリオス(381年?〜451頃)は、コンスタンティノープルの総主教であったが、聖母マリアが「神の母」(テオトコス)と称されるのに対して、彼は「キリストの母」(クリストトコス)を唱えたために、431年のエフェソ公会議で異端とされた。 ネストリオス派のキリスト教は、その後、東へ向かい、ササン朝ペルシアを拠点として東へ広まることになる。このキリスト教は、「阿羅本」(アラボン/オロボン/アロペン)たちによって唐の太宗の時代(在位976年〜997年)に、景教(光の教え)の名で唐の国教として受け容れられ、唐の長安の北西地域に大秦寺が建てられた。長安の近くで発掘された「大秦景教流行中国碑頌」には、景教の教えとこれを擁護した皇帝たちのへの賛辞が刻まれている。
 景教は、唐代の末期に弾圧されて消滅するが、ネストリオス派のキリスト教は、北方の遊牧民にも布教されていたから、元の時代に(1200頃〜1350年頃)、チンギス・ハーンの家族やモンゴルの政治の中枢部の人たちで、熱心に信仰する人が多く居たと伝えられる。このため、元の時代には、再び中国の本土でも景教が復活した。しかし、モンゴル帝国の崩壊後に、中国北部の遊牧民は、「突厥(とっけつ)(チュルク)」と称されて、その一部は西方に向かい、イスラム教を受けれてトルコ(チュルク)に入り、現在のトルコを形成することになる。別の部族は、南方に向かい、モンゴル系のチベット仏教族になった。
 景教の実態はまだ分からないことが多く、朝鮮半島を通じて日本にも伝わったと言われている。確かなのは、空海が唐に留学していた頃に、彼はその師と共に大秦寺を訪れて、景教に接したことである。その際に、空海は景教の福音書を持ち帰ったと言われていて、現在、高野山には、「大秦景教流行中国碑」が復元されている。また、浄土真宗の西本願寺には、マタイ福音書の「山上の教え」の部分を漢訳した『世尊布施論』が所蔵されているから、親鸞も景教を学んだと言われている。
■東地中海のキリスト教
 ネストリオス派のキリスト教が誕生するまでの経緯(いきさつ)を極(ごく)おおざっぱにたどると次のようになる。
 キリスト教は、紀元1世紀に誕生し、その後、ローマ帝国による長い迫害の時代を経過してから、コンスタンティヌス一世によるのミラノの勅令(313年)によって、ようやく帝国の公認宗教として認められた。第1回のニカイア公会議(325年)において、三位一体の教義が正統と認められ、テオドシウス一世の時には、ローマ帝国の「国教」となった(392年)。その直後、ローマ帝国は東西に分裂することになる(395年)。だから、ネストリオス派のキリスト教は、これら一連の出来事に継いで起こったことになる。
 紀元4世紀頃には、東地中海の周辺一帯にキリスト教が広まっていた。その頃のキリスト教を地域別に見ると、およそ5種類に分けることができよう。
(1)エルサレムとシリアのアンティオケアを中心とするパレスチナのキリスト教。
(2)小アジア(主としてエフェソやスミルナなどエーゲ海に近い西方地域)からコロサイなどの内陸にいたるキリスト教(ヨハネ黙示録の七つの教会を参照)。
(3)コリントやテサロニケを中心とするギリシアのキリスト教。
(4)エジプトのアレクサンドリアを中心にするキリスト教。
(5)ローマ帝国の首都ローマを中心とするキリスト教。
 以上の五つであるが、教義的に見れば、これらの諸地域のキリスト教は相互に密接に関連し合っている。               
■「テオトコス」論争
(1)アレイオス(256年?〜336年)は、アンティオキアで学び、アレクサンドリアへ移り、そこで司教になった。彼は、イエス・キリストが、創造主の神それ自体ではないと見なし、この見地から、イエス・キリストは神に「従属する」と考えた。彼の説は、パレスチナではその正統性が認められたが、コンスタンティヌス帝の介入で、ニカイア公会議(325年)で異端とされた。
