2章 ネストリオス派と景教
■ネストリオス派の衰亡
 489年に、東ローマ帝国皇帝ゼノン(在位474/475年?〜491年)による迫害のために、北シリアのエデッサ(Edessa)にあったネストリオスのキリスト教の修道院が閉鎖され、その財産が没収された。このために、シリアのネストリオス派のキリスト教徒は、ササン朝ペルシアの東部へ逃れた。ペルシア皇帝フィルス(Firus)は、461年から488年にわたって景教徒を保護した。ペルシアの歴代皇帝の庇護の下で、景教徒はペルシアにおいて勢力を得ることができ、ペルシアのネストリオス派は、498年に、その総本山をパレスチナ沿岸のアンティオキアに近いセレウキアとチグリス川沿岸のクテシホンとに設置して、西方キリスト教会から分離独立し、「カルディア教会」あるいは「アッシリアン教会」と称することになった。このようにして、ペルシアのネストリオス派は、エフタル王国が支配する中央アジアと、グプタ朝のインドの南西沿岸地方と、北魏と宋にまで信仰を広めることができたのである〔佐伯『景教碑文研究』87頁〕。
 642年に、回教(イスラム教)が興り、イスラムの勢力によってササン朝ペルシアが滅びると、ネストリオス派のキリスト教会は、イスラムの皇帝の信認を受けて、その本拠地をイスラムのウマイヤ朝の中心部に位置するバグダッドに設置した。その時の法王は「カゾリコス」(Catholicos)と称されている。
 イスラムの庇護を受けたネストリオス派のカルディア教会は、唐の太宗治世の635年に、ペルシア僧のアラホン(阿羅本)を団長として、宣教団を長安に派遣した。唐の太宗は、彼らを宮中に迎えて、その経典の翻訳を許可し、布教を勧めた。これが「景教」の始まりだと言えよう。景教は、ひきつづき粛宗・代宗・徳宗の治世に優遇されて、781年には,「大秦景教流行中国碑頌」が建てられた。しかし、845年に、道教に心酔した唐の武宗が、仏教への廃仏命令と同時に,外来の宗教をも一律に禁じたために、景教も迫害されて、その勢力は急速に衰え,宋代の初めには景教徒の姿は影を潜めるほどになった〔平凡社『世界百科大事典』の「景教」〕。
 その一方で、中央アジアにおけるネストリオス派のカルディア教会の勢力は、衰えることがなかった。13世紀に、元帝国は、現在の中国の東岸から、現在のトルコと、ロシアのキエフ近くまでを支配下に置いた。この時に、景教が再興されて、バグダッドの総管長は、25以上の管長の教区を有して、カルディア教会の勢力は「天に沖(ちゅう)せんとするもの」であった〔佐伯『景教碑文研究』88頁〕。
 しかしながら、15世紀に、オスマン帝国とティムール帝国のイスラム圏が成立し、中国が明朝の時代に入ると、キリスト教が厳しい迫害を受けたために、ネストリオス系のキリスト教も景教も影を潜めて、景教徒は、イスラムや仏教などに同化されていった。ただ、アルメニアのネストリオス系キリスト教のみが、トルコ東部に遺ることになった。第1次世界大戦の折に、トルコ政府によって、アルメニアのキリスト教徒への大迫害が行なわれた際に、犠牲になったのがこの人たちである。『失われた十部族』の著者アヴィグドール・シャハンは、この時にトルコ兵の迫害を逃れたユダヤ人の一人である。
■景教と仏教
 中国で広まった景教と仏教との関係を考える場合に、いったい「どの段階」での仏教のことを採り上げるのか?ということが、まず問題になる。キリスト教が紀元1世紀に誕生したことを思えば、キリスト教と関連する仏教も、1世紀以後に、インドの北方で発達した「大乗仏教」のことになるであろう。大乗仏教(マハーヤーナ)に関係する人では、アシヴァゴーシャ(Asvaghosa)〔中国名は「馬鳴」(めみょう)〕がいる。彼は、1〜2世紀の人で、バラモンの出身。この人については、叙事詩『シャ−リプトラ』や、後の鳩摩羅什(くまらじゅう)によって書かれた『馬鳴菩薩伝』などで語られている。
