6章 景教碑文頌の概要
■景教碑文の皇帝たち
 景教碑文に出てくる唐代の皇帝は、初代の太宗皇帝(李世民:在位626年〜649年)と続く高宗皇帝(李治、在位649年〜6833年)に始まり、八代目の玄宗皇帝(李隆基、在位712〜756年)から続く粛宗皇帝(李亨、在位756年〜762年)、代宗皇帝(李豫、在位762年〜779年)、徳宗皇帝(李?、在位779年〜805年)まで、全部で6名の皇帝が出てくる。ただし、女帝の則天武后(武?、在位690年〜705年)の時代に、景教が揶揄と嘲笑を受けた(迫害された)ことが記されている。
 太宗皇帝の時代に阿羅本が来唐すると、皇帝は一行を手厚く迎え入れて、景教の聖なる道を民衆に教えるよう勅令を出し(638年)、大秦寺を建てて、そこに皇帝の肖像を飾った。大秦国は、宝山と花林と川の流れる美しい國で、盗難もなく平和であるとある。ちなみに、「大秦」は、『後漢書』では「拂菻」とあり、これを「エフライム」のことだとして、「大秦」は「ユダヤ民族の本国であり、支那と天山南北路を越えて(ユダヤ民族と)交通があったことを示す」〔佐伯『景教碑文研究』151〜52頁〕という指摘がある。これが、日本へのユダヤ人渡来説の元祖であろうか。
 景教の国教化に伴い、高宗の時代に、阿羅本は鎭国大法王に任ぜられ、福音は国中に溢れた。 則天武后の代に一時嘲笑を受ける時もあったが(698年〜99年)、救いの道は絶えることがなかった。玄宗皇帝は、福音堂の祭壇を修復し、大将軍の高力士を派遣し、「五聖人」(高祖/太宗/高宗/睿宗/玄宗)の肖像を掲げた。玄宗の時代に、大秦国の僧估和(きつわ)(ギワルギス)が星を見て17名と共に来唐し、皇帝の威信は国中に発揮された。粛宗は五郡(当時の唐の全域)に景教の会堂を建て、代宗は、皇帝の誕生祝いの日に、多くの食物を(景教の)信徒たちに賜わった(クリスマスにちなんで皇帝の誕生祭を行なうのは景教に始まるか)。徳宗は、八つの政策を行ない、景教の教理を理解し、國は偉大で平和であった。
 僧伊斯(イサク)は、遠いバルクより来唐した。彼は、温和で恵みに富み、武術に優れ、粛宗は彼を従軍させ、親しく交わった。彼は、軍隊を整え、皇帝の耳目となって仕えた。毎年四つの(景教の)寺の僧や信徒を集めてもてなし、飢えた者に食を与え、病める者に医療を施した。
■結びの頌
 原初に居ます真の主(神)、寂(じゃく)として変わることなし。三位一体の人なるメシアの救いは無辺、太陽を昇らせ暗闇を滅ぼし、その威信を証しす。
 太宗の世に景教は輝き、我が唐の国教となり、経典を訳し寺院を建て、民に百福と万作あり、国安(やす)らか。
 高宗の建てた精舎、高く明るく、平和遍(あまね)く中国に満ち、景教を宣教し、その法主を立て、人に楽あり、物に災苦無し。
 玄宗は、(景教の)聖道を啓(ひら)き、その真正を修(おさ)め、御真筆の額は輝き、寺門の書は映(は)え、御肖像は光り、國をあげて徳を慕い、百工の職民、広くその恩恵に頼る。
 粛宗が復位により帝威高まり、聖光照らして夜の闇を払い、幸(さち)皇室に戻りて妖気退散。乱を鎮め塵を払い、我が夏を謳歌す(これらは安禄山の乱を鎮めたことに言及)。
  代宗孝養に篤く、天地の徳に合致し、貸すに寛大、物に有効。香を炊いて天に謝し、仁を以て人に施す。陽の出る方より、月の住まう方より人集まる。
 徳宗よく統治し、徳を自らに修め、武を四海に及ぼし、文治万域に達し、燭灯隠蔽を照らす。鏡にて物観るごとく、天地東西南北を映す。百の蛮民帝に従う。
 道広くして綿密。強いて名づくれば三一と称す。主の為し能うこと、臣これを述べ、碑文を建てて、大吉を頌(たた)う。
 大唐の建中二年、一月七日、日曜日に建立。時の僧主寧恕、東方の景衆の総主教。
 
【注】建中二年(781年)は、日本では、光仁天皇の最後の年で、桓武天皇の即位の前年にあたり、平安遷都の13年前のことである。最澄の入唐は、石碑建立の21年後になり、空海の入唐は、建立の23年後にあたる〔佐伯『景教碑文研究』170〜71頁〕。
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