(2)アポリナリオス(315年?〜392年)は、パレスチナ北部のシリアで生まれ、その地の司教になった。彼は、(アレイオスとは逆に?)イエス・キリストの神性を強調したために、「キリストの人間性を否定する」として、パレスチナのアンティオキアの神学者たちから批判され、コンスタンティノポリスの公会議(381年)で異端とされた。イエス・キリストの母マリアが「テオトコス」(神の母)であるという説は彼にさかのぼるのかもしれない。
(3)ディオドロス(生年?〜390年)は、アンティオキア生まれで、ギリシアで教育を受け、小アジアのタルソスで司教になった。彼は、アレイオスに対してはキリストの神性を強調し、アポリナリオスに対してはキリストの人間性を強調したために、イエス・キリストの神性と人間性とを区別する方向を採ることになった。キリストが「ロゴス」と言えば神のこと、キリストが「人」と言えば人間性のことで、この二つの「フュシス」(natures)を有しながらも一つの「プロソーポン」(person)であるという神学である。彼は、アンティオキア学派に近かったから、後になって、「ネストリオス派」として弾劾されることなった。マリアが「アントロポストコス」(人間の母)だとする説は彼にさかのぼるのかもしれない。
(4)テオドロス(350年?〜428年)は、アンティオキア学派の神学者で、ディオドロスの弟子である。小アジアのキリキアのモプスエスティア(Mopsouestia)の主教。(師にならって?)キリスにある二つの本性を区別した。後述のネストリオスは、彼の弟子であったために、テオドロスもまた、ネストリオス派であると見なされることになり、第2回コンスタンティノポリスの公会議(553年)で異端として弾劾された。
(5)ネストリオス(381年?〜451年?)は、シリア生まれのアンティオキア学派の神学者で、おそらくテオドロスの弟子であろう。彼は、コンスタンティノポリスの総主教に選出され(428年)、様々な異端と戦った。ネストリオスは、キリストの母マリアについて、彼女が「アントロポストコス」(人間の母)であるとする説と「テオトコス」(神の母)であるとする説とを統合するために、「クリストトコス」(キリストの母)という新説を提唱した。このために、アレクサンドリアの主教キュリロスと論争になり、イエス・キリストの神性と人間性を区別する説だとして、エフェソスの公会議(431年)において異端として弾劾された。
(6)キュリロス(370/80年?〜444年)は、アレクサンドリアの主教となり(403年)、429年からネストリオスとの論争が始まった。キュリロスは、受肉により、イエス・キリストの本性は完全に一つであることを強調し、マリアは「テオトコス」(神を産んだ方)であるとする説を提唱した。ネストリオスとキュリロスとの論争は、テオドシウス帝の下で開かれたエフェソスの公会議(431年)において、ネストリオスの側が異端として弾劾されることになった。ただし、この公会議では、ネストリオスを弁護するアンティオキアの主教団がエフェソスに到着するのが大幅に遅れたために、大きな混乱が生じた。このために、結果として、キュリロスはアレクサンドリアに「凱旋する?」ことになり、ネストリオスは修道院に幽閉されることになり、後に上エジプトへ追放された。
(7)テオドレトス(393年?〜458年?)は、アンティオキアの東方のキュロスの主教となる(423年)。433年以降になると、ネストリオスとキュリロスとの論争は、代替わりにより再燃する。テオドレトスは、ネストリオスを弁護したが、異端視された。この論争を解決するために、ローマ皇帝マルキアヌスによって開かれたカルケドン会議(451年)において、アンティオキア学派とアレクサンドリア学派の論争は、「真の神であり、真の人間であり、神性において父と同一の本質を有する者(ホモウーシオス)」として両者の和解が成立した。テオドレトスは、この会議において、改めてネストリオス説を否定したことで復権することになる。
■ネストリオス派のキリスト教