 もう一人、ナーガールジュナ(Nagarjuna)〔中国名「竜樹(りゅうじゅ)〕は、150年?〜250年頃の人である。彼は南インドの人で、バラモンを習得してから仏門に入り、北インドへ移って大乗仏教を学んだ。大乗仏教の基礎となる「空」の思想を唱えたのはこの人である。ナーガールジュナは、鳩摩羅什(くまらじゅう)によって「竜樹菩薩」として中国に伝えられたから、著作は漢訳で遺されていて、『中論(ちゅうろん)』『廻諍論(えじょうろん)』など多数ある。
 さらにもう一人をあげれば、クマーラージーヴァ(鳩摩羅什)がいる。350〜409年頃の人である。父はインド人、母は中央アジアの亀茲(クチャ)の出身。北インドの仏教王国グプタ朝の時代に、中央アジアのエフタル王国を経由して中国の北魏と宋との南北朝の時代に中国に入り、仏典を漢訳した。初めはインドで小乗仏教を学び、後には須利耶蘇摩(シュリヤソマ)を師として大乗仏教を学び、特に竜樹系統の中観派仏教を学んだ。その後に、亀茲(クチャ)に帰り、もっぱら大乗仏教を宣教した。彼の名声は、中央アジアから中国にまで達したから、前秦王の苻堅(ふけん)は彼を中国に招こうとした。彼は、苻堅の命により、亀茲城を攻略した呂光(りょこう)に捕らえられたが(384年)、前秦が滅んだため、涼州に10年あまり留め置かれた。その後、後秦の姚興(よぅこう)によって国師として長安に迎えられ(401年)、仏典翻訳と教説に従事した。その流麗で達意な訳文は中国人に親しまれた。その中には,般若,法華,維摩などの経典,竜樹の『中論』などの三論や『成実論』がある〔平凡社『世界百科大事典』〕。
 大乗仏教には、「生死即涅槃/煩悩即菩提/絶対即相対/平等即差別」という達観がある。キリスト教(景教)が仏教と出逢うのは、こういう仏教である。「景」とは「光」のことであるから、「景」と大「日」とは「異字同義」である。「景教」すなわち「大日教」だと言うことができよう。支那仏教の特徴は先祖崇拝にある。これと併せて、日本の真言密教では、大日教と阿弥陀仏とを念じることで極楽浄土に往生すると教える。親鸞の肉食妻帯など、日本の仏教のこれらの特徴は景教の影響から出ているのだろうか〔佐伯『景教碑文研究』94頁〜116頁〕。
 中国の大乗仏教と関係するのは、華厳、天台、真言、浄土の諸宗である。大日経(大日如来)と阿弥陀仏、他力本願と肉食妻帯、先祖崇拝と蘭盆会などにその特徴を見ることができる。しかし、仏教の嫌世虚無は、儒教に嫌悪され、道教には排斥されることになる。中国の仏教は、三蔵法師と不空和尚によって、先祖崇拝を採り入れることで、「シナ仏教」となり、老人殺戮・病者委棄のインド仏教から、先祖崇拝・死者慰安の仏教へと姿を変える。不空和尚が景教を保護したのは、シナ仏教の成立にあたって景教との関わりがあったからだろうか。ネストリオス系の「ペルシャ教」から、その名称を「景教」(大日教)へと変えることになるが、「景」の意味は「大」と「日」からなる。「景教」の名称は、676年の高宗皇帝の時代にその初出がある。高宗皇帝は善導を厚遇し、かつ「諸州に景寺を置く」と碑文にあるから善導と景教とは関わりがあると考えられる(善導の入寂の4年前に長安にペルシャ寺が建っている)。景教の僧は剃髪である。
 このように、大乗仏教は、インド人の龍樹から中国人の善導へ、そして『往生要集』の著者である日本の源信と源空(法然)へ受け継がれ、浄土真宗の親鸞へいたるという一連の系譜が見えてくる。この仏教には、「生死即涅槃、煩悩即菩提、絶対即相対、平等即差別、僧即俗、俗即僧」の思想がある。
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