3章 景教碑文 ■景教と日本
佐伯好郎は、その『景教碑文研究』待漏書院(明治44年)(復刻版:大空社)1頁〜124頁において、次のように述べている。
現在(明治44年)の日本は、ペルー提督の渡来以来、「西洋崇拝の迷夢を打破せられ国民的自覚の第三期に入らんとする」〔佐伯『景教碑文研究』4頁〕。だから「日清日露両戦役以後の事実を出発として、外国の宣教師によりて宣伝せられし基督教さへ将に日本化せられんとするの現象を呈して」いる。かつて採り入れられた支那仏教は、今や日本仏教に変じており、漢学変体の奈良朝は、鎌倉時代の日本となり、奈良の大仏は一寸八分の観音像となった。これが和魂漢才である〔佐伯『景教碑文研究』6頁〕。
漢唐の時代には、ヨーロッパとアジアとの陸上交通によって、外国の文物が中国に伝わり、インド、ペルシア、ローマ、その他の西域諸国の文物が、漢から唐にいたる時代には、日本にも伝来していた〔佐伯『景教碑文研究』9頁/11頁〕。だから、『続日本書紀』には、ペルシア人の渡来が記されている〔佐伯『景教碑文研究』14頁〕。玄宗皇帝(在位712〜756年)当時、唐へ派遣された景教の宣教師は、エデッサあるいは、ササン朝ペルシアの医学を修めた修道院の出身者であった〔佐伯『景教碑文研究』15頁〕。唐の長安には、大秦寺が建てられたが、それは当初「ペルシア教」の「ペルシア寺」と呼ばれた〔佐伯『景教碑文研究』16頁〕。景教碑文によれば、唐時代の300年の間の約200年間、景教は国教として扱われ、ペルシア渡来の師アラボン(阿羅本)は、「鎮国大法王」として、国内の景教を統治した。阿倍仲麻呂も真備も最澄も空海も、その他幾千もの日本からの留学生たちは、この頃の「世界の長安」にあって学んだのである。当時のヨーロッパは、「暗黒時代」と称されているが、7世紀〜9世紀の唐にあって、世界の光がここを照らしていた〔佐伯『景教碑文研究』17〜19頁〕。日本で興った孝徳天皇(在位645〜654年)の大化の改新は、このような大陸の情勢に刺激されたからであり、日本の歴史が世界の歴史に入ろうとした時期にあたる〔佐伯『景教碑文研究』22頁〕。
今(明治の)の日本は、日英同盟と日露戦争を通じて、世界歴史的な戦争を遂行し、20世紀初頭の世界の歴史に入ろうとしている。景教流行中国碑は、この意味において、日唐文明の性質を明らかにするロゼッタストーンであり、日本文明を照らす一大炬火(たいまつ)である〔佐伯『景教碑文研究』24〜25頁〕。
■景教流行中国碑
景教流行中国碑は、明朝の末期の「天啓」時代(1621年〜27年)に、長安の民の一人が地面を鋤(す)いているときに偶然発見された。イエズス会のアルバレズ・スメドー(Alvarez Semedo)が、1625年に、この碑の発見に関して言及している〔佐伯『景教碑文研究』28〜29頁〕。スメドー自身が1628年に長安に入り、石碑を検証し、漢文は理解したが、その他の文字は理解できなかった。3年後の1631年に、宣教師アントニオ・フェルナンデー(Anton Fernandez)が、石碑の横文字がシリア語であることを確認した。清朝では、1805年になって、ようやく、王昶の編集による『金石萃編』の第200巻に、石碑の漢文部分が載せられている〔佐伯『景教碑文研究』32頁〕。
日本では、1814年に、幕府の書籍奉行の近藤重蔵が、王昶の『金石萃編』を通して、碑文を読破し、それが、厳禁の耶蘇(ヤソ)教であることを知った。以後、日本でこれを読む者がいなかった。明治になって、文学博士の中村敬宇が、その『天道遡源(さくげん)』に石碑の漢文を載せたが、幕府のキリシタン厳禁の余波を受けて、その存在さえも知る者がいなかった。明治40年6月10日に、アメリカのコロンビア大学のホルム教授(Prof. Fritz Von Holm)が、長安に赴いて、石碑の買収を試みたが果たせず、原石と同じ物を用いて、石碑の模造碑を彫刻して、アメリカへ持ち帰った。この模造碑が、明治41年6月16日に、ニュー・ヨークの市立中央博物館に安置され、これを契機に、景教碑文が欧米において注目されるようになった。このことが中国を刺激して、明治41年に、発掘されてから280年後に、石碑は、長安の西安府の城外にあった金勝寺(唐代の大秦寺が廃寺となった跡地に金勝寺が移転してきた)の庭から、西安城内の碑林へと移されて「国宝碑」とされることになった。この時、京都大学の桑原隲蔵(しつぞう?)博士は、その場に居合わせて目撃している〔佐伯『景教碑文研究』付録90頁〕。20世紀になり、欧米の学者が中国の文明に注目し始めると、景教碑文は、中国文明を知るために注目されるようになった。碑文の移転については、京都大学文学博士桑原隲蔵が、『藝文』第一号(明治43年/1909年4月)に「西安府の大秦景教流行中国碑」と題して載せている〔佐伯前掲書同頁〕。