 しかし、北シリアのキリスト教会では、エフェソ公会議を受け継ぐカルケドン会議でのネストリオスの異端弾劾を拒否する姿勢が強かった。とりわけ、エデッサを中心にした北シリアのキリスト教会は、モプスエスティア(Mopsouestia)の主教であったテオドロスに師事する者が多かった。このため、北シリアのキリスト教会は、「ネスリオス派のキリスト教会」として別個の歩みを始めることになる。ネストリオスのキリスト教会は、「東方の総主教」をその最高の長として組織され、アンティオキアの東方に向かい、チグリスとユーフラテス川に沿って、エデッサ、ニシビス、クテシフォンなどを拠点にした。やがてこの宗派は、バクダッドをも拠点するようになった〔Willston Walker et.al. A History of the Christian Church. 172〕。
 一般的に言えば、ネストリオス派のキリスト教は、聖書解釈においてヘブライ的な要素が強く、ユダヤ人キリスト教徒が中心であったと思われがちである。だが、アンティオキアの場合など、必ずしもそうとは言えない。1〜2世紀には、アンティオキアとエデッサとの狭間に、ローマ帝国の支配領域とパルティア王国の支配領域との境界があったから、エデッサのキリスト教は、エルサレムやアンティオキアのそれとは、少し色合いが異なっていたようである。ユダヤ的な色彩が濃いのは確かだが、それだけでなく、エデッサは、ユダヤ・グノーシスの発祥の地(の一つ)ではないかと言われている。
 5世紀のパレスチナにおいて、「東へ向かった」とは、ササン朝ペルシアと、その東方に拡がる広大なエフタル王国の領域を指すことになる。そもそも、キリスト教が1世紀に誕生してから、そのキリスト教が、はたしてどこまで「東方に」拡がったのか? これはまだよく知られていない。伝承によれば、使徒トマスは、インド南西沿岸のカリカットやコーチンにまでキリスト教を布教したと言い伝えられているが、確かなことは分からない。シャハンの推定によれば、これらの「東方地域」には、すでに紀元前から、イスラエルの十部族の子孫たちが散在していたことになるから、キリスト教は、ちょうどギリシアやローマで、キリスト教が会堂のユダヤ人を中心に拡がった場合と同様に、まず、十部族系のイスラエルの人たちの間で受け入れられ、驚くべき速さでインドの南西沿岸まで到達したことになる。だから、東方へ向かったネストリオス派のキリスト教が、それまで東方地域に伝えられてきたキリスト教とどのように関係するのか? これに、十部族のイスラエルの宗教をも考え併せると、古代の北王国系のイスラエルの宗教と、使徒時代の原初のキリスト教と、ネストリオス派のキリスト教との関係は、今もってその実状がよく分からない。それにもかかわらず、ネストリオス派のキリスト教は、中央アジアにおいて強い力を発揮し、中央アジアのサマルカンドは、「キリスト教の都市」と見なされていたほどである〔『岩波キリスト教辞典』742頁〕。
■中国の景教
 ネストリオス派のキリスト教が、いつどのように中国まで到達したかは不明である。確かなのは、635年に、シリアから、アラボン(阿羅本)を長とする21名の宣教団が、唐の都長安に到達し、当時の国王太宗に歓迎されて、経典を中国語に訳し、布教の許可を得たことである。これは、中国語の経典に基づいて、中国語で中国に布教された「キリスト教」のことであるから、「景教」(光の教えの意味)と呼ばれている。景教は、シリアのネストリオス派のキリスト教を受け継いでいるけれども、当時の唐では、道教と儒教と仏教だけでなく、マニ教、ゾロアスター教の教えも知られていたから、これらの諸宗教の影響、とりわけ道教と仏教の影響が考えられる。したがって、景教をそのままネストリオス派のキリスト教と同一視することはできない。経典が漢訳されているから、中国語で語られただけでなく、当然のことながら、当時の唐代の文化が景教に強く影響しているからである。
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