こういうわけで、景教石碑は、皇帝の命令で大秦寺が廃寺にされる折に、石碑が壊されることを恐れた信徒たちが、これを地中に埋没したと考えられる。そうだとすれば、この石碑は、建てられてから、わずか60年あまりしか地上に姿を見せていなかったことになる。この期間は、奇しくも、最澄と空海の入唐の20年前から、入唐の40年あまり後の期間にあたる。石碑は、発掘されるまで、約780年間も地中に眠っていたことになる〔佐伯『景教碑文研究』41頁〕。この石碑については、欧米の学者の間で、一時偽造説が出たたことがある。しかし、後漢の2世紀頃には、ローマ(大秦)からパルティア(安息)とクシャーナ朝のバクトリア(大夏)とを経由して、銅銭や鉄貨幣を用いて、東西の交易が盛んであった。現在も遺る敦煌の石室遺書にも、唐代の景教について「惟獨神威無等力」と記されていることを思えば、現在では石碑の真正性が認められている〔佐伯『景教碑文研究42〜48頁/54〜55頁〕。これには、真正説を主張したワイリー(Alexander Wylie)や四書五経を英訳したウィリアム(Dr.Williams)や東洋学者ポチエー(M.G. Pauthier)たちの努力に負うところが大きい〔佐伯『景教碑文研究』75頁〕。
■日本における景教研究
翻(ひるがえ)って日本では、中村正直が初めて石碑に注目した後も、研究に観るべきものがない。わずかに、文学博士高楠順次郎が、1896年に、フランスの東洋研究専門学会が発行する機関誌『通報』(T'oung Pao)において、景教碑文を書いたと思われるペルシア人の景浄(「大秦寺波斯僧景浄」とある)が、当時長安に居たインドの仏僧プラジューナ(般刺若)と共に、『大乗理趣六波羅密教』を胡(こ/ウ)(唐代では西域一般を指す)のテキストから漢文に訳したことを報告し、景浄が多くの仏教用語を用いて、景教の布教に努めていたと告げている〔佐伯『景教碑文研究』英文5〜8頁〕。先に述べた桑原隲蔵博士の論文は明治43年(1910年)であり、佐伯氏の『景教碑文研究』は明治44年(1911年)である。先の文学博士桑原隲蔵(しつぞう?)による「西安府の大秦景教流行中国碑」(1909年)が契機となって、「高野山の高僧、同大學林の教授諸氏及び英国人イー・エー・ゴルドン夫人(Mrs. E.A.Gordon)」たちの協力によって、「今年(1910年)9月」〔佐伯『景教碑文研究』77頁〕に、中国の原物(?)の模型碑が高野山に建立された。なお、この高野山の模造碑は、2020年現在、京都大学文化博物館にも展示されている。
■景教の十大特徴
佐伯氏は、景教の特徴として、次の10項目をあげている〔佐伯『景教碑文研究』83〜85頁〕。
(1)マリアを「神の母」(テオトコス)とすることに反対する。カトリックとの違い。
(2)十字架を「しるし」とするが、それ以外のしるしを認めない。
(3)死者のための「亡霊慰安」の祈りを禁じないが、死後の「贖い」を認めない。カトリックとの違い。
(4)聖餐のパンと葡萄酒の「キリスト化体」説を認めず、パンと葡萄酒の「変質霊在」説を採る。カトリックとの違い。
(5)法王、(管長)、大徳、僧、執事、及び四種の教会補助者の八(九)階級制度を採る。
(6)僧侶の妻帯を禁じない。カトリックとの違い。
(7)断食励行を特徴とする。
(8)法王のみ菜食を原則とするが、高僧以下は、肉食を禁じない。
(9)法王(総管長)は、3人の管長の互選による。管長は、6人の大徳の長である。
(10)聖書と祈祷文と讃誦は、シリア語を本則とするが、ギリシア語またはラテン語の使用を禁じない。カトリックとの違い。ただし、漢文が用いられていたことは明白である。
ネストリオス派と景教